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暗闇の海のなかを、枯野は深く深く潜っていった。
夜目の効く妖狐ですら、何も見えない暗闇だった。
海中には、大きな水の流れがあった。
一方向へ物凄い勢いで流れたかと思うと、今度は、反転して逆方向へと流れていく。
その水流が、海上の大波を引き起こしているらしかった。
枯野は水流に翻弄されながらも、少しずつ、蛸のいたほうへと進んでいった。
すると、何も見えない闇のなかに、ごおごおと音を立てて水が吸い込まれていくのが分かった。
水はしばらく吸い込まれていくと、今度はまた、そこから噴き出してくる。
それはまるで、巨大な海の生き物の呼吸のようだった。
そのとき、海上から無数の光が降ってきた。
それは、ソウビの狐火の灯だった。
いくつもいくつも降り注ぐ灯は、ふよふよとくらげのように漂い、海のなかを青く照らし出した。
ほんのりと明るくなった海中に、一箇所、闇の凝り固まったところがある。
それが、あの大岩のような巨大な蛸の影だった。
明るいとは言い難い光の量ではあったけれど、妖狐の目には十分だった。
淡い光のなかで、枯野は蛸の様子をよくよく観察した。
蛸はせっせせっせと海水を吸い込んでは吐き出していた。
巨大な蛸の深呼吸が、あの大波を引き起こしているのだった。
ぼんやりと見えた蛸の体色に枯野は目を見張った。
瘴毒の影響を受けたのか、蛸は、全身、紫色になっていた。
より深く瘴毒の影響を受けたところは、さらに濃く、黒ずんできていた。
使鬼の呪いの解けた蛸には、たとえ元は己の体液だったとしても、瘴毒はやはり毒になるのか。
それでも、蛸は、瘴毒に穢された海水を呼吸し続けていた。
もしかしたら、これは好機かもしれない。
封じられた蛸は、この場から逃げることはできない。
蛸は体内に蓄積した瘴毒でひどく弱っているように見えた。
今ならば、枯野ひとりでも、怪物蛸に対峙できるかもしれないと思った。
なのに、次の瞬間、枯野は、蛸の封印の鍵を探し始めていた。
蛸を封じたのが、大昔の妖狐の術ならば、その鍵がどこかにあるはずだ。
それを解けば、蛸を自由にしてやれる。
憎い怪物だった。
その昔、海人たちの集落を滅茶苦茶に破壊し、一族をばらばらにさせた。
退治すべき敵だった。
けれど、蛸は、己が望んで海人たちを襲ったわけではない。
操られ、怒りと恐怖に狂わされて、襲うように仕向けられた。
戦うべきなのは、蛸ではなく、そう仕向けた輩のほうだ。
蛸にも、枯野の姿は見えているはずだった。
それでも、蛸は、枯野に攻撃を仕掛けてはこなかった。
ただ、じっとその場から動かずに、呼吸を続けていた。
早くここから逃がしてやらないと、いかに巨大な蛸といえど、命も危ういだろう。
鍵は意外なほどあっさり見つかった。
枯野にも解呪できるくらい、単純な鍵だった。
呪を唱えると、封印は簡単に消し飛んだ。
蛸は自由になった。
なのに、その場から動こうとはしなかった。
もしかしたら、封印を解かれたことに気づいていないのだろうか。
枯野は、蛸を動かそうとして、わざと軽く攻撃してみた。
けれど、蛸は、枯野にはまったく構わずに、ただ、じっとその場で呼吸を続けた。
青い狐火の灯りでも分かるくらい、蛸は黒くなっていた。
闇が濃く濃く、蛸の形に凝り固まっていくかのようだった。
枯野はふと、辺りの瘴毒が、少しずつ薄まっているのに気づいた。
蛸は呼吸をすることで己のからだで毒を濾して、綺麗にした水を戻しているのだった。
海を、浄化しているのか。
まさか、と思った。
信じ難いことだった。
けれど、そうとしか考えられなかった。
枯野は、黒く色の変わった蛸のからだに浄化の術を使おうとした。
けれど、うっすらと一点の色が変わっただけで、それもすぐにまた黒く戻ってしまった。
巨大な蛸のからだに、いかに枯野が全力で浄化をしようとしても、追いつくことはできなかった。
枯野は呆然とした。
このままでは、蛸は助からない。
海に溢れた瘴毒は、いくら巨大な蛸でも、そう簡単には浄化しきれるものではない。
それでも、蛸は、瘴毒を吸い込み続けていた。
やめろ。
やめてくれ。
気が付くと、蛸の足に縋り付いていた。
力づくで動かそうと引っ張っていた。
けれど、山を動かそうとしても無駄なように、蛸はびくともしなかった。
くそっ。くそっ。くそっ。
吸盤の柔らかそうなところを、力を込めて殴ってみた。
体当たりもしてみた。
けれど、蛸はまったく意に介さない。
苦手な術も使ってみた。
狐火をぶつけたら、少しだけ、迷惑そうに足を動かしたけれど、それだけだった。
悔しい。悲しい。
海を穢したのは、お前のせいじゃないだろうに。
なのに、どうして、お前は、お前の命を懸けて、海を綺麗にしているんだ?
答えは分かるようで分からない。
いや、分からないけれど、分かるような気もする。
分かるから、とても悲しい。
ここは、蛸の暮らす海だ。
ここ以外に蛸の行く場所なんかない。
瘴毒の蓄積した足先が、黒く石化して脆くなり、ぼろぼろと崩れ落ちていく。
蛸が己のからだに貯め込んだ毒は、蛸自身の命を蝕んでいた。
それでも、蛸はそこから動こうとせずに、瘴毒を含んだ水を吸い込み続けた。
もう、いい。
もういいから。
どうか、ここから逃げてくれ・・・
枯野は吸盤のある蛸の足に縋り付いた。
蛸はもう、動かないのではなく、動けないようだった。
吸盤も固くかさかさになって、縁からぽろぽろと欠けていった。
枯野は、どうしようもなく悲しかった。
涙が溢れた。
ぽろぽろ、ぽろぽろ・・・
溢れた枯野の涙は、海には溶けずに、白い真珠になって転がり落ちた。
蛸はまだ息を続けていた。
瘴毒に穢れた水と一緒に、蛸はその真珠も吸い込んだ。
小さな白い粒は、きらきらと、いくつもいくつも、吸い込まれていった。
すると、蛸のからだのなかに、ぽつり、ぽつりと、光が灯った。
それは小さな小さな真珠の形の、小さな小さな光だったけれど。
みるみるうちに、黒い闇の塊のような蛸のからだ全体を埋め尽くしていった。
そのとき、海上から、一筋の光が降りてきた。
真っ直ぐに降りた光は、蛸を照らし、枯野を照らし、海を照らした。
さやさやと、一斉に、辺りのなずの木たちが揺れ始めた。
ゆらのとの となかにふれる なずの木の さやりさやさや さやりさや
光と共に謡が降ってきた。
すると、それと呼応するかのように、海の底からも、歌声が聞こえてきた。
ゆらのとの となかにふれる なずの木の さやりさやさや さやりさや
涙の真珠を飲み込んだ蛸の放つ光と、海の上から照らす光。
ふたつの光が溶けあって、明るく輝いた。
一斉に動き出したなずの木は、さやさやと揺れながら海の瘴毒を吸い込み始めた。
瘴毒を吸ったなずの木は、黒く変色し、ぼろぼろになって崩れて落ちる。
崩れて落ちたところに、また次のなずの木が立ち上がる。
その木も崩れれば、また次、また次、と。
次々に立ち上がるなずの木は、瘴毒を吸い続けた。
森は蛸を護り、海を護る。
光と謡は、その森に力を送る。
さやりさやさや さやりさや
揺れるなずの木の、それは、優しい謡だった。




