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そのときだった。
突然、襖が開き、そこに仁王立ちになっていたのは、見世の老婆だった。
「・・・その、琴は・・・」
老婆は琴音の抱えた琴を指さして、呻くように言った。
「ぬしさまの、贈り物です。」
琴音の応えるのも待たず、老婆はつかつかと歩み寄ると、琴音の手から琴を奪い取った。
「これを弾いちゃいけない。」
呆気にとられる琴音から琴を取り上げて、老婆はそう宣言した。
「これは、魔の琴だ。
これを弾いては不幸になる。」
「魔の琴?」
「試練の琴だと。潮音はそう言うておったよ。」
「シレンの琴?」
そう繰り返した枯野を老婆はじっと見た。
「潮音はこの琴をそれはそれは美しく弾きこなしておった。
この琴を弾きながら、謡を謡っておった。
その芸は、遠く、京にまで評判の届くほどのものじゃった。
音曲好みのお客たちは、連日連夜、行列を成すほどに押し掛けた。
みな、潮音の琴の音と謡とに聞き惚れておった。」
母は琴の名手だった。
父はその母の琴の音に惹かれて、母の元に通っていた。
枯野は父からそう聞かされていた。
琴音もまた、その話は風音から聞いていた。
「お陰様で見世も大繁盛。万々歳だった。
しかし、次第次第に、潮音の謡を聞く客たちが、おかしくなっていった。
目の色を変え、魂を飛ばし、呆けたようになった。
突然、水に飛び込み、命を落としかけた方もあった。」
「それは、本当に、琴の音のせいだったのですか?」
琴音の問に、老婆は力なく首を振った。
「本当のところなど、誰にも分らんよ。
けれど、京の大臣様まで、そのようなことになって、このままでは放っておけないとなった。
そうして潮音は、人心を惑わす妖婦として、追討される身となった。」
その潮音を枯野の父親は連れて逃げた。
「潮音がいなくなってから、どうしたことか、その琴は、うんともすんとも音を立てなくなった。
そんな壊れた琴を、風音は大切にしまっておいた。
いつか、潮音が帰ってきたときのために、と言ってね。
あの妓は、潮音のことを、実の姉のように慕っていたから。」
けれど、いよいよ、見世が立ち行かなくなったとき、風音はとうとうその琴を売った。
そうしてその金子で、琴音を見世に迎え入れた。
ゆえに、琴音は、その名に、琴とつけられたのだ。
「なんだってまた、この琴は、ここに戻ってきちまったんだろう?」
老婆は忌々しそうに琴を眺めた。
枯野は、肩を小さく竦めて、申し訳なさそうに言った。
「俺が、持ってきました。
けど、ご迷惑だったんなら、持って帰ります。」
「お待ちください!」
きっぱりとそう遮ったのは琴音だった。
「どうか、この琴、このままわたくしにお預けください。
この琴は、枯野様の他の人の前では決して弾かないとお約束します。」
琴音は懇願するように畳に額をこすりつけた。
「この琴は、枯野様の、大切なお母様の形見なのでしょう?
そんな琴が、枯野様に悪いことなど、するはずありません。」
琴音の脳裏には、琴の音を聞いて、ほろほろと涙を溢した枯野の姿が焼き付いていた。
何を聞いても、何をやっても、褒めることしかしない枯野が、初めて、心を動かしてくれた。
その琴を、琴音はどうしても、手元に置いておきたいと思った。
琴音のそんな姿に、老婆は戸惑うように視線を泳がせた。
老婆とて、憎くてこんなことを言うわけではないのだ。
ただただ、琴の禍を再び起こさぬよう。
その一心なのである。
「ふむ。確かに、この琴、妖気を帯びておる。」
そう言ったのは椿だった。
「悪い気ではありませぬ。
あまりに美しい花が人の心を惑わすごとく。
この琴もまた、人を惑わしてしまうのです。」
そう言ったのは山茶花だった。
「しかし、わがあるじどのには、母御の形見。」
「あるじさまならば、琴の音に惑わされる心配はありません。」
「ならば、持ち帰って保管するとしよう。」
「しかし、あるじさまには、琴を弾くなどという高尚な技もなく。」
山茶花は枯野を見て、少し困ったように笑った。
「琴というものは、弾いてやらねば、壊れていくものだ。」
「母御の形見を、ただ壊れるに任せておくのも、また不憫な話です。」
山茶花はわざとらしくため息を吐いた。
「ならば、わたしが!
琴の手入れなら、多少は分かります。
毎日弾いて、律も狂わぬようにいたします。」
名乗りをあげる琴音に、椿も山茶花もうなずいた。
「そういうことだ、おばばどの。
この琴、枯野のためと思うて、琴音どのに預けてくださらんか?」
「他の方の前では弾かぬと。
それだけ守ってくださるなら、問題はないと思います。」
ふたりに説得されて、老婆は困ったように琴音と枯野の顔を見回した。
「誰にも、秘密にいたします。」
琴音はもう一度、手をついて頭を下げた。
「そうしては、いただけませんか?」
枯野も琴音の真似をして頭を下げた。
この場の全員から説得されて、老婆は困ったように笑った。
それから、分かった、と頷いた。
「そうまで言うのなら、仕方あるまい。
しかし、決して、他へは知られてはならぬ。
それだけは、守ってくだされ。」
そう言って、琴を琴音に返してやった。




