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サヤは貧しい農家の惣領娘だった。
家にはじいさまもばあさまも、大勢の弟妹もいた。
花街に売られたのは、十になる年だった。
白米を握った小さな握り飯をひとつ持たされて、サヤは女衒に連れられていった。
高い高い空の冴え渡る秋の日のことだった。
女衒はそれほど恐ろし気な人ではなかった。
通りかかった市で、サヤに綺麗な櫛をひとつ買ってくれた。
女衒は、これはお前の嫁入り道具だ、と言って、その櫛をサヤの髪に挿してくれた。
櫛には螺鈿の細工がほどこされていた。
サヤはこんな綺麗なものは生まれて初めて見たと思った。
自分のぼさぼさの髪も、この櫛で梳けば艶々の黒髪に変わる気がした。
村を抜け、山道に差し掛かったころだった。
急ぐ旅でもない、と言って、いきなり女衒は昼寝を始めた。
昨日の酒が残っていると、そういえば言っていた。
サヤは胃に効く薬草を探そうと、山に入っていった。
すると、どこからともなく、悲し気な声が聞こえてきた。
サヤが声を頼りに探すと、一匹の狐が罠にかかっていた。
まだ仔狐なのか、小さく細くて華奢なからだつきをしている。
サヤはとっさに狐の足から罠を外そうとした。
けれど、狐はサヤを敵と勘違いしたのか、いきなりその手に嚙みついた。
狐の牙は、サヤの手に深々と突き立った。
それでも、サヤは痛いのを我慢して、罠を外してやった。
助けられた狐は、逃げ出そうともせずに、申し訳なさそうにサヤの顔を見上げた。
若草の色をした狐の瞳を、サヤはとても綺麗だと思った。
狐はサヤを傷つけたことを後悔しているようだった。
サヤはちょっと笑って、狐の頭を撫でてやった。
「狐さんの毛って、とっても綺麗だね。」
狐の枯草色の毛並みは、すべすべしていて、とても手触りがよかった。
サヤはその手触りを楽しむように、何度も何度も狐を撫でた。
狐はサヤの気が済むまで、大人しく撫でられていた。
サヤの気が済んで、手を離すと、狐はその掌をぺろぺろと舐め始めた。
「ふふ。くすぐったい。」
掌を舐められて、サヤはくすぐったさに思わず声を立てて笑った。
噛まれた傷は、思ったほど酷くはなかったのかもしれない。
もう血も流れていないし、それどころか、傷痕も見当たらなかった。
「あ、そうだ。」
サヤはふと思いついて、懐から握り飯を取り出した。
朝、家を出るときに、母親が持たせてくれた握り飯だった。
それは、サヤが生まれて初めて見た、真っ白いお米だけで握った握り飯だった。
自分が昼寝をしている間に、昼食は済ませておくようにと女衒には言われていた。
それを今ここで済ませてしまおうと、サヤは思った。
「はい。はんぶんこ。」
貴重な白米の握り飯を、サヤは気前よくふたつに割ると、ひとつを狐に差し出した。
狐はきょとんとした顔をしてから、まるで遠慮でもするように、ふるふると首を横に振った。
「そんなこと言わないで一緒に食べよう?
はんぶんこにすると、ひとりで全部食べるより、美味しくなるんだよ?」
サヤはそう言うと、狐の前に握り飯を置いた。
それでも、狐はしばらく逡巡するようにサヤの顔と握り飯とを見比べていた。
「遠慮しないで?
ああ、それとも、もしかして、毒が入ってるかもとか、疑ってる?」
サヤは安全なことを示すように、自分の分の握り飯にぱくりとかぶりついた。
「うん。おいしー!」
口のなかにふっくらと炊けた米の匂いが広がる。
噛むと米の甘味としっかりとした塩気が混然一体となって口をいっぱいにする。
サヤは満面の笑みになって狐を振り返った。
「ほら、大丈夫だよ?
おいしいから食べてみて?」
狐は目を丸くしてサヤを見ていたけれど、思い切ったように、ぱくりと握り飯にかぶりついた。
「ね?美味しいよね?」
狐が握り飯を食べ始めると、サヤは嬉しそうに笑った。
そんなサヤをちらりと見上げてから、狐は残りの握り飯をはぐはぐと頬張った。
食べてしまうと、サヤは髪に挿した櫛をそっと外した。
一度だけ名残惜しそうに櫛を撫でてから、サヤはそれを罠のところに置いた。
「獲物がなくなってたら、猟師さんも困るからね。」
サヤのすることを不思議そうに見ている狐に、サヤは説明するように言った。
狐はそんなサヤのことを、ただじっと見つめていた。
「じゃあね、狐さん。元気でね?」
サヤは狐に笑いかけると、女衒のところへと急いで戻って行った。