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枯野と琴  作者: 村野夜市
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噴き出す血潮を留めようと琴音は手で傷を抑える。

その手が刀に触れて、わずかに切れた。

けれど、その痛みも、琴音は感じていなかった。


「なんてことを!

 なんということをなさるんですか!」


怒りと悲しみが混じった悲鳴を上げる。

その琴音に枯野はこの上なく幸せそうな笑顔を返した。


「貴女を解放して差し上げると言ったでしょう?」


琴音はぶんぶんと首を振った。


「違う。

 わたしは!

 わたしは・・・!」


枯野は琴音にそれ以上言わせず、ぐいとそのからだを引き寄せた。


「気持ち悪いかもしれませんが。

 ちゃんとこの血に触れてください。

 貴女を自由にするためなのだから。」


どくどくと溢れ出す血は琴音の着物を赤く染めた。


「妖狐の生命力を、こんなに有難いと思ったのは初めてです。

 心臓を刺しても、すぐには死なない。」


枯野はにやりと微笑んだ。


「よかった。ちゃんとお別れが言える。」


「お別れだなんて!

 そんなもの、聞きたくありません!」


琴音はぶんぶんと首を振った。

枯野は優しく微笑んだ。


「心配いりません。

 終わったら、貴女は全部忘れてしまえるから。

 だから、最後だから・・・」


最後だから。

ふと琴音は枯野がさっきもそう言ったのを思い出した。

どうして謡ってくれるのかと聞いたときに。

最後だから、と。

最後だから。

だから、枯野は謡を聞かせてくれたのか。

あの舟の上で共に謡ったのも。

最後だから。

あのときから、枯野はこうすることを決めていた?

最後だから。

この記憶は琴音から消してしまうから。

だから、謡った。


忘れたくない。

琴音は強く思った。

どれほどの悲しい結末だとしても。

忘れるはずない。

忘れない!


心臓の血に触れれば忘れてしまう?

琴音は血に触れないようにからだを離そうとした。

けれど、枯野はしっかりと琴音を捕まえていて、逃がしてくれなかった。

強く抱きしめられて嬉しいはずなのに。

今は、枯野の腕から逃げ出したかった。


「もう、少し、だから。

 我慢して?琴音さん・・・」


枯野の吐息が苦しそうになる。

琴音は焦った。

誰か助けを呼びに行こう。

今ならまだ間に合う。


「枯野様?

 どうか、助けを呼びに行かせてください。

 枯野様がそのようなことをなさらなくとも、忘れろと言われるのなら忘れます。

 だから、どうか・・・」


琴音の懇願にも枯野は腕の力を緩めなかった。


「貴女に忘れられたら、もう、俺には生きていく意味もない。

 それに、俺が生きている限り、貴女の身には危険が付きまとう。

 だからもう、おしまいにします。」


枯野はゆったりと微笑んだ。

こんな状況なのに、それは心をとろかすような笑顔だった。


「琴音さん?

 ずっと、貴女に、伝えたかった。

 愛しています。」


枯野はそう言うと、琴音に口づけた。

枯野の口づけは、海の匂いがした。

深く口づけたまま、枯野は生温かいものを、口伝えに琴音に飲ませた。

それは枯野の心臓から溢れ出した血潮だった。

琴音のなかから、自分を完全に消し去ってしまうために。

誰にも、何にも、この決意は変えさせないと、枯野に宣言されているようだった。


いやです・・・

琴音の言葉は声にはならなかった。

枯野が、全力で、それを封じていた。

涙がひとしずく、琴音の目尻から伝って落ちた。

それが、琴音にできた精一杯の抗議だった。


「・・・・・・さよなら・・・・・・琴音さん・・・・・・」


耳元で、最後に聞こえた枯野の囁きの後、琴音にはもう、何もわからなくなった。

 

 

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