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女衒に連れられて花街に着いたサヤは、その華やかさに目を丸くした。
どこもかしこも、高価な油を使った灯りを灯し、夜だというのに、街ごと明るく輝いている。
道行く人々は、男も女も皆着飾り、楽し気な笑い声を立てていた。
ここは話しに聞く極楽というところだろうか。
そんなことを考えながら女衒について歩く。
女衒は、きょろきょろと物珍し気に辺りを見回すサヤを、こっちにおいでと急がせた。
華やかな表通りを通り過ぎ、うら寂れた薄暗い通りに、その見世はあった。
あまりにもオンボロなその建物に、サヤは目を丸くした。
がらがらと音を立てて扉を引き開けると、女衒は見世の奥に向かって大声で呼ばわった。
「おおーい。姫さんを連れてきましたぜ?」
ほーい、と声がして姿を現したのは、少し腰の曲がった老爺だった。
薄暗い見世のなかに、往年の華やかさは、もう影も残っていなかった。
襖や衝立に描かれた絵は、色褪せ、ところどころ剥げている。
絵に描かれた美人も、どこか物悲しい幽霊のように見えた。
さっきのが極楽なら、ここは、お化けの棲む墓場だ。
子ども心にも、とんでもないところに連れてこられた、とサヤは思った。
老爺はにこにことサヤに話しかけた。
「おうおう、よう来られた。
名は?なんという?」
「・・・サヤ・・・」
サヤはびくびくしながらも答えた。
老爺の笑顔は温かくて、なんだか仏様みたいだと思った。
「サヤ、か。
しかし、ここではその名ではいかぬのう。
さて、名はなんとしようか。
サヤ・・・サヤ・・・清けし・・・清か・・・」
「あんたの名前は、琴音、だよ。
それだけはもう、決めてあるんだ。」
そう言って姿を現したのは、年増を少し過ぎたくらいの妓だった。
ほっそりとしなやかな姿態は若柳の枝のようで、なんともいえぬ美しさを漂わせている。
寝ていたのか、少し乱れた髷や着物も、かえって、その姿に艶を付け足しているようだった。
「あたしは、風音。
あたしの名から音を取って、あんたは琴音。
いいね?」
姿に似合わぬぱきぱきとした物言いで、風音はそう宣言した。
そのときから、サヤは琴音になった。
「おうおう、太夫。
寝ておらなくとも、いいのか?」
老爺は心配するように風音に駆け寄ろうとした。
しかし、足が弱っているのか、素早くは動けない。
その老爺に、こちらに来るなと言うように、風音はぴたりと手のひらを立てて見せた。
「今日は具合がいいんだ。
それに、待ちに待った新しい禿が来るってのに、寝てなんかいられないよ。」
「確かに今日は太夫の顔色もよさそうだ。
どうだい、この娘は?
太夫のお眼鏡に適うといいがね。」
女衒は顔見知りなのか風音に気安く話しかけた。
風音はそれにゆったりと微笑んで返した。
「おじさんの目に狂いはないだろ?
なにせ、このあたしを選んだものおじさんだからね?」
「ああ、確かにその通りだ。」
女衒は明るく笑うと、琴音のほうをむいて言った。
「このじいさまは、地獄で子どもを救う地蔵菩薩さまのようなお方だ。
ここは一見お化け屋敷のようだが、表通りの似非極楽に比べれば、よほど極楽。
お前様も、そう心得て、心底お仕えするとええ。」
琴音は神妙な顔で頷くと、風音を見上げて、知る限り一番丁寧に頭を下げた。
「よろしく、お願いいたします。」
目を上げると、風音の楽しそうな目と目が合う。
風音はにこにこと言った。
「あたしはもう働けないからさ。
これからは、あんたがこの見世を守っていくんだよ?」
突然、背中にのしかかってきた重責に、琴音は目を白黒させた。
すると、風音は、おかしそうに、ははは、と笑った。
「なんてね。ウソウソ。
まだもうしばらくは、あたしも頑張るからさ。
あんたのこと一人前にするまではね。」
小さな妹をからかうように、風音は付け足した。
「なにせ、あたしの厳しいしごきに耐えられる娘を、って、おじさんにはお願いしといたからねえ。
明日から、楽しみにしておいでよ?」
真に受けて、ごくり、と生唾を呑む琴音に、周りの大人はみな笑った。
「この娘なら、大丈夫だ。
心根も真っ直ぐだし、芯も強い。
なにより、優しい心を持っている。
可愛がってやっておくれ。」
女衒はそう言い残すと、じゃあ、そろそろ、と言って帰っていった。
風音も、じゃあ、あたしも、と言って、脇の部屋へ入ろうとする。
けれど、その前で、ぴたりと足を止めると、振り返りもせずに言った。
「だから、じっちゃんは、こっち来なくていいって。
伝染ったら困るから。
後で、じっちゃんのおかゆ、いつもみたいに置いといて。」
それだけ言うと、後ろ手に手を振って、そのままぴしゃりと襖を閉めた。
琴音が隣を見ると、半分、腰を浮かせかけたまま、気まずそうに笑う老爺と目が合った。