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枯野と琴  作者: 村野夜市
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錦の巾着を小脇に抱えて、枯野は足を急がせていた。

巾着は、京が気を利かせて、琴のおまけにとつけてくれたものだ。


今度こそ、今度こそ、琴音はこれを気に入ってくれるだろうか?


枯野の贈ったものを、琴音は一度として身につけてはくれない。

よほど自分には、審美眼というものがないのだろう。

いや、違う。

京の作る細工物は、文句なしに美しい。

それなのにだめなのは、自分の選ぶものが琴音の望みからはかけ離れているからだ。


もしかしたら、琴音は、枯野の贈り物を身に着けること、を厭うていたのかもしれない。

好きでもない相手からもらったものを身に着けるのは、なるほど、嫌なものだろう。

それなのに、次々と押し付けてしまって、なんて自分は愚かだったのだろう。

もっと早く、それに気づくべきだった。


過去の過ちは、取り消すことはできないけれど。

せめて、それを取り返す努力はしたい。

この琴を見つけたとき、もしかしたら、と思った。

身に着けるものでなければ、琴音も使ってくれるのではないか。


人によって鳴らせたり鳴らせなかったり、いわくありげな琴ではあるけれど。

見た目だけでも、たいそう美しいのは間違いない。

南方渡りの、変わった琴だ。

座敷の隅に飾りにしても、まあ、悪くはないだろう。


いまだに枯野は、贈り物を琴音に喜んでほしい、笑ってほしいと思う気持ちを消すことができない。

こんなことだから、だめなのだろうとは思っているけれど。

ともすれば、琴音の笑顔を見たい、と望む自分に、気づいてしまう。

そんな自分をあさましく思う。思うけれど、止められない。


琴音さんの、笑顔を、見たい。


それは、焼き付くほどに強い思い。

胸を焦がし、魂をふり絞り、それでも望み続けてしまう。


謡を謡う琴音の声は、まるで天上の楽の音か。

舞を舞う琴音の姿は、この世に降りた天女か。

目も心も奪われ、ここがどこかも分からなくなる。

そうして過ごす時間は、枯野の魂をいつも癒してくれる。


けれど、枯野が切望するのは、それとは少し違う琴音の笑顔だった。

もちろん、芸妓としての琴音も、言葉にできないくらいに美しいけれど。

ふとしたときに、ほろりと零れる笑みが、それはそれは極上の宝物に思えるのだ。


そうそれは、昔、おにぎりを分けてくれたときに、見せてくれたあの笑顔。

眩しくて、心に焼き付いて、消せなくなった。

それと同じ笑顔を、今でもときどき、琴音は見せてくれる。

そして、枯野はその笑顔と引き換えになら、身も心も魂も、全部差し出しても惜しくはない。


どれほどに恐ろしいお役目でも、琴音のあの笑顔を思い出せば、乗り越えられた。

俗世のおぞましさも何もかも、あの笑顔は浄化してしまう。

枯野自身のあさましさすら、受け容れ赦す微笑みだ。


こうして今、自分が生きていられるのは琴音のおかげだ。

その恩を返そうと、ずっと思っているはずだ。

恩返しに見返りを求めるなど、端から間違えているのだけれど。

笑ってほしいと望むなんて、間違えているのだけれど。


琴音の笑顔は、枯野の命も同然だと思う。

仕事をひとつ果たせば、琴音のところに会いに行ける。

どんなに辛いお役目も、そのためになら、軽い試練だ。


早朝の花街は、意外なほどに活気があった。

泊まりの客や娼妓たちは、まだまどろみのなかにいる時刻だけれど。

見世を支える裏方たちは、起きだしてもう働いているのだ。


気の急く枯野の足は、つむじ風のように速い。

その両脇を、童女姿の使い魔たちは、少しも遅れず、ぴたりとついていく。

その足はよく見ると地面には付かずに、ほんの少し宙に浮いているのだけれど。

それに気づく者はいなかった。


表通りを抜けて、裏通りの寂れた辺りを、まっしぐらに進む。

角を曲がった瞬間から、枯野の目は一点を見据えている。

運がよければ、早朝、掃除をする琴音の姿を見ることができる。


しかし、今朝は、もう掃除は済ませてしまったようだ。

仔狐の届けた梅の小枝も、入口のところに挿してあった。


少しばかりがっかりして、けれど、それとは逆に期待が膨らむ。

見世の奥から、はあい、と応えて出てくる琴音の姿も、なかなかに悪くない。

朝、まだ化粧気のない顔も。濡れた手を、前掛けで拭く仕草も。

乱れた前髪が、ちらりと頬に落ちるのも。こっそり欠伸をかみ殺すのも。


とにかく、何をしていても、琴音は素晴らしい。

しゃっくりをしても。くしゃみをしても。

この間、そう言ってみたら、少々鼻白んだ顔をされたけれども。

そんな表情すら、悶絶しそうに、愛らしい。


もうじき、琴音に会える。

期待は胸のなかで膨らんでいく。

琴音の姿を見られなかったからこその、これは快楽。

嬉しくて嬉しくてたまらない気持ちが、全身を駆け巡る。


早く早く。琴音に会いたい。

逸る気持ちに背筋がぞくぞくとした。

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