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琴音は自室として与えられた部屋に座って、小さなため息を吐いていた。
その前には柳行李が置いてあって、中にはびっしり、小間物が詰まっていた。
螺鈿の細工の施された、簪や櫛。それから色とりどりの髪結い紐。
どれも意匠を凝らせるだけ凝らした見事な逸品ばかりだ。
あれから、枯野は来るたびにひとつずつ、土産と称して小間物を持ってきてくれる。
けれど、琴音はそのどれも、一度も身に着けたことはない。
いつか一人前の芸妓になったら身に着けよう。
そう思っているけれど、琴音はまだ、それを自分に許せる気がしないのだ。
琴音はそのなかから、迷うことなく、ひとつの櫛を取り出した。
それは、枯野が、初めて琴音に渡した、あの櫛だった。
その櫛は、驚くほどに見事な品だったけれど。
後から思えば、それはまだ序の口だった。
枯野の持ってくる品は、回を重ねるごとに、ますます立派な贅沢なものになっていった。
もしかしたら、枯野は、最初の櫛を琴音が気に入らなかったのだと思ったのかもしれない。
そうではないと、なんとか説明しようとしたけれど、それはうまく伝わらなかったようだ。
最初の櫛ですら、身に余る気がして着けられなかったものを。
それより立派な品など、到底、着けられなくて。
結局、こういう事態になってしまっている。
櫛には螺鈿の細工で秋の紅葉が描かれている。
その紅葉の葉っぱのひとつひとつを、琴音はそっと指先でなぞった。
もう何度、これを繰り返したことだろう。
あのとき。
枯野が無造作に懐から取り出したこの櫛の美しさに、琴音は一目で心を奪われていた。
ため息が出るほどに美しいその櫛には、どことなく見覚えもあった。
花街に売られてきたときに、女衒が市で買ってくれた櫛。
あの櫛もたしか、紅葉の柄だった。
女衒は、あの櫛を、お前の花嫁道具だ、と言って、髪に挿してくれた。
けれども、琴音は、それを、罠から助けた仔狐の代わりに置いてきた。
琴音が櫛を失くしたことを、女衒は気づいていたのかいなかったのかは分からない。
ただ、それを咎めた人はいなかった。
あの櫛は確かにきれいな櫛だった。
あんなに綺麗なものは、それまで見たこともなかった。
けれど、仔狐の代わりにするのに、惜しいとは少しも思わなかった。
むしろ、猟師を困らせずに仔狐の命を救うことができて、よかったと思った。
枯野がこの櫛をくれたとき、琴音の脳裏にはその記憶が一気に甦った。
もうずっと忘れていたはずなのに、櫛に描かれていた紅葉の柄まで、はっきりと思い出した。
花嫁道具だ、と女衒の言ったのまで思い出した。
いったんは失ったそれを、今目の前で、枯野が差し出している。
失ったのは自分の意志で、そこに後悔なんて微塵もなかったのだけれど。
それをもう一度くれたのが、枯野で、枯野が、花嫁道具を自分に渡そうとしてくれたわけで・・・
一気に頭に血が上った。
枯野にそんなつもりはないに違いない。
客が芸妓に手土産を渡すというのはよくあることで。
これだって、そのひとつに過ぎないのだ。
そこに特別な意味なんてなにもない。
なにもない、はずなのに・・・
それが、あの、紅葉の柄だったから・・・
花嫁道具と言われたのと、同じ柄だったから。
いや、紅葉の柄なんてよくあること。
枯野には、そこに特別な意味を持たせるつもりなんて、ないに決まっている。
何度も何度もそう自分に言い聞かせるのに。
それでも。
もしかしたら、これは、運命なのかもしれない?
心の中で、そう囁く魔物を、打ち負かすことができない。
この世にこんな偶然のあるものだろうか。
いや、ここまで深い縁ならば、それはもう、運命と呼んでもいいのではないだろうか。
そう思いたくなってしまう。
それはあまりにも、琴音にとって、意味深いものだったから。
琴音は平然としていることも難しかった。
結局、適当な言い訳をつけてその場を逃げ出し、そのまま、そこには戻らなかった。
けれど、その間に、枯野は早々に帰ってしまった。
それを聞いて、琴音はひどく落胆した。
なんとなく、夕刻まではいてくれると思っていた。
こんなに早く帰ってしまうのなら、何がなんでも、あの場にいればよかった。
あの姿をもっと見たかった。あの声をもっと聞きたかった。
また近いうちに来てくれるそうだよ。
老婆にそう言われたのだけ、少し救いだった。
枯野は見世に縁のある人だったらしい。
後から老夫婦にそう聞いた。
昔、見世にいた芸妓の忘れ形見だったのだ、と。
その芸妓の話は、風音に聞いたことがあった。
確か、名前は、潮音といったはずだ。
琴の名手であった、と。
琴を弾きながら、謡を謡う人だった、と。
その謡は、あまりにも魅惑的で、多くの客がそれに溺れたと聞く。
それで、とうとう、人を惑わす妖婦だと追討されることになった。
潮音の恋人は、そんな潮音を連れて逃げたのだ、と。
まるで芝居の筋書のような展開に、琴音も胸がどきどきしたものだ。
潮音の身の上は決して幸せとは言い難いものなはずなのに。
共に逃げてくれる恋人のいた潮音のことを、羨ましくさえ思った。
それでも、琴音にとって、潮音のことは、話に聞くだけの、どこか遠い物語のようなものでもあった。
けれど、その息子という存在を実際に目にすれば、それは一気に現実になった。
無口で穏やかで不器用だけれど。
枯野には、傍にいるだけで、不思議な安心感を感じられる。
あの、一番辛かった日。
枯野がいてくれて本当によかった。
枯野が辛さを受け止めてくれたから、救われたのだと思う。
客のあれこれは聞き出さないのが、花街の不文律だ。
だから、枯野のことも、最低限しか知らない。
住居は花咲邑らしいけれど、妻子はいるのだろうか。
妻子はなくとも、許婚者や、恋人はいるのだろうか。
けれどもそれは、琴音からは決して尋ねてはいけないことだ。
お客様の誰かを特別だなんて思わないほうがいい。
風音はよくそう言っていた。
あたしたちは、所詮、いつもお客様の一番にはなれないから。
だから、あたしたちだって、お客様を自分の一番にはしないほうがいい。
自分の一番は、永遠に空けておくのがいい。
それが、結局は芸妓として幸せに生きていく最善の方法だ、と。
何度も何度も、そう繰り返し言い聞かせられた。
それでも、百にひとつ、いや、もしかしたら、千にひとつくらいは。
お客と芸妓の間にも、誠の恋は、あるのではないか?
現に枯野の両親は、そうだったのではないか?
そんなふうに思ってしまう自分がいる。
もしかしたら、あの枯野となら、本当の恋もできるのではないか。
花街の戯れではなく、魂と魂の結びつく、本当の恋が・・・
今、とても、風音に会いたい。
会って、相談してみたい。
そんなことあるわけないよ、と一笑に付されるかもしれないけれど。
それでも、話を聞いてほしい。
大きく揺れ動く自分の心に翻弄されて、琴音はため息を吐く。
手鏡に映った自分の顔は、あまり美しくはなかった。
紅葉の櫛を自分の髪に沿わせてみる。
そのまま挿してみたくなるけれど。
その手をぎりぎり、押しとどめる。
いや、まだだ。
この櫛はいつか、自分が一人前になったときに挿そうと決めたのだから。
いや、もしそれが赦されるなら・・・
初めてこの櫛を挿すときには、枯野に挿してもらえないだろうか。
恋をしてはいけない。
恋をしてもらえると、思ってもいけない。
そんなことは分かっているけれど。
それでも、気持ちは押しとどめることができないから。
この思いは胸の奥に沈めて、忘れてしまおう。
いや、忘れることなんて、きっとできないけれど。
見ないふりは多分できるから。
気づかないふりをして、見ないふりをして、なんとかやり過ごしていこう。
ただ、この櫛を初めて着けるときには、枯野のあの大きな手で挿してほしい。
琴音にとって、それは大きな意味を持つことだけれど。
枯野には、そんなことを伝えるつもりはない。
ただ、ぬしさま、これを挿してくださいませ、と。
なんでもないことのように、何気なく、さり気なく。
いつか、そのときがきたら、きっと。
そのときのことを楽しみにして、琴音はそっと櫛を行李にしまった。




