18
老婆の居室にひとり取り残されて、枯野は居心地悪そうにもじもじしていた。
使い魔のどちらかが早く戻ってきてくれないかと思う。
それにしても花街というものは、自分にはなんとも場違いな気がして仕方がない。
母が花街の妓だったというのには驚いたが、それを聞いた後でも、やっぱり花街は苦手だ。
自分には一生馴染めないのではないかと思う。
それにしても、あの父も、花街に通っていたことがあったのかと、それも驚きだった。
そうでなければ母とは出会っていなかったのだから、通っていたのに間違いはない。
花街に通う妖狐たちというのは、なんとはなしに、自分とはかけ離れた存在だと思っていたけれど。
案外、そんなこともないのかもしれないと枯野は思った。
そのときだった。
突然、胸がどきどきし始めたかと思うと、得も言われぬ高揚感と幸福感に包み込まれた。
なんだ、なんだ、と辺りを見回す。
すると、開けっ放しだった障子の陰から、控え目に顔を出した琴音と目が合った。
その瞬間の感覚は、もはや言葉での表現は不可能なものだった。
幸せで。幸せで。とにかくなにもかも幸せで。
こんな幸福感を感じたことは一度もない。
琴音は慌てたように目を伏せて、視線を外す。
そうされたのがとても残念でたまらない。
けれども、あのまま視線を合わせていたら、自分がどうなっていたか分からないと思う。
枯野は、今すぐにでも駆け寄りたい衝動を、必死になって抑え込んだ。
もっと近くで、あの顔を見つめたい。
できることなら、あの瞳にもう一度、見つめられたい。
廊下と部屋の中。
それほど近くにいるわけでもないのに、琴音の匂いが鼻腔をいっぱいに満たしていた。
あの懐かしい髪の香りを嗅ぐと、この胸に縋って泣いたときの記憶が脳裏に甦る。
かすかに震えていた琴音の肩や、じんわりと伝わってきたそのぬくもりや。
小さく漏れる嗚咽の声も。鼻をすするかすかな音も。
あのときの琴音は悲しみの淵にいて、あれはとても悲しい姿なのに。
それでもその記憶は隅々まで思い出せるくらい、脳裏に刻み付けられていた。
琴音は枯野と目を合わせないように伏し目がちのままで言った。
「見世の主が戻ってまいりました。
お客様に是非、ご挨拶を、と申しております。」
「あ。いや。俺は、その・・・」
堅苦しい挨拶というものは、苦手だ。
なるべくなら誰か他の者に任せたい。
使い魔たちが帰ってきてくれないかなとばかりに枯野はそわそわと目を泳がせた。




