表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
枯野と琴  作者: 村野夜市
28/124

27

そのときだった。

突然、襖が開き、そこに仁王立ちになっていたのは、見世の老婆だった。


「・・・その、琴は・・・」


老婆は琴音の抱えた琴を指さして、呻くように言った。


「ぬしさまの、贈り物です。」


琴音の応えるのも待たず、老婆はつかつかと歩み寄ると、琴音の手から琴を奪い取った。


「これを弾いちゃいけない。」


呆気にとられる琴音から琴を取り上げて、老婆はそう宣言した。


「これは、魔の琴だ。

 これを弾いては不幸になる。」


「魔の琴?」


「試練の琴だと。潮音はそう言うておったよ。」


「シレンの琴?」


そう繰り返した枯野を老婆はじっと見た。


「潮音はこの琴をそれはそれは美しく弾きこなしておった。

 この琴を弾きながら、謡を謡っておった。

 その芸は、遠く、京にまで評判の届くほどのものじゃった。

 音曲好みのお客たちは、連日連夜、行列を成すほどに押し掛けた。

 みな、潮音の琴の音と謡とに聞き惚れておった。」


母は琴の名手だった。

父はその母の琴の音に惹かれて、母の元に通っていた。

枯野は父からそう聞かされていた。


琴音もまた、その話は風音から聞いていた。


「お陰様で見世も大繁盛。万々歳だった。

 しかし、次第次第に、潮音の謡を聞く客たちが、おかしくなっていった。

 目の色を変え、魂を飛ばし、呆けたようになった。

 突然、水に飛び込み、命を落としかけた方もあった。」


「それは、本当に、琴の音のせいだったのですか?」


琴音の問に、老婆は力なく首を振った。


「本当のところなど、誰にも分らんよ。

 けれど、京の大臣様まで、そのようなことになって、このままでは放っておけないとなった。

 そうして潮音は、人心を惑わす妖婦として、追討される身となった。」


その潮音を枯野の父親は連れて逃げた。


「潮音がいなくなってから、どうしたことか、その琴は、うんともすんとも音を立てなくなった。

 そんな壊れた琴を、風音は大切にしまっておいた。

 いつか、潮音が帰ってきたときのために、と言ってね。

 あの妓は、潮音のことを、実の姉のように慕っていたから。」


けれど、いよいよ、見世が立ち行かなくなったとき、風音はとうとうその琴を売った。

そうしてその金子で、琴音を見世に迎え入れた。

ゆえに、琴音は、その名に、琴とつけられたのだ。


「なんだってまた、この琴は、ここに戻ってきちまったんだろう?」


老婆は忌々しそうに琴を眺めた。

枯野は、肩を小さく竦めて、申し訳なさそうに言った。


「俺が、持ってきました。

 けど、ご迷惑だったんなら、持って帰ります。」


「お待ちください!」


きっぱりとそう遮ったのは琴音だった。


「どうか、この琴、このままわたくしにお預けください。

 この琴は、枯野様の他の人の前では決して弾かないとお約束します。」


琴音は懇願するように畳に額をこすりつけた。


「この琴は、枯野様の、大切なお母様の形見なのでしょう?

 そんな琴が、枯野様に悪いことなど、するはずありません。」


琴音の脳裏には、琴の音を聞いて、ほろほろと涙を溢した枯野の姿が焼き付いていた。

何を聞いても、何をやっても、褒めることしかしない枯野が、初めて、心を動かしてくれた。

その琴を、琴音はどうしても、手元に置いておきたいと思った。


琴音のそんな姿に、老婆は戸惑うように視線を泳がせた。

老婆とて、憎くてこんなことを言うわけではないのだ。

ただただ、琴の禍を再び起こさぬよう。

その一心なのである。


「ふむ。確かに、この琴、妖気を帯びておる。」


そう言ったのは椿だった。


「悪い気ではありませぬ。

 あまりに美しい花が人の心を惑わすごとく。

 この琴もまた、人を惑わしてしまうのです。」


そう言ったのは山茶花だった。


「しかし、わがあるじどのには、母御の形見。」

「あるじさまならば、琴の音に惑わされる心配はありません。」


「ならば、持ち帰って保管するとしよう。」

「しかし、あるじさまには、琴を弾くなどという高尚な技もなく。」


山茶花は枯野を見て、少し困ったように笑った。


「琴というものは、弾いてやらねば、壊れていくものだ。」

「母御の形見を、ただ壊れるに任せておくのも、また不憫な話です。」


山茶花はわざとらしくため息を吐いた。


「ならば、わたしが!

 琴の手入れなら、多少は分かります。

 毎日弾いて、律も狂わぬようにいたします。」


名乗りをあげる琴音に、椿も山茶花もうなずいた。


「そういうことだ、おばばどの。

 この琴、枯野のためと思うて、琴音どのに預けてくださらんか?」

「他の方の前では弾かぬと。

 それだけ守ってくださるなら、問題はないと思います。」


ふたりに説得されて、老婆は困ったように琴音と枯野の顔を見回した。


「誰にも、秘密にいたします。」


琴音はもう一度、手をついて頭を下げた。


「そうしては、いただけませんか?」


枯野も琴音の真似をして頭を下げた。


この場の全員から説得されて、老婆は困ったように笑った。

それから、分かった、と頷いた。


「そうまで言うのなら、仕方あるまい。

 しかし、決して、他へは知られてはならぬ。

 それだけは、守ってくだされ。」


そう言って、琴を琴音に返してやった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ