表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
枯野と琴  作者: 村野夜市
21/124

20

いったん、部屋を辞した琴音に代わって、老爺が部屋を訪れた。

老爺もまた、枯野のことを、生き別れの孫に出会えたように、歓迎してくれた。

老夫婦の様子を見ていると、顔も知らない母が、ここでどれだけ大切にされていたかが分かる。

それは、枯野にとっても、不思議にくすぐったいような、けれど胸のなかの温かくなる感覚だった。


やがて、老婆と使い魔たちも戻り、狭い部屋はぎゅうぎゅうのすし詰めになる。

からだの大きい枯野は、なるべく小さくなろうとしたけれど、それには限界もある。

結局、皆して、膝もすり合いそうな距離で、茶を啜る羽目になった。


見世のほうへ行けば、もっと広い座敷もあるはずだ。

なのに、誰一人、そうしようとは言い出さない。

いや、枯野は、一度、そう言い出しかけたのだけれど。

口下手が災いして、最後まで言い終わらないうちに、他の誰かが話し始める。

結局、言い出せずに、ひたすら、からだを縮こまらせていた。


狭い部屋のなかに、明るい談笑の声が何度も沸き起こる。

それは一足早い春の訪れのようでもあった。

老夫婦は菓子や果物を山のように積み上げて、心づくしのもてなしをしてくれる。

遠慮のない使い魔たちは、それをぱくぱくと平らげていく。

老夫婦はそんな様子も、まるで孫を見るように、目を細めて眺めていた。


老夫婦の溢れんばかりの好意に溺れそうになりながらも、枯野の心は、別のことに囚われていた。


あの櫛は、やはり、失敗だったのだろうか・・・


琴音は、朝の務めがまだ残っていると言って退席したきり、戻ってこない。

どうして戻ってこないのか、気になって仕方ない。

もしかして、自分は琴音を怒らせてしまったんだろうか。

それなら、謝りたいと思うけれど。

いったい何に怒っているのか、どう謝ればいいのか、分からない。

けれど、何かあるとすれば、やはり、あの櫛なのではないだろうか。

考えても考えても、他には何も思いつけないのだ。


女人の喜びそうなものは皆目分からない。

使い魔たちには、一応、確かめてみたけれど。

どちらも、この櫛ならば、大丈夫、きっと琴音も喜ぶはず、と言ったのだ。

しかし、使い魔は所詮、使い魔。人間の女人ではない。

童女の見た目に反して、相当長く生きた古木で、知識の量も相当なものだけれど。

それでも、いや、それだからこそ、分からないということもあるのかもしれない。


そもそも、あの櫛を選んだのは、枯野の一存でしかなかった。

あのときは、琴音の好みは、ほとんどまったく考えていなかった。


あの櫛を一目見たとき、これしかないと思った。

そこに描かれた文様には、見覚えがあった。

あのとき、自分を助けてくれた琴音が、罠のところへ置いていったのと、そっくりだったのだ。


あの櫛を琴音に取り戻してあげることはもうできないけれど。

せめて、あのときの櫛の代わりに、これを渡したい。

琴音は、枯野の命を救い、大切なおにぎりまで分けてくれた。

宝物のように大事そうに持っていた櫛を、枯野の代わりと言って、そこへ置いて行った。

なのに、枯野のしたことは、琴音の手に牙を立て、琴音の大切なものを失わせただけだった。


その償いをしたいとずっとずっと思い続けてきた。

どうすれば償えるのかとずっとずっと考え続けてきた。

花を届けるのも、米を届けるのも、そのときそのときで、自分にできることだった。

けれど、こんなことじゃ、まだまだ足りない気もしていた。

あのとき琴音はこの命を救ってくれたのに。

自分はまだまだその恩を返せていない。


あのとき琴音が置いて行った櫛のことは、ずっと忘れられなかった。

だから、それによく似た櫛を見た瞬間に、これだ、と思ってしまった。

けれど、琴音の好みも考えずに選んだのは、やはり失敗だったのだろう。

あれは、一方的に、こちらの気持ちを押し付けただけだ。

あの柄は、琴音にとってはあまり好ましくないものだったのかもしれない。

もしかしたら、見るのも嫌なものだったのかもしれない。

それすら確かめなかったのは、枯野の失態だ。


・・・どうすれば、笑って、受け取ってくれるんだろう・・・


ふいにそう思ってから、ぎくりとした。

もしかして、自分は、単に琴音の笑顔が見たいだけなのではないか。

それは、償いでもなんでもない。


自分はなんて愚かなのだろう。

償いにすら、相手の笑顔という見返りを求めている。

こんなことでは、償う以前の問題だ。


まずは、この愚かさをなんとかするしかない。

しかし、なんとかすると言っても、枯野に思いつく方法はあまりない。

やはり、修行か?荒行か?

とりあえずは、滝にでも行っておくか?

火の行のほうがいいだろうか?


しかし、真冬の滝に打たれるくらいで、この愚かさは治るものなのだろうか。

火の上を裸足で歩くくらいで、治る愚かさならば、苦労はしない。


・・・これほどまでに、思い悩んでいるのに。

 それでも俺は、今もまだ、ちょっと気を緩めると、あの人の笑顔を見たいと考えているのだから。


悶々、悶々と悩み続ける枯野には、もはや、周囲の談笑の声も聞こえてはいなかった。

ただ、一心不乱に、どうすれば琴音に償えるのか、それだけを考えていた。

あまりにも心はそれでいっぱいで、自分が今、人に変化していることも、ここがどこかも忘れていた。

そうして、腕組みをしたまま背中を丸めて、前へ前へと倒れていった。


隣にいた山茶花がはっと気づいたのと、枯野の変化が解けたのとは、ほぼ同時だった。

ぽん、と音でもしそうな白煙と共に、枯野の姿は、狐の姿へと戻ってしまった。

こんな失態を犯すのは枯野にとっても初めてのことだ。

驚いた瞬間、思考が停止して、そのまま、なんの行動も取れなくなった。

大きな狐の姿になったまま、枯野はその場に転がった。


山茶花に一瞬遅れて、椿もその事態に気がついた。

椿は、突然、庭の木を指さすと、あーーーっ!と叫んだ。


「なんじゃ?」

「なんじゃ?」


つられて老夫婦が同時に振り返る。

そのすきに、山茶花は狐になった枯野を抱えて、自分の首に、くるりと・・・

巻ける大きさでは到底なかったが、とりあえず、巻いた。


「う、ぐいす、かな、と思うたが・・・違うたみたいじゃ・・・」


引きつった笑いを浮かべながら、椿は苦しい言い訳をする。

老夫婦は軽く笑って、それからまたこちらを見て・・・

そこにいた山茶花の姿に、腰を抜かしそうになった。


「な、なんじゃ、その大きな襟巻は?」

「そんなもの、しておられなかったろう?」


「あ・・・いえ・・・少し冷えてきたので・・・」


山茶花も笑みを凍り付かせながら、椿よりももっと苦しい言い訳をする。


「こ、これ、とてもあたたかいのですよ。」


えへへと、首を傾げてみせると、枯野の重さで、首がみしみしと音を立てそうだった。


「それは、確かに、温かそうじゃが・・・」

「土佐犬ほどもあろうかの。

 なんの生き物の毛皮じゃ?」


「あ、ははははは・・・き、つね?か、な?」


なんとかこの場を言い逃れようと山茶花は必死になる。


「ほう、狐か?」

「それほどの大物となると、山の主ではないのか?」


「山ではない。

 わしのあるじ・・・」


にこにこと言いかける椿の口に、とっさに山茶花は自分の拳をつっこんだ。

肩に載せた大きな狐をなんとか支えながらだったので、他にどうしようもなかった。

椿はもごもごと何か言う。

すまん、だと、山茶花には伝わった。


「そういえば、枯野は?どこへ行ったのじゃ?」


一難去ってまた一難。今度は老婆がそう言い出した。

山茶花はとっさに笑って答えた。


「あ。はばかり、かな?」

「あるじどのは、足が速いのだ。

 電光石火の早業で走って行った。」


椿がにこにこと余計なことを付け加える。


「なんと、電光石火の早業で?」

「腹具合でも悪かったのだろうか。」


老夫婦は心配そうに顔を見合わせた。

山茶花はうっかり舌打ちをしそうになった。


「わ、わたくし、あるじさまのご様子を、見てまいりますわ。」


これ以上はもう、かなわない。

山茶花はそう言って席を立とう・・・と、して・・・

重たい狐を首に載せたまま、両足を踏ん張って、立ち上がる。


「その襟巻は、置いて行かれたら、どうじゃ?」


山茶花の様子に、老婆は心配そうに言った。


「あ。いいえ。

 これは、どうしても、巻いておかねば・・・

 っさ、寒い、ですから・・・」

「わしもついていくから、大丈夫じゃ。」


椿は山茶花の襟巻を取って、半分自分の首に載せた。

そっくりなふたりが仲良くひとつの襟巻にくるまっているようで、なかなかに可愛らしい姿になる。

老夫婦は、その姿にまた目を細めた。

もっとも、実際には、椿も山茶花も、必死に足を踏ん張って、平気を装っていたのだが。


その後、ときどきよろけつつも、ふたりはなんとか枯野を人目のないところまで運んだ。

それから枯野を叱りつけて、人の姿へと変化させた。

枯野はなんとか人の姿にはなったものの、しょんぼりとして、黙りこくっていた。


老夫婦はそんな枯野をひどく心配した。

使い魔たちはあれこれと言い訳を並べて、とりあえず今日のところは帰ることになった。

また来ると約束をして、使い魔たちは枯野を連れて、妖狐の郷へと帰っていった。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ