20
いったん、部屋を辞した琴音に代わって、老爺が部屋を訪れた。
老爺もまた、枯野のことを、生き別れの孫に出会えたように、歓迎してくれた。
老夫婦の様子を見ていると、顔も知らない母が、ここでどれだけ大切にされていたかが分かる。
それは、枯野にとっても、不思議にくすぐったいような、けれど胸のなかの温かくなる感覚だった。
やがて、老婆と使い魔たちも戻り、狭い部屋はぎゅうぎゅうのすし詰めになる。
からだの大きい枯野は、なるべく小さくなろうとしたけれど、それには限界もある。
結局、皆して、膝もすり合いそうな距離で、茶を啜る羽目になった。
見世のほうへ行けば、もっと広い座敷もあるはずだ。
なのに、誰一人、そうしようとは言い出さない。
いや、枯野は、一度、そう言い出しかけたのだけれど。
口下手が災いして、最後まで言い終わらないうちに、他の誰かが話し始める。
結局、言い出せずに、ひたすら、からだを縮こまらせていた。
狭い部屋のなかに、明るい談笑の声が何度も沸き起こる。
それは一足早い春の訪れのようでもあった。
老夫婦は菓子や果物を山のように積み上げて、心づくしのもてなしをしてくれる。
遠慮のない使い魔たちは、それをぱくぱくと平らげていく。
老夫婦はそんな様子も、まるで孫を見るように、目を細めて眺めていた。
老夫婦の溢れんばかりの好意に溺れそうになりながらも、枯野の心は、別のことに囚われていた。
あの櫛は、やはり、失敗だったのだろうか・・・
琴音は、朝の務めがまだ残っていると言って退席したきり、戻ってこない。
どうして戻ってこないのか、気になって仕方ない。
もしかして、自分は琴音を怒らせてしまったんだろうか。
それなら、謝りたいと思うけれど。
いったい何に怒っているのか、どう謝ればいいのか、分からない。
けれど、何かあるとすれば、やはり、あの櫛なのではないだろうか。
考えても考えても、他には何も思いつけないのだ。
女人の喜びそうなものは皆目分からない。
使い魔たちには、一応、確かめてみたけれど。
どちらも、この櫛ならば、大丈夫、きっと琴音も喜ぶはず、と言ったのだ。
しかし、使い魔は所詮、使い魔。人間の女人ではない。
童女の見た目に反して、相当長く生きた古木で、知識の量も相当なものだけれど。
それでも、いや、それだからこそ、分からないということもあるのかもしれない。
そもそも、あの櫛を選んだのは、枯野の一存でしかなかった。
あのときは、琴音の好みは、ほとんどまったく考えていなかった。
あの櫛を一目見たとき、これしかないと思った。
そこに描かれた文様には、見覚えがあった。
あのとき、自分を助けてくれた琴音が、罠のところへ置いていったのと、そっくりだったのだ。
あの櫛を琴音に取り戻してあげることはもうできないけれど。
せめて、あのときの櫛の代わりに、これを渡したい。
琴音は、枯野の命を救い、大切なおにぎりまで分けてくれた。
宝物のように大事そうに持っていた櫛を、枯野の代わりと言って、そこへ置いて行った。
なのに、枯野のしたことは、琴音の手に牙を立て、琴音の大切なものを失わせただけだった。
その償いをしたいとずっとずっと思い続けてきた。
どうすれば償えるのかとずっとずっと考え続けてきた。
花を届けるのも、米を届けるのも、そのときそのときで、自分にできることだった。
けれど、こんなことじゃ、まだまだ足りない気もしていた。
あのとき琴音はこの命を救ってくれたのに。
自分はまだまだその恩を返せていない。
あのとき琴音が置いて行った櫛のことは、ずっと忘れられなかった。
だから、それによく似た櫛を見た瞬間に、これだ、と思ってしまった。
けれど、琴音の好みも考えずに選んだのは、やはり失敗だったのだろう。
あれは、一方的に、こちらの気持ちを押し付けただけだ。
あの柄は、琴音にとってはあまり好ましくないものだったのかもしれない。
もしかしたら、見るのも嫌なものだったのかもしれない。
それすら確かめなかったのは、枯野の失態だ。
・・・どうすれば、笑って、受け取ってくれるんだろう・・・
ふいにそう思ってから、ぎくりとした。
もしかして、自分は、単に琴音の笑顔が見たいだけなのではないか。
それは、償いでもなんでもない。
自分はなんて愚かなのだろう。
償いにすら、相手の笑顔という見返りを求めている。
こんなことでは、償う以前の問題だ。
まずは、この愚かさをなんとかするしかない。
しかし、なんとかすると言っても、枯野に思いつく方法はあまりない。
やはり、修行か?荒行か?
とりあえずは、滝にでも行っておくか?
火の行のほうがいいだろうか?
しかし、真冬の滝に打たれるくらいで、この愚かさは治るものなのだろうか。
火の上を裸足で歩くくらいで、治る愚かさならば、苦労はしない。
・・・これほどまでに、思い悩んでいるのに。
それでも俺は、今もまだ、ちょっと気を緩めると、あの人の笑顔を見たいと考えているのだから。
悶々、悶々と悩み続ける枯野には、もはや、周囲の談笑の声も聞こえてはいなかった。
ただ、一心不乱に、どうすれば琴音に償えるのか、それだけを考えていた。
あまりにも心はそれでいっぱいで、自分が今、人に変化していることも、ここがどこかも忘れていた。
そうして、腕組みをしたまま背中を丸めて、前へ前へと倒れていった。
隣にいた山茶花がはっと気づいたのと、枯野の変化が解けたのとは、ほぼ同時だった。
ぽん、と音でもしそうな白煙と共に、枯野の姿は、狐の姿へと戻ってしまった。
こんな失態を犯すのは枯野にとっても初めてのことだ。
驚いた瞬間、思考が停止して、そのまま、なんの行動も取れなくなった。
大きな狐の姿になったまま、枯野はその場に転がった。
山茶花に一瞬遅れて、椿もその事態に気がついた。
椿は、突然、庭の木を指さすと、あーーーっ!と叫んだ。
「なんじゃ?」
「なんじゃ?」
つられて老夫婦が同時に振り返る。
そのすきに、山茶花は狐になった枯野を抱えて、自分の首に、くるりと・・・
巻ける大きさでは到底なかったが、とりあえず、巻いた。
「う、ぐいす、かな、と思うたが・・・違うたみたいじゃ・・・」
引きつった笑いを浮かべながら、椿は苦しい言い訳をする。
老夫婦は軽く笑って、それからまたこちらを見て・・・
そこにいた山茶花の姿に、腰を抜かしそうになった。
「な、なんじゃ、その大きな襟巻は?」
「そんなもの、しておられなかったろう?」
「あ・・・いえ・・・少し冷えてきたので・・・」
山茶花も笑みを凍り付かせながら、椿よりももっと苦しい言い訳をする。
「こ、これ、とてもあたたかいのですよ。」
えへへと、首を傾げてみせると、枯野の重さで、首がみしみしと音を立てそうだった。
「それは、確かに、温かそうじゃが・・・」
「土佐犬ほどもあろうかの。
なんの生き物の毛皮じゃ?」
「あ、ははははは・・・き、つね?か、な?」
なんとかこの場を言い逃れようと山茶花は必死になる。
「ほう、狐か?」
「それほどの大物となると、山の主ではないのか?」
「山ではない。
わしのあるじ・・・」
にこにこと言いかける椿の口に、とっさに山茶花は自分の拳をつっこんだ。
肩に載せた大きな狐をなんとか支えながらだったので、他にどうしようもなかった。
椿はもごもごと何か言う。
すまん、だと、山茶花には伝わった。
「そういえば、枯野は?どこへ行ったのじゃ?」
一難去ってまた一難。今度は老婆がそう言い出した。
山茶花はとっさに笑って答えた。
「あ。はばかり、かな?」
「あるじどのは、足が速いのだ。
電光石火の早業で走って行った。」
椿がにこにこと余計なことを付け加える。
「なんと、電光石火の早業で?」
「腹具合でも悪かったのだろうか。」
老夫婦は心配そうに顔を見合わせた。
山茶花はうっかり舌打ちをしそうになった。
「わ、わたくし、あるじさまのご様子を、見てまいりますわ。」
これ以上はもう、かなわない。
山茶花はそう言って席を立とう・・・と、して・・・
重たい狐を首に載せたまま、両足を踏ん張って、立ち上がる。
「その襟巻は、置いて行かれたら、どうじゃ?」
山茶花の様子に、老婆は心配そうに言った。
「あ。いいえ。
これは、どうしても、巻いておかねば・・・
っさ、寒い、ですから・・・」
「わしもついていくから、大丈夫じゃ。」
椿は山茶花の襟巻を取って、半分自分の首に載せた。
そっくりなふたりが仲良くひとつの襟巻にくるまっているようで、なかなかに可愛らしい姿になる。
老夫婦は、その姿にまた目を細めた。
もっとも、実際には、椿も山茶花も、必死に足を踏ん張って、平気を装っていたのだが。
その後、ときどきよろけつつも、ふたりはなんとか枯野を人目のないところまで運んだ。
それから枯野を叱りつけて、人の姿へと変化させた。
枯野はなんとか人の姿にはなったものの、しょんぼりとして、黙りこくっていた。
老夫婦はそんな枯野をひどく心配した。
使い魔たちはあれこれと言い訳を並べて、とりあえず今日のところは帰ることになった。
また来ると約束をして、使い魔たちは枯野を連れて、妖狐の郷へと帰っていった。




