11
風呂から上がると脱衣場には綺麗に洗濯して糊の効いた着物がきちんと畳んであった。
広げてみると、確かにさっき脱いだばかりの自分の着物だ。
風呂に入っている間に、こんなことまでできるのかと枯野は驚いた。
ちなみに、枯野自身には、逆立ちしたって無理な技である。
これはもう、よほどの大物に違いない。
嬉しいというより、恐ろしいと思いながら、枯野は恐る恐る、部屋のほうへと回って行った。
厨にも、厨に近いいつも父と食事をとっていた部屋にも、誰もいなかった。
さらに奥の、寝間にしていた畳の部屋にも、誰もいない。
さらにその奥の一番いい部屋は、襖が閉じられていて、その隙間から光が漏れていた。
枯野が恐る恐る襖に手をかけた途端、どんな仕掛けか、襖はすぱーんと自ら両側に開いた。
「「おかえりなさいませ。」」
左右それぞれ、三つ指をつき、ぴたりと揃って頭を下げたのは、さっきの童女たち。
枯野もあわててその場に膝をつくと、童女たちよりさらに深く頭を下げた。
「いいお湯、もらい、ました。」
「それを言うなら、いい湯加減でした、じゃろ。
もしくは、お先にお風呂、いただきました、かの。」
「あるじさま。どうぞわたしたちに、そんなお気を遣わないでくださいな。」
ふたりは顔を見合わせてくすくすと笑った。
枯野は目も上げずに言った。
「いやいやいや、そんな滅相もない。
それにしても、どうしてお二方のようなご立派な使い魔様が、俺なんかのところに・・・」
いきなり、こつん、と頭をはたかれて、枯野はびっくりして目を上げた。
すると、目の前にあったくりくりした真ん丸い目とぴたりと目が合った。
「己に、なんか、をつけてなはらぬ。」
丸い目に怒りをみなぎらせて、じっと見据えられる。
さっきまでの朗らかな声とは打って変わった重々しい声で言ったのは椿だった。
あ、はい、ごめんなさい、と、枯野は素直に謝った。
途端に、分かればよろしい、と椿はにっこにこの笑顔になった。
「よしよし。
痛いの痛いの飛んでいけ~。」
反対側に立って、山茶花は枯野の頭をぐりぐりと撫でまわした。
小さなこぶになっていたところをぐりぐりとされて枯野は余計に痛かったが、とりあえず、我慢した。
「さあさあ、あるじどの。折角の夕餉が冷めてしまうぞ。」
「どうぞ、温かいうちに召し上がれ。」
ふたりに促されて、枯野は慌てて立ち上がろ・・・う、として・・・、見事に尻もちをついた。
焦ってうっかり敷居の上に座ってしまったらしくて、すっかり足がしびれていた。
「い、ててて・・・」
すねと、さっきぶたれた頭のこぶと、両方、手でさする。
大きな音に驚いて振り返ったふたりは、枯野のその姿を見て、声を立てて笑った。
「大きななりをして、幼い童のようじゃ。」
「本当に、すくすくと、立派に育ちましたねえ。」
ふたりは枯野の周りを、くすくす笑いながらぐるぐる回った。
「ふむ。腕っぷしはなかなかに太いのう。」
「力仕事によさそうです。」
「背中も、広くて真っ直ぐじゃ。」
「今度、負ぶうてもらいましょう。」
ついでにどうやら品定めもされているらしい。
「しかし、由良にはあまり似ておらぬのう。」
「きっと、お母さん似なのでしょう。」
由良、の名前に、枯野ははっとして聞き返した。
「父さんを知ってるんですか?」
「おうおう。よう知っておるとも。」
「由良はよく花園に来てくれましたからねえ。」
ふたりはにこにこと頷いた。
「そうか、おぬし、父御の話を聞きたいか?」
「ならば、お食事をなさりながら話しましょう。」
二人に促されて部屋の中央に用意された膳の前に座る。
膳には、数々の焼き物や煮物に吸い物、それから、こてこてと山盛りの白飯が並んでいた。
どれもたった今作りたてのようにほかほかと湯気を上げている。
こんな立派な膳を、いったいいつの間に用意したのかと思う。
いや、あの一瞬で風呂を沸かしたり、着物を綺麗にしたこの二人になら、このくらい、朝飯前か。
膳の前にはどこから持ってきたのかふっかふかの座布団まで置いてある。
慣れない座り心地に、枯野は思わずもう一度すっころびそうになったけれど、なんとかこらえた。
「・・・あの、おふたりの、分、は・・・?」
膳がひとつしかないので枯野が恐る恐る尋ねると、ふたりはにこっとして答えた。
「ああ、わしらはいいのよ。」
「年を取るとねえ、これで十分なのですよ。」
そう言って、それぞれ、右手、左手、を宙に差し上げ、ひょいとなにか掴むようにする。
するとその手には、立派な一升徳利がそれぞれぶら下がっていた。
徳利についた紐に手をかけ、器用に肩と肘とを使って、徳利から直に飲む。
まるで、どこかの酒仙のようだ。
あまりにも童女の姿には似合わない仕草なのに、妙に堂に入っている。
鏡像のように左右対称に、同時にごくごくと喉を鳴らしてから、ぷはーっと、酒臭い息を吐いた。
「ふあ~、やっぱ、これじゃのう。」
「ふああ、やっぱ、これですねえ。」
ほんのり頬を染め、顔を見合わせて微笑み合う。
そこまで息ぴったりだ。
「ほらほら、おぬしは、はよ、飯を食え。」
「あるじさま、どうぞご遠慮なさらずに。」
枯野はうなずくと、小さく手を合わせてから、箸を取った。
最初は恐る恐る、そのうち止まらなくなり、気が付くとがつがつと頬張っていた。
膳に並べられた食物は、どれもこれも、絶品の美味しさだった。
箸を置くなんて、もうそんなことは考えられない。
茶碗が空になると、いつの間にかまた、ほかほかの白飯が山盛りになっている。
白飯は甘く柔らかくふっくらとしていて、何杯でも何杯でも食べられた。
いつの間にか枯野は、自分がもう何杯食べたのかも分からなくなっていた。
「相当、腹をすかせておったようじゃな。」
「おかわりならまだまだございますよ。」
なんだろう・・・嬉しくて涙が出てきた。
泣きながらも枯野の箸は止まらなかった。
こんなふうに誰かと一緒に食事をするのは、いったいいつ以来だろうと思った。
結局、食事を済ませるまで、枯野は話をすることを忘れていた。
腹がはちきれそうになるまで食べてようやく箸を置いた枯野は、はっと我に返ってふたりを見た。
「・・・すいません、俺・・・食べるのに、夢中で・・・」
ふたりの使い魔はにこにこと手を振った。
「いやいや。実に気持ちのいい食べっぷりじゃった。」
「久しぶりにいいものを見せていただきました。」
ごちそうさま、と枯野が手を合わせると、目の前にあった膳は、ぱっと消えてしまう。
枯野はふわふわする座布団を外すと、ふたりのほうをむいて座り直した。
「あの、それで・・・、おふたりは、父さ・・・父のことを、知ってるんですか?」
「なに、そうかしこまって話さんでもええ。」
「そうそう、わたしたちはあるじさまの使い魔なのですから。
知ってることは全部吐け、って言ってもいいんですよ?」
「いや、それは流石に違うでしょう・・・」
枯野が苦笑すると、ふたりはそっくり同じ懐かしそうな目をした。
「そんなふうに笑うと、おぬし、由良にも似ておるな。」
「それはそうでしょう。あるじさまは、由良の大事な愛息子なのですから。」
ふたりの使い魔は孫を愛でる婆のように、にこにこと枯野を眺めた。
「由良もようそんなふうに笑っておったよ。」
「あの仔はうんと小さいころから花園によく来てくれてねえ。」
「花が好きじゃと言っておった。」
「大きくなったら、立派な番人になる、と言ってましたっけ。」
代わる代わる話すふたりの童女に、枯野は割り込むようにして尋ねた。
「さっきから言ってるその花園というのは、郷の花園のことですか?」
「そうじゃよ。わしらはそこに棲んでおるのだもの。」
「わたしたちはあそこがまだ花園ではなかったころから、あそこに咲く花だったんですよ。」
それはまたとんでもない古株だ、と枯野はごくりと唾を飲んだ。
郷の花園には、古今東西、いろいろなところから集められた花が植えられている。
四季折々の花が一年中咲き誇る、郷の自慢のひとつだ。
霊力の高いこの地で育った花には霊力が宿る。
薬として使っても、術の道具として使っても、超一流の効果を発揮する素材となる。
長く生きた花は、いつの間にか妖力を得て、人に変化する者もいる。
気に入った花を大切に育てて、妖狐が自らの使い魔にすることもあった。
けれど、そんな花園には、郷の誰もが、制限なく足を踏み入れていいわけではなかった。
族長の許しを得た限られた者だけが、そこに入る許しを得ている。
父がそんな限られた者だったというのは、枯野にとっては初耳だった。
「おぬしの血筋は代々、花園の番人だったのよ。」
「由良はそれをよその家に譲ってしまったのです。」
「由良は一度、郷を出ておるからの。」
「大切なひとと、共に暮らすのだと言ってました。」
「地位も名声も富もいらぬ。ただ、愛だけあればよいと言うてな。」
「あの言葉にはしびれました。
思わず春に狂い咲きして、皆に心配されたくらいです。」
それはよっぽどだと思う。
郷の開闢のときから連綿と世話され造られてきた花園だ。
そこがまだ花園でなかったときからあったとなると、それはよほどの古木である。
狂い咲きなどしたら、それこそ、皆、慌てたことだろう。
しかし父の話をするふたりの使い魔は、どこか恋話に戯れる若い娘たちのようだ。
ふたりとも、少なくとも、番人の役目を放棄した父のことを悪くは思っていないらしい。
花園の番人というのは郷の名誉あるお役目だ。
子々孫々へと代々続けて行く立派な職である。
それを放り出して郷を出るというのがどれほど大変なことだったかは、枯野にも想像できた。
「それって、母さんが、人、だったから・・・?」
ふたりの使い魔はそっくり同じ顔をして頷いた。
「由良は、どうしてもその方を妻に娶りたいと。」
「所帯を持って、生涯共に暮らしたいのだと。」
「しかし、妖狐の郷に人の嫁を連れ込むわけにはいかぬ。」
「だから、由良は自ら出て行ったのですよ。」
しかし、それがすんなりと郷に認められるとは、枯野にも思えなかった。
父のしたのは、郷への裏切りとも同等の行為だ。
下手をすれば、同族に狩られても文句を言えないほどの行いだった。
「そりゃあもう、郷中がひっくり返るほどの大騒ぎだったよ。」
「けど、そういう恋に憧れる若い娘狐たちも大勢いましたねえ。」
「何匹か、由良に決闘を挑んだ狐もおったようだ。」
「みぃんな返り討ちにされてましたけどねえ。」
父が?あの父が?
おっとり穏やかなあの父が?
母と生きるために郷を裏切り、あまつさえ、追手を返り討ちにした?
「・・・それ、あの、どこかよその由良さんのお話しでは?」
思わずそう尋ねた枯野に、ふたりの使い魔は爆笑した。
「由良という名の妖狐は、この郷には他におらぬよ。」
「郷の始まりからここにいるわたしたちが、保証いたします。」
それは確かにしっかりとした保証だ。
「由良というのはやるときはやるやつじゃったよ。」
「そんな由良に選ばれたくらいですから、あるじさまの御母上もさぞかしご立派な方でしょう。」
「琴の音に惹かれて通うた、と言うておったか。」
「珍しい琴を弾きながら謡うのだと言うておりました。
その謡がまた、この世のものと思えぬほど素晴らしいのだとか。」
「わしら、由良の嫁御には結局、会わせてもらえなんだからのう。残念じゃった。」
「そんな方との間に生まれたのが、枯野なのですよ。」
母が琴の名手だったという話は、枯野も父から聞いたことがあった。
それにしても、あの父にそんな過去があったなんて、やはり、俄かには信じがたいことだった。
ただ、ひとつだけ、心に引っかかったことがあった。
恋をしてはいけない。
父は枯野にそう言い聞かせた。
何度も何度も言い聞かせた。
父は、もしかしたら、後悔していたのではないだろうか。
母を選んだことを。
郷を出て行ったことを。
枯野が、生まれてきたことを。
自らの恋の招いた結末を、父は、よしとしていなかったのではないだろうか。
父は枯野を大切に育ててくれた。
いつもとても優しかった。
枯野は父の愛情を疑ったことは、一度もなかった。
けれど、そんな優しさの裏側で、父は本当は枯野のことをどう思っていたんだろう。
胸のなかに、ほんの少しだけ、冷たい風のようなものの吹くのを感じた。




