26
いつものように広間に通された枯野は、そわそわと琴音を待っていた。
老爺の作った料理が、ほかほかと湯気を立てながら運ばれてくる。
料理を運んできた老婆は、落ち着きなく視線を泳がせる枯野に笑って言った。
「琴音なら、もう少しすれば来るじゃろう。」
枯野はうんうんと頷く。
本来なら、こんな時間に見世に来る自分のほうが悪いのだ。
身支度もなにも、できているはずもないのだから。
それでも、琴音はいつも、嫌な顔ひとつせずに、急いで身支度をして来てくれる。
なのに、身支度なんか適当でいいから、早く来てくれないかな、などと、思ってしまう。
そんな自分が悪いのだ。
そんな枯野には素知らぬ顔で、使い魔たちは膳につく。
老爺もまた、こんな早朝から訪れる枯野たちに、嫌な顔ひとつせず、食事の支度をしてくれた。
微妙に違うそれぞれの舌に合わせた、それはどれも特別な料理だった。
よくぞまあこれほどまでに、それぞれの好みを見抜いたものだ。
料理の腕もさることながら、僅かな好みの違いを見抜くその老爺の目もまた、素晴らしい技だった。
そんな心づくしの膳を前にしながら、気もそぞろに、枯野は琴音を待っていた。
今度こそ。今度こそ。
今回はいつもとはちょっと違う。
琴という贈り物は、今まで一度もしたことがない。
琴音の反応が見たい。
もしかしたら、ひょっとしたら、今度こそ、喜んでもらえるかもしれない。
身につけるものではないのだから、今度こそ大丈夫だろう。
もしかしたら、手すさびに、ちらりと、弾いて見せてくれるかもしれない。
待ちわびた琴音が姿を現したときには、枯野は、座敷の端から入口まで、一瞬で移動していた。
「っこ、琴音さんっ!」
相変わらずうまく言える言葉もなく、琴音にずいっと巾着を突き出した。
枯野なら片手に収まるほどの巾着も、琴音にとっては両手に抱えるほどに大きい。
琴音は怪訝な顔をしてそれを受け取った。
「っあ、っこ、こちらへ。」
どちらが見世の者なのか、枯野は琴音を座敷の真ん中へといざなっていく。
衣擦れの音をさせながら、琴音はゆっくりと座敷の中央へと歩を進めた。
琴音がゆったりと腰を下ろすと、枯野はその前に正座をして、ずいっと琴音の顔を覗き込んだ。
期待に満ち満ちたその視線に、琴音はやや戸惑いながら、巾着を開いた。
「まあ。」
琴音のあげた感嘆の声は、枯野を喜ばせるには十分だった。
枯野は、にこにこと歓びを隠せない笑顔になって、琴音のすることをじっと見守った。
琴音は巾着から琴を取り出すと、しげしげとそれを観察した。
淡く七色に光る胴は貝殻でできている。
糸の素材は分からない。
それは、琴音の目にしたことのない珍しい琴だった。
「これは、琴、ですか?」
尋ねた琴音に、枯野はうんうんと頷いた。
京もこれは琴だと言っていた。
琴というのは間違いない。
「どうやって鳴らすのでしょう・・・」
戸惑うように、琴音はその琴をそっと畳の上に横たえた。
それを見た枯野は、琴を渡してほしいと言うように、琴音のほうに手を伸ばした。
琴音が枯野に琴を手渡すと、枯野は、京に教わったように、琴を小脇に構えた。
枯野の指が糸に触れるや否や、得も言われぬ音を立てて琴は鳴った。
琴音が目を丸くした。
「なんと、美しいこと!」
琴音の反応に、枯野は大満足の笑みになった。
枯野は鳴らしてみろとばかりに、琴を琴音に手渡した。
「こう、するの、かしら?」
見よう見真似で、琴音は琴を構えた。
その細い指が糸を弾くのを、枯野は食い入るように見つめていた。
枯野ほどの音色ではなかったが、琴は、琴音の指に合わせてよい音を立てた。
その瞬間の枯野の表情は、琴音のほかに見た者はいなかったけれど。
この上ない至福を形にすれば、こうなるに違いないと言った顔をしていた。
嬉しい嬉しい嬉しい。
もうそれ以外には何もない。
この世で一番、幸せな顔をしていた。
琴や三味も、ある程度は琴音は修めていた。
琴音は、糸の張り具合を調節して軽く調律すると、琴を弾きながら早速、謡った。
ゆらのとの
となかにふれる
なづのきの
さやりさやさや
さやりさや
懐かしい。
それは風音に習った謡だった。
枯野はまばたきも忘れて、琴音のすることをじっと見つめていた。
謡い終えた琴音は、顔を上げて、そんな枯野のほうを見つめ返した。
いつもなら、素晴らしいと叫びながら、両手がかゆくなるまでうち鳴らすのだけれど。
今日の枯野は、いつもとは少し違っていた。
枯野の視線は、琴音のほうをじっと見つめたままだった。
切れ長の細い目は、いつもなら、あまり瞳を見せないのだけれど。
今は、翡翠の玉のような綺麗な色の瞳が、真ん丸に見開かれていた。
その瞳が、みるみる間に濡れて光った。
それから、水晶の玉のような涙の粒が、ぽろりぽろりと枯野の目から零れて落ちた。
「まあ!ぬしさま?」
驚いた琴音が声を上げると、枯野は、はっとしたように顔を伏せた。
綺麗な翠色の瞳を隠されて、琴音は、少し残念だった。
「・・・すまない・・・あまりにも、貴女の謡が、素晴らしくて・・・」
枯野は絞りだすようにそう言った。
それは、今までもらったどの賞賛の言葉より、琴音の胸に響いた。
「・・・すまない。
力一杯手を打ち鳴らし、声の限りに素晴らしいと叫びたい、のです。
そうすべきだと、頭は分かっているのに。
今、俺は、胸が打ち震え、身動きすら、できません。」
それ以上の賞賛があっただろうか。
琴音の瞳からもまた、玉のような涙が転がり落ちた。
「ぬしさま。このような素晴らしい贈り物。有難う存じます。」
琴音は枯野に丁寧に頭を下げた。
「わたしはまだ、ぬしさまの贈り物を身に着けられる身の上ではございません。
けれども、この琴だけは、もはや、弾かずにしまっておくことなど、できません。」
琴音の言葉に枯野は応えることはできなかった。
ただ、うつむいたまま、うんうんと何度もうなずいてみせた。




