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琴音の恋患いに気の付かない使い魔たちではなかったけれど、それに対して打つ手はなかった。
細い細い月がまん丸くなるころ、ようやく待ちわびた枯野が見世を訪れた。
それを知るや否や、琴音は身支度もそこそこに、枯野の座敷へとすっ飛んでいった。
座敷にはふたりの禿が先に来ていて、枯野となにやら話し込んでいた。
それを見た琴音は、何故か、胸の辺りがちくりとするのを感じた。
「枯野さま!」
琴音の声に弾かれたように枯野が振り返る。
次の瞬間には、枯野は琴音のすぐ傍に立っていた。
「琴音さん、ご無沙汰しております。
お変わりはありませんか?」
枯野はそう言うと、懐から大事そうに櫛を取り出した。
「着けてもらえないと分かっていても、やっぱり、持ってきてしまいます。
せめて、琴音さんの物入れに、入れてやってください。」
それは真珠を埋め込んだ見事な細工の櫛だった。
琴音はごくりと息を飲み込んでから、櫛を手に取って、枯野を見上げた。
「枯野さま、いつか、わたくしがこれにふさわしい芸妓となりましたら。
きっと、身に着けさせていただきます。」
もう何度も何度も繰り返した言葉。
琴音にはいまだに同じ言葉を繰り返すことしかできない。
まだ。まだだ。
まだ、自分は枯野にもらった装飾品に見合う芸妓にはなっていない。
それでも、次から次にと贈ってくれる枯野には、心底申し訳ないと思う。
どれかひとつだけでも、身につけられたら。
それはどれだけ幸せなことだろうとも思う。
だけれど。
まだ。
まだだ。
琴音は小脇に抱えた琴を示しながら、枯野に問うた。
「琴を、弾きましょうか?」
「聞かせていただけるものなら。」
枯野がそう答えるのは予想した通りだ。
小さく頷いて、琴音は座敷の中央まで進むと、そこに座って琴を構えた。
ゆらのとの
となかにふれる
なづのきの
琴に触れるのは久しぶりだった。
ずっと見世が忙しくて、誰にも聞かせないように琴に触れる暇がなかった。
なのに、不思議なほどに、琴の糸は琴音の指に馴染む。
この琴を弾いているのは、なんて心地よいのだろう。
琴もまた、琴音に弾いてもらって喜んでいる。
そんなふうに琴音は感じた。
ふ、と顔をあげると、枯野は、はらはらと涙を零していた。
そのとき初めて、琴音は、枯野が、あちらこちらに小さな傷を負っているのに気づいた。
よくよく見ると、着物もあちこち、破れたりほつれたりしている。
琴音は琴を置くと、枯野の傍に駆け寄った。
「枯野さま?
お怪我をなさったのですか?」
「・・・あ。いや。
今回は、少々、仕事が、厄介で・・・」
枯野は言い訳するように言いながら、琴音から視線をそらせた。
琴音は回り込むようにしてその視線を捉えながら、枯野の腕を掴んで言った。
「傷の手当をさせてくださいませ。」
「あ。いえ。
こんなものは、唾をつけておけば・・・」
「いけません。」
きっぱり言い切られて、驚いたように枯野は琴音を見る。
その目と目が合って、琴音は、満足げに頷いた。
「わたくしに、お任せくださいませ。」
「・・・あ。
よろしくお願いします。」
自信たっぷりな琴音に、枯野は素直に頭を下げた。
途端に琴音は嬉しそうになると、いそいそと軟膏を取りに走った。
「治癒の術くらい使えばよかろうに。」
琴音の後ろ姿を見送りながら、椿が枯野に言う。
「・・・すいません。
妖力が少々・・・」
枯野は言い訳をするように言った。
「まあまあ。
あるじさまも、妖力の回復を待つより早く、琴音さまに会いたかったのでしょう?」
山茶花は訳知り顔で頷いて見せる。
それに枯野は真っ赤な顔をしてそっぽをむいた。
「・・・恩人に、なるべく早く、恩を返したいだけ、です。」
「ああ。はいはい。」
「そういうことにしておきましょう。」
使い魔たちは、生暖かい目をして笑っていた。




