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妖狐たちは、お役目のない間は、基本的になにをしていてもいい。
待っている家族のある者は、郷に帰り、野良仕事に精を出す者もいる。
けれど、過酷なお役目を果たす妖狐たちには、家族を持たない者も多かった。
そんな妖狐たちはたいてい、非番の間は、花街にくりだしていた。
お役目の報酬の半分は郷の取り分、そして残り半分はお役目を果たした妖狐の取り分になる。
決して少なくはないその金子を、妖狐たちは花街で大盤振る舞いをして使い果たしてしまう。
妖狐の郷に花街のような享楽は存在しない。
酒に山海の珍味。着飾った男女。
一度その愉しみを知れば、あとはひたすらそこに溺れていく。
妖狐たちにとって、それは刹那の安らぎでもあった。
遊び方が豪快で、気持ちよく大金を使う妖狐たちは、花街でも人気の上客だ。
気に入った敵娼がいれば、金に物を言わせて囲い込む妖狐もいる。
けれども、それは一時の戯れ事。
人間の女を家族だと思う妖狐はいない。
そもそも郷で暮すのに、人の世の金子など必要ない。
上に立つ者たちは、金子を使って、人間共と駆け引きなどもしているようだが。
ほとんどの妖狐にとっては、金子など、畑の肥しにもならないものだ。
ならば、派手に使って楽しんでなにが悪い。
暗殺、復讐、戦の手引き。
人間たちの持ってくるのはそんな依頼が多かった。
人の世の争い事に、妖狐は関係ない。
なのに、切に願われると、つい、力を貸してしまう。
狐は情が深い。それは妖狐も例外ではない。
下手をすれば己の命すら危険に晒すというのに。
もっとも、自尊心の高い妖狐たちは、己が下手なことなどするわけがないと思っている。
けれど、人の世の穢れに触れれば、魂をすり減らす。
どれほどそこに正当な理由があったとしても。
血の穢れは確実に妖狐の魂を蝕んでいく。
からだに負った傷はいつかは癒える。
けれども、魂に負った傷は、癒えることはない。
できるのは、それを忘れることだけだ。
酒に酔い、享楽に溺れるのは、その近道でもあった。
花街では妖狐たちも人と同じ客として扱う。
妖狐たちは人の姿に変化するのがとても上手いので、狐とは分からないことも多い。
けれども、長く通うと、ときにはちらりと本性を顕してしまうこともある。
しかし、気づいても知らない顔を通すのが、見世というものでもあった。
妖狐には本気で恋をしてはいけない。
それは、花街の娼妓たちの常識だ。
いくら恋をしても、妖狐とは決して結ばれない。
だから本気になってはいけない。
不幸になりたくないのなら、それだけは守らなければならないことだった。
華やかなものの好きな妖狐たちが、好んで通うのは、表通りの見世だ。
そこから少し奥に入ったところにある、古びた見世には、妖狐たちは見向きもしない。
そこには、古くから街を知る、いわゆる通たちによって、辛うじて支えらえている見世が多かった。
風音という看板芸妓を失った見世は、客足がほとんど途絶えてしまった。
一度くらいは、線香を供えると言って訪れる客もあったが、それも一度きり。
長い馴染みであったのに一度も来ない客もあった。
それでも、老夫婦はそんな客たちに対して恨み言を言うことはなかった。
ただ、風音のいなくなったことを受け容れたくないのだろう、と淋しそうに言っていた。
琴音は風音に習った芸を必死に披露しようとした。
しかし、やはり、それはまだまだ風音の域には届いていないようだった。
琴音の芸に、通の煩さ方を納得させることは難しかったのだった。
そんな状況でもなんとかやっていけたのは、あの日、来てくれた一見の客のおかげだった。
下世話なことだけれど、あのとき、客が大量の米と金子とを届けてくれたからだ。
結局、琴音の気の済むまでじっとつきあってくれた後、客は名も名乗らずに帰って行った。
客は琴音にはなにも求めなかった。
ただずっと、手を後ろに組んだまま、じっとじっとしていた。
琴音の顔を見ないようにするためか、少し斜め上の辺りをにらみつけるようにして。
身動ぎひとつせず、ただ、じっと琴音を受け止めていた。
なんの見返りも求めずに、ただ、優しさと思いやりを、たっぷり、与えてくれただけだった。
後からよくよく考えてみると、あのときの自分は、芸妓としてあまりにも酷かったと思う。
確かに、まともに思考の働く状況ではないのに、無理に会いたいと言ったのはあちらだけれど。
それにしても、客人として迎えたからには、それ相応のもてなしをするべきだった。
それが、一人前の芸妓としての当たり前のことだ。
それを、謡のひとつ、舞のひとつも披露せず、酒食の饗応もなしに帰らせるとは。
風音に報せれば、さぞかし大目玉を食らうだろう。
埋め合わせをさせてほしいけれど、あれ以来、あの客も一度も訪れていない。
当たり前といえば、当たり前だ。
なんの饗応もしてくれない見世に足繫く通う客など、いるわけがない。
せめて、名前くらい、聞いておけばよかった。
老爺にも客は名乗らなかったらしい。
見世のほうも、そのあたりは無理に聞き出したりはしない。
表通りの格式の高い見世ならともかく、琴音の見世にそこまで高い敷居はなかった。
今朝の狐の贈り物は、南天の小枝だった。
毎朝届けられる花や食べ物を、風音は巫山戯て、狐の贈り物、と呼んでいた。
琴音もそのままに、それをそう呼ぶようになっていた。
小枝にはまんまるな実がいくつもついていた。
難を転ずるというこの赤い実に、琴音は小さく祈った。
どうかもう一度あの人に会わせてください。
そうして、わたしのしでかした難事を転ずる機会をお与えください。
祈念した枝を門口に挿して戻ろうとしたその視線の端に。
見覚えのある枯草の山のような色をした髪が、ちらりと見えた。




