115
夕日を背負うようにして浜に帰ると、ソウビを先頭に、海人たちが一斉に出迎えてくれた。
その夜は、長い間海の底にいた狐の神様と、枯野たちを囲んで、大宴会が始まった。
生の魚に煮魚に焼き魚。それから、山積みの稲荷寿司。
ご馳走が並ぶ。
強い濁り酒もたくさんあった。
枯野の頼んだ塩むすびも、山のように積み上げられていた。
食べて飲んで騒いで、皆、喜びあった。
三人の狐たちは、皆、大人気だった。
盃の乾く暇もないほどに、海人たちが次から次へと酒を注ぎにきた。
山吹は、飲んでも飲んでもけろりとしていて、とぼけたことを言っては海人たちを笑わせていた。
伝説の存在が、蓋を開けると、意外に親しみやすい神様に、海人たちの人気も上々だ。
酒を飲まなくても、とぼけたことを言うので、酔っているのかどうか、さっぱり分からない。
と思っていたら、欠伸をひとつしてごろりと横になり、そのまま気持ちよさそうに眠ってしまった。
ソウビはただ黙って黙々と飲んでいた。
ゆったりと崩した姿勢で、口元にほんのり微笑を浮かべ、顔色ひとつ変えずに盃を重ねる。
何故か、盃を干すたびに、きゃあ、という嬌声が上がった。
そこそこに宴もたけなわというころ、いつの間にかすっと姿を消していた。
山吹とソウビが器用に逃げ出した後は、ひたすら、枯野が飲まされていた。
酒には酔ったこともないくらいに強かったけれど、流石に今夜はそうはいかなかった。
注がれる酒は断ることもなく干していたら、流石の枯野も、少し酔ってしまった。
ほろ酔いになった枯野は、ひとり浜に下りていった。
背中に琴を背負っていた。
波がところどころ夜光虫の光で青く光る。
生き物の気配のある海は、綺麗なものだと思った。
少し歩いたところで、流木に腰かけて海を眺めている琴音を見つけた。
琴音はじっと海を見つめて、なにか物思いに耽っているようだった。
琴音の邪魔をしないように、枯野は静かにその背中を見つめていた。
「枯野様?」
気配を殺したつもりだったのに、琴音に名を呼ばれて、枯野は慌てて謝った。
「申し訳ありません。邪魔をするつもりはなかったんです。」
そう言ってきびすを返そうとした枯野に、琴音は重ねて言った。
「邪魔だなんてこと、ありませんとも。」
琴音は座っていた流木の端に寄って、あいたところに手を置いた。
「よければ、こちらに、いらっしゃいませんか?」
「俺が座ったら、琴音さんが狭いですから。」
枯野は少し笑って近づくと、砂浜の上に直に腰を下ろした。
この位置だと、互いの視線の高さが近い。
自分が枯野の顔をじっと見つめていたことに気づいて、琴音は慌てて目を逸らせた。
「宴に戻らなくてもいいのですか?」
戻ってほしくはないくせに、琴音はそんなことを尋ねていた。
枯野は少し笑って答えた。
「みんなよく盛り上がっていて、もう俺がいてもいなくても、変わらないかな、って。
おじいさまもソウビさんも、要領よく逃げてしまいましたし。」
まあ、と琴音は目を丸くする。
それに枯野は、また少し笑った。
「琴音さんこそ、お腹いっぱい食べられましたか?」
「たくさん頂きました。」
大きく頷く琴音に、枯野は、それはよかった、と頷き返した。
そのままふたりは、どちらからともなく、海のほうへ目を遣った。
それから、ふたり同時にため息を吐いた。
それが揃っていたものだから、ふたりとも、また同時にくすりと笑った。
「海が、綺麗だな、って。」
言い訳するように言った言葉も、またまったく同じだった。
今度こそ、ふたりして弾けるように笑い出した。
「琴を、弾いて、いただけませんか、琴音さん。」
枯野はそう言って、琴音に琴を手渡した。
琴音は微笑んで琴を受け取った。
手馴らしにいくつか音をつま弾いてから、弾き始める。
琴音の琴に合わせて、枯野は謡い始めた。
ゆらのとの となかにふれる なずの木の さやりさやさや さやりさや
どこまでも素直によく伸びる枯野の声。
やっぱり枯野の謡は素晴らしい。
琴音はつくづく思った。
お役目のときに聞かせてもらったときもはっとしたけれど。
こうしてのんびり聞けると、胸の奥底から幸福感が湧き上がってくるようだった。
「セイレーンの謡は、人間の精神を狂わせる。
だから人間の前では謡ってはいけないんだそうです。」
枯野は、ゆっくりと言った。
「けれど、今はどうして、聞かせてくださったのですか?」
舟の上のときは、蛸を眠らせるために仕方なかったともいえる。
けれど、今はどうして、と尋ねる琴音に、枯野は薄く笑ってみせた。
「これが、最後だから。」
「最後?」
聞き返す琴音の手から、枯野はそっと琴を取り上げた。
「この琴は、母の故郷に返そうと思います。」
枯野はゆっくりと海辺へ歩み寄ると、そっと琴に呼びかけた。
「ツクモ殿。」
召喚に応じて付喪神が姿を現す。
「まあ、可愛らしい。」
琴の上に現れた付喪神に、琴音は歓声を上げた。
枯野は振り返ると意外そうに尋ねた。
「ツクモ殿が見えるのですか?」
「ええ。可愛らしい、小さな人魚でしょう?
鱗が七色に光って、とても綺麗ですわ。」
枯野は感心したように琴音を見たけれど、それ以上は何も言わずに付喪神に話しかけた。
「貴女のおかげで、祖父の長い間の悲願も成就しました。
本当に有難う。」
付喪神は、枯野の顔をじっと見つめて首を横に振った。
「けどもう、貴女を伯母さんたちのところへ返そうと思うのです。
伯母さんたちにとっても、貴女は大切な妹の形見なのだから。」
付喪神は小さくひとつ頷いた。
枯野を見上げた瞳はうるうると潤んで、別れを惜しんでいるようにも見えた。
「ここの海を深く深く潜れば、故郷の海へと続く潮の流れがあります。
それに乗って、お帰りなさい。」
付喪神はもう一度頷くと、すっと姿を消した。
枯野は浜辺に打ち寄せる波に、ゆっくりと琴を乗せた。
琴は、舟のように、ゆっくりと波に乗って、沖へ出ていく。
ゆらのとの となかにふれる なずの木の さやりさやさや さやりさや
小さな声で、呟くように琴音は謡った。
琴音の謡に送られて、琴はゆらゆらと波に揺られながら遠くなっていった。
ふたりは琴が見えなくなるまでずっと、並んで波を見つめていた。
遠く、遠くに行くと、とぷん、と小さな音を立てて琴は海に沈んだ。
その直前、付喪神が琴の上から手を振ったように見えた。
ため息をひとつ吐いて、先に振り返ったのは枯野だった。
「付き合ってくださって、有難うございます。」
琴音にむかって丁寧に頭を下げる。
琴音は何かが胸に詰まったような感じになって、言葉が出てこないようだった。
枯野は謝るように続けた。
「あの琴のことでは、貴女には酷い迷惑をかけてしまって。」
「迷惑だなんて!わたしはそんなことは思っておりません。
枯野様の大切な琴を預けていただけて、嬉しかったのですから。」
琴音は急いで否定した。
「今も、琴との別れが寂しくてたまらなかったのです。
けれど、琴は枯野様のお母様の大切な形見ですから。
それをお返しするのは当然のことと心得ております。」
寂しさを堪えるように言う琴音に、枯野は優しく言った。
「・・・あの琴を、そんなふうに思ってくださって有難う。
けど、やはりあの琴は、ここに置いておいてはいけない物です。
あれがある限り、貴女の身もまた、危険に晒されるのだから。」
枯野はひとつ深呼吸をすると、琴音の瞳をじっと見て言った。
「父は俺に厳しく言い聞かせました。
海に行ってはいけない。謡を謡ってはいけない。恋をしてはいけない。
この三つは必ず守るように、と。
結局、そのすべてを、俺は破ってしまいましたけど。」
枯野は自嘲するように薄く笑った。
「俺は、本当は、謡うのが好きで。
ひとりのときには、よく謡っていました。
父に見つかると叱られるから、こっそり隠れて、ね。
多分、俺のなかのセイレーンの血が、そうさせるのだと思います。」
琴音は少し考えてから言った。
「枯野様の謡を聞くと、心を揺さぶられるような、そんな心持がいたします。
それが、精神を狂わせると、そう言われる理由なのではないでしょうか。
枯野様のお謡は、あまりにも素晴らしすぎるのです。」
枯野は少し照れたように視線を逸らせた。
「それは・・・お褒めにあずかり光栄です。
こんな自己流の謡が褒めていただけるとは思いませんでしたけど。」
「枯野様の声を聞くと、胸がどきどきいたします。
深くて穏やかに優しくて。
ずっとずっと聞いていたいと思います。」
琴音の熱のこもった賛辞に、枯野は、また薄く笑った。
「母も、謡うことがとても好きだったと、父はよく言っていました。
父も母の謡がとても好きだった、と。
なのに母は、父の前では謡おうとはしなかったそうです。
それどころか、どうか聞かないでくださいと懇願したのだと。
それでも父は母の謡を聞きたくて、隠れてこっそり聞いていたそうです。」
隠れてこっそり、の辺り、父と俺は親子ですね、と枯野は笑った。
「母は、謡うことをやめられなかったのでしょう。
そうしないほうがいい、そうしてはいけないと思いつつも。
母の気持ちが、今の俺には分かります。
父が母に恋焦がれるのは、母の謡に精神を狂わされてしまったから。
謡に狂わされなければ、父は自分に恋などするはずがない。
母はきっと、そう思っていたのだろう、って。」
はっと琴音は顔を上げた。
それは枯野もまた、そう思っているということなのだろうか。
琴音は自分の謡に精神を狂わされているのだ、と。
「母はセイレーンとして生まれた自分を呪っていたのかもしれません。
望めば、どんな相手も自分の虜にしてしまえる。
そんな声を持って生まれてしまったことを。」
「違います、枯野様。
それは、違います。」
琴音は思わず枯野にそう訴えていた。
「そのお話しは、以前に、椿先生と山茶花先生からも伺ったことがあります。
けれど、そのときも、わたしはきっぱりと申し上げました。
わたしは、枯野様の謡を聞く以前より、枯野様をお慕い申し上げております。」
え?と枯野が琴音を見つめる。
琴音はうっかり勢いで言ってしまったのに気づいたが、ええい、ままよ、とそのまま続けた。
「枯野様は、あのとき出会った、あの狐さんなのですよね?
あの秋の日に罠にかかっていた。
おにぎりを半分こして食べましたよね?」
枯野は凍り付いたようにじっと琴音を見つめている。
琴音は枯野の応えは待たずに続けた。
「あの日、わたしは、心細くて淋しくて、とても辛い気持ちでした。
自分は家族に捨てられてしまったんだと感じていました。
父も母も、こうするしかなかったんだ、って分かっていても。
家族全員、生きていくためなんだと、分かっていても。
わたしはもう、生きていたくないとすら、思っていました。
母が、せめてもと渡してくれた白いお握りが、重くて辛くて。
ひとりだったら、食べられなかった。
けど、狐さんが、それをわたしと半分に分けてくれたから。
そうやって、一緒に食べたおにぎりが、あんまり美味しかったから。
これからもやっていけるかなって、そんなふうに思えたんです。」
忘れるはずなどない。
琴音はあの日枯野の命を救ってくれた。
枯野は、それをずっと恩に感じて、その恩を返そうと生きてきたのだから。
半分に分けた握り飯を差し出したあの琴音の笑顔が忘れられなくて。
それをずっと胸に抱いて、生きてきたのだから。
「あのときから、わたしは何度も何度も、枯野様に助けていただきました。
毎朝、お花を届けてくださいましたよね?
ときどき、お米や、栗も届けてくださいましたよね?
見習いの仕事は辛いこともありましたけど、あの贈り物に、どれだけ慰められたことか。」
あの頃は、枯野もまだお役目を請けられない仔狐だった。
野で摘んだ花を最初に届けたとき、見つからないように物陰に隠れて、ずっと見ていた。
花を拾った琴音の笑顔は忘れられない。
それを見たくて、ずっと続けていた贈り物だった。
「風音姐さんのときも。
初めてお会いしたのに、初めてのような気がいたしませんでした。
この方は、わたしの悲しい気持ちを全部知っていらっしゃる。
ちゃんと知って、そうしてここにいてくださる。
そう感じて、とても救われました。」
胸のなかで号泣した琴音のことは忘れられない。
うっかり抱きしめてしまいそうになるのを、堪えるのが大変だった。
この人をこのまま一生、守っていられたらと思った。
ずっと、出会わずにいるつもりだった。
けれど、そんなことは無理だった。
一度、出会ってしまえば、後はもう、止められるはずもなかった。
「枯野様が行方を断たれたとき、とても心配しました。
けれど、枯野様は、きっと戻っていらっしゃると思いました。
わたしにできることは信じて待つことだけだったけれど。
きっと待ち続けようと思いました。」
あのとき。
遠い海で、風に運ばれた琴音の声を聞いたとき。
どうしてこれを忘れていられたんだろうと思った。
自分自身が完全に作り変えられたのだとしても。
ほんのひと時でも、琴音を忘れてしまうなんて。
「だから、こんなふうに一緒に連れてきていただけたのが、とても嬉しかった。
ずっと、なにか枯野様のお役に立ちたいと望んでおりました。
足を引っ張るようなこともたくさんいたしましたが。
それでも、わたしが役に立ったと枯野様に言っていただいたとき。
心が浮き立つようでございました。」
そんなこと。
それならば、自分はもうずっと前から、心は浮き立ち続けている。
琴音がいてくれるだけで。
最初に、あの森で出会ったときから、もう、ずっと。
恋をしてはいけない。
最初に破ったのは、その禁忌だった。
必死に恩返しだと自分に言い聞かせていた自分が、滑稽にすら思える。
とっくの昔、初めて会ったあの秋の日に。
自分はもう、琴音に恋をしていたのだから。
枯野の謡を聞く前から、自分は枯野に恋をしていた。
必死になってそう説明しようとする琴音が愛おしい。
もういっそ、そういうことにしてしまえたら。
そんなふうに思ってしまう自分を、枯野は必死に戒めた。
違う。
初めて会ったあの日、確かに自分は琴音に恋をした。
だからこそ、琴音のこの言葉を受け入れてはいけない。
最初にそう望んだのは、枯野なのだから。
望めばどんな相手も虜にできる。
母もきっと、このセイレーンの血を呪ったことだろう。
愛しい相手に告げられる愛は、全部この血の呪いのせい。
この呪われた自分が、誰かに本当に愛されることなんか、あり得ない。
その思いが胸を苛むから、恋はセイレーンの命を縮めていく。
海に、行っては、いけない。
謡を、謡っては、いけない。
恋を、しては、いけない。
それを破ると、枯野は必ず、不幸になる。
そして、枯野の大切な人もまた、不幸にしてしまう。
父の三つの戒めの意味が、今、ようやく分かった気がした。
枯野は辛そうに首を振った。
「他種族とセイレーンとの間の恋は、昔からうまくいった試しがないそうです。
他種族が、セイレーンに本気の恋などしても、命を縮めるだけ。
けれどもし、セイレーンのほうが本気になったら、今度はそのセイレーンが命を落とす。
そう、俺の両親のように。」
枯野が最後に付け加えた一言に、琴音はがつんと殴られたような気がした。
そんなものは間違いだ、とは言い切れない。
現に、枯野の両親はとても早く亡くなってしまったのだから。
「俺は、貴女を不幸にするわけにはいきません。
だから、これはもう、おしまいにするしかないのです。」
そう言って、枯野は懐から一本の小刀を取り出した。
「これは、伯母たちにもらったものです。
うまくいかない恋に苦しくなったら、この刀で、相手の心臓を刺しなさい。
相手の心臓の血が降りかかれば、すべて忘れて自由になれる。
伯母はそう言いました。」
琴音は枯野を見上げる。
枯野はこの上もなく優しい笑顔で琴音を見つめ返した。
枯野の手の中の小刀は一見、普通の小刀のように見えた。
枯野の大きな手に持つと、玩具のような大きさだった。
「ずっと、貴女を護りたいと思ってきました。
けど、ウサギ穴で貴女が恐慌をきたしたとき、これ以上貴女を苦しめてはいけないと思いました。
俺の生きている世界は、貴女にとっては、わけが分からなくて、恐ろしい世界です。
俺が傍にいれば、また貴女をあんなふうに苦しめてしまうかもしれない。
危険な目にも合わせてしまうかもしれない。
だから、今の一件が済んだら、もうおしまいにしようと、決めていました。」
枯野はすらりと小刀を抜いた。
刀はきらりと怪しく光った。
小さいけれど、よく切れそうな刃だった。
琴音は覚悟を示すように、くいと顔を上げた。
枯野のことを心から信頼する目をして、琴音は枯野をじっと見つめた。
「分かりました。
何もかも、枯野様の御心のままに。」
枯野は満足気に微笑んだ。
「有難う、琴音さん。」
「枯野様がどうお考えになったとしても、わたしの心はわたしのものです。
枯野様のことをお慕いするこの気持ちは、呪いなんかじゃない。
誰よりわたしが、そのことは知っています。
それでも、枯野様が苦しいのならば、どうぞ、この命、貴方に差し上げます。」
覚悟を示すように胸を開く琴音を、枯野は愛しそうに見つめた。
「呪いでも幻でも、愛しい人にそんなふうに言ってもらえたら。
この至福を、俺は、永遠に抱いて行きます。」
枯野はすっと真剣な目をすると、一息に刀を突き立てた。




