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枯野が見世を訪れるのはきまって早朝だった。
老夫婦は枯野を裏の私室に案内するけれど、枯野は、それはいつも固く固辞した。
代わりに、見世の一番いい座敷を取る。
そこで食事をして、少しばかり休憩をすると、いつも日の暮れる前には帰っていった。
いくらからだの大きな枯野といえども、大広間にぽつんと座っているのはなんとも寒々しい光景だ。
それでも、枯野はそこがいいと言って譲らない。
そうして帰りには、いつも部屋代として、多くの金子を置いていった。
見世としては、正直、これにたいそう助けられている、というのも事実だった。
老夫婦はそんな枯野を、せめて心を尽くしてもてなした。
老爺は若いころ、どこか有名な料亭で働いていたという経歴の持ち主だ。
その料理の腕は、いまだ衰えず、というより、なおいっそう進化していた。
客の舌に合わせて、塩加減や温度を、微妙に調節してみせる。
その能力を枯野へのもてなしに最大限活用したのである。
あまり感情を表には出さない枯野だったけれど、老爺の鋭い目は、その微妙な変化も読み取った。
好き嫌いもせず、出されたものは行儀よく平らげる枯野も、本当は酸味が少しだけ苦手だった。
それを見抜いた老爺は、枯野への料理の味付けを、微妙に変化させた。
結果、老爺の料理を食べる枯野は、少しばかり、行儀が悪くなってしまった。
あまりのおいしさに、箸が止まらず、礼儀も忘れて、がつがつと頬張るようになったからだった。
老爺の技には、口煩い使い魔たちにも、文句のつけようがないようだった。
幼い童女の姿をしているけれど、ふたりとも、びっくりするくらいよく食べる。
ましてや、老爺の絶品の料理となれば、際限なく、いくらでも入るようだった。
食べっぷりのいい三人に料理を作るのは、老爺にとっても楽しい仕事らしかった。
曲がりかけていた腰も、いつの間にかしゃんと伸びた。
あっという間にきれいに空になる皿を見ては、ますます腕を振るう。
すると老爺の料理は、もっと美味しく、もっと美しくなっていく。
それにつられて、枯野たちの食欲も、ますます増進していった。
長くひとり暮らしをしていた枯野は、自分のからだのことに気遣ったことはあまりなかった。
腹が減れば、狐の姿になって、木の実や草の実、野ネズミなどを獲って食べていた。
けれど、老爺の料理を食べるようになってから、肌や髪の色も、艶々と美しくなっていった。
こころなしか背も少し、また伸びたようだった。
最初、見世に来たころには、枯野の髪は、野原の枯れすすきが絡まったような状態だった。
あるとき、老婆は風呂を沸かして、枯野に入るように勧めた。
枯野は風呂に入っても、頭はざあざあと湯をかけるだけでろくに洗っていなかった。
老婆はそれを丁寧に洗い、櫛で解きほぐしてやった。
すると、それはまるで、波打つ金の糸のような美しい髪になった。
たっぷりと肩を覆いつくすその髪を、老婆は、綺麗な色の紐で結わえてやった。
たったそれだけのことで、枯野は見違えるような美しい若者になった。
その姿を見た全員、思わず言葉を失って、目を丸くした。
枯野のその姿に、老婆は、笑いながら目頭を抑えていた。
枯野の髪と瞳の色は、潮音にそっくりだったからだった。
琴音はまじまじとその枯野を見てから、はっとしたように目を逸らせた。
枯れ葉の絡まったぼさぼさ頭に日向くさい匂いのする枯野を、嫌だと思ったことはなかったけれど。
こんなに美しい姿を隠していたなんて、反則だと思った。
頬が熱くてたまらない。
思わず逃げ出して、井戸で何度も何度も顔を洗った。
もっとも、せっかく老婆が整えてやっても、数日すると、枯野の姿はまた元通りになってしまった。
そうしてまた見世にやってくるときには、頭に枯れ葉を絡ませた姿になっていた。
けれど、老婆にとっては、そんな枯野の世話をしてやるのも、また楽しみなようだった。
せめてものもてなしにと、琴音は、自らの芸のありったけを披露した。
枯野は、琴音の芸を、絶賛した。
惜しみなく拍手を送り、素晴らしいと連呼した。
それに琴音はずいぶん励まされる心地がした。
しかし、しばらくすると、琴音は、枯野の評価はあてにならないと思うようになった。
枯野は、何を見せても、舞の途中ですっころんでも、謡の調子を外しても、素晴らしいと手をたたく。
なんなら、くしゃみをしただけでも、今のくしゃみが素晴らしいなどというのである。
枯野とは反対に、使い魔たちの評価は辛かった。
謡も舞もぜんぜんなっていないと、平気で酷評した。
ただ、使い魔たちはそれだけでは済ませなかった。
「どれ、いっちょ、この椿さんが、お手本を見せて進ぜよう。」
そう言って踊りだしたのは椿だった。
「ならば、わたしは、謡いましょう。」
山茶花はそう言うと謡い始めた。
山茶花の謡に合わせて椿が踊る。
童女の形をしているのに、ふたりの謡や舞には華があった。
それをすぐに見抜いた琴音は、ふたりの前に手をついて頭を下げた。
「椿先生。山茶花先生。
どうか、わたしに、謡と舞の稽古をつけてくださいませ。」
ふたりは一瞬顔を見合わせてから、にんまりと微笑んだ。
「うむ、よかろう。」
「このようなものでよろしければ、いくらでも、教えて差し上げますわ。」
ふたりはあっさりと快諾した。
先生と呼ばれたのが、まんざらではなかったらしい。
使い魔たちはなかなかに手厳しい師匠だった。
それでも、琴音はそれによくついていった。
広い座敷は、舞や謡の稽古をするには、ちょうどよかった。
老爺の料理を心行くまで堪能した後、そこは琴音の芸の稽古場になった。
かくして、琴音の芸にも、ますます磨きがかかっていった。
老爺の料理と琴音の芸と。
一年が経つころには、それを目当てに訪れる客も、ちらりほらりはあるようになった。
それもこれも枯野のお陰と、皆してそう言うのだった。




