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枯野と琴  作者: 村野夜市
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どのくらいそうしていたのか。

気が付くと、歌は聞こえなくなっていた。

ただ、ざざ、ざざ、と響く波の音のむこうに、まだあの歌がないかと探すけれど。

それはもう、どこにもなかった。


いつの間にか、涙が頬を伝っていた。

乾きかけてぱりぱりになった頬を琴音は手の甲でこすった。

鼻をすすったら、ずるっと音がして、その音に思わず自分で笑ってしまった。


ちゃ、ぷ、ん・・・


そのとき、静かな水音がして、くぃ、と舟の縁が揺れた。

はっとして振り返ると、そこに、枯野の姿があった。


「っか、枯野様?」


思わず名を呼ぶと、枯野はあの穏やかな笑みを浮かべて、こんばんは、と言った。


あれほど会いたかったのに、いざこうして自然な様子で目の前にいられると言葉が出てこない。

枯野は海の水に浸かったまま、手だけ舟の縁にかけて泰然としている。

背中にはあの琴を紐に括りつけて背負っていた。

その白い腕や肩がむきだしなのに気づいて、琴音は慌てて視線を逸らせた。


「あ、アニキ!」


驚いたのは、琴音だけではなかった。

目を丸くして息を呑んだ京を、枯野はちらりと睨んだ。


「こんな海のなかに琴音さんを連れ出したりしたら、危ないだろ?」


「っだ、大丈夫っすよ、おいら。舟の扱いには慣れてますから。」


強がって言い返す京に、穏やかにたしなめるように枯野は言った。


「どんなに手慣れていても、万にひとつの間違いがないとは言えないだろう?

 それに、今この海は危険なんだから・・・」


「大丈夫っすよ。

 アニキが毎朝毎晩、封印を強化してるんだから。

 けど、そのせいで、いつ行ってもアニキに会えないって。

 姫さんがあんまり嘆くもんっすから、おいらも辛くって。」


琴音を引き合いに出すと、枯野は琴音のほうをむいて、静かに言った。


「それは、申し訳ありませんでした。琴音さん。」


京はここぞとばかりに追い打ちをかけた。


「姫さんは、アニキに嫌われたんじゃないか、って。

 それはもう、それはもう、心配してたんっすから。」


琴音ははらはらしながらも、うっかり顔を上げてしまえなくて、困っていた。


「それにしても、こっそり近づいたのに、どうして気づいたんです?」


京が話しを変えてくれて、琴音はこっそりほっとした。

枯野は呆れたように返した。


「気づくに決まっているだろう?

 よくもまあ、毎晩毎晩、こそこそと見に来ていたよね。

 歌っている間は、近づくなって、あんなに言ったのに。

 あまつさえ琴音さんまで連れてくるなんて、まったく・・・」


くどくどと叱る枯野に、琴音はなんだかおかしくなってきて、笑いが込み上げてきた。

何がおかしいのか、どうしておかしいのか、自分でもよくは分からない。

けれど我慢しきれず、くすくす笑い出したのが止まらなくなって、気が付くと声を立てて笑っていた。


「え?あれ?姫さん?

 なんで笑ってるんです?

 ここ、笑うところっすか?」


きょとんとした京がそう尋ねる。

琴音は涙を零しながらも、笑うのを止められなかった。


「だって。枯野様が。あまりにも、枯野様だから。」


笑いながら琴音が言った理由に、枯野と京は思わず顔を見合わせた。


「アニキ。アニキってば、アニキってだけで、笑い者なんっすかね?」


「人聞きの悪いことを言うなよ。

 けど、琴音さんが笑ってくれると、俺も嬉しいです。」


枯野は困ったように琴音に頭を下げた。


「琴音さんのこと、俺、怖がらせてばっかりで。

 この間のことも、謝らなくちゃって、ずっと、思ってました。

 けど、また怖がらせてしまったらって思ったら、顔を合わせるのが怖くて。

 封印を言い訳に、逃げ回っていたかもしれません。」


「なんだ、やっぱり言い訳だったんだ。」


鬼の首をとったように京が言う。

それに枯野はむっとして言い返す。


「忙しかったのは、嘘じゃない。

 けど、前の俺なら、何をしても、琴音さんに会いに行く時間は作っていたはずだから。

 そうしなかったのは、怖気づいていたせいだってのは、自覚してる。」


枯野はきまり悪そうに、ちゃぷんと水音を立てて髪をかき上げた。

きらりと光った水の雫が白い肌を滴り落ちていく。

そんな仕草のひとつひとつにも、琴音は思わずどきりとする。

今日の枯野はいつになく艶めかしすぎる。


邪念を振り払うように琴音は頭を振ると、勇気を振り絞って、口を開いた。


「わたしも。枯野様に謝らなければって、思ってました。

 ごめんなさい。枯野様。

 枯野様はわたしを助けてくださったのに。わたし、あんな・・・」


言い募る琴音を遮って、京はにやりと笑って言った。


「枯野のアニキね、ソウビのアニキに叱られたんっすよ。

 お前さんの顔、鏡で見てみなってね。

 それ見りゃ、大抵の女子は驚くだろうよ、って。

 まったく、お前さんは、化け物屋敷のお化け役かい、って。」


この際とばかりに、洗いざらい暴露してしまう。

枯野はため息を吐いて、琴音に言った。


「あれは俺が悪かったんです。

 貴女に非は爪の先ほどもありません。

 だから、謝らなければならないのは、俺のほうです。

 本当に申し訳ない。」


「いいえ、悪いのはわたしです。」

「いや、それは、俺なんです。」


謝り合戦を始めたふたりを分けるように、京が言った。


「そういや、さっきの歌、妙でしたね。

 さやりさやさやのとこばっか、何回も繰り返して。

 あれって、なんか、意味あるんっすか?」


途端にぎょっとしたように枯野は黙り込んだ。

そういえば、と琴音も言った。


「あれは、ゆらのとの、の謡でしょう?

 来る途中、京様に教えていただきました。

 海の底の狐の神様がお作りになった歌だ、って。」


「ああ・・・はい。」


枯野は何故かもたもたと頷いた。


「何故、さやりさやさやのところを?」


琴音にも尋ねられて、枯野は困ったように、きょろきょろと視線を彷徨わせた。

けれど、何か答えなければ、この場は逃れられないと思ったのか、おたおたと言った。


「い、いや・・・それは・・・その・・・

 そう!歌の、歌詞を、忘れて・・・」


「???

 忘れるほど長い謡でもないかと・・・」


「い、いや・・・その、…俺は、さやりさや、のところが、っす、好きで・・・

 った!たまには!趣向を!変えて?も!いいか?と!!!」


何故か一区切り一区切り強調したかと思うと、今度はひどく早口になった。


「ええ、はい。それは、毎朝毎晩、歌い続けているものですから。ええ、たまにはね?

 少し変えてみてもいいかなあ、って。言葉を声に乗せて送るのは、心地よいのですけれど。

 ええ、さやという音はことに、いい音だなあ、って。いや、いいなあ、って・・・」


「へえ~、そんなもんっすかね。」


京があっさり頷いたところで、枯野は疲れ果てたように、ずぶずぶと海に沈んだ。


「ああっ!枯野様?」


慌てて海を覗き込む琴音を、京は海に落ちないように急いで捕まえた。


「枯野のアニキなら、大丈夫っす。

 それより、姫さん、落ちたら流石にまずいっす。」


琴音の悲鳴を聞いた枯野も、慌てて浮上してきた。

それでも、ぎりぎり琴音には触れないように、出しかけた手は急いで引っ込めた。


「すみません。今、俺には触れないでください。

 ああ、今だけです。

 今の俺は、たっぷり瘴毒を浴びているので。

 陸に上れば、大丈夫です。」


枯野は慌てて言い訳をするように言った。


「へえ。あの瘴毒って、まだ消えてないんっすか。

 おいら、アニキが毎日泳いでても平気そうだから、もう消えたのかと思ってました。」


けろっとして言う京に、枯野は小さなため息を吐いて返した。


「消えてはいないよ。それどころか、少しずつだけど、増え続けている。

 俺が無事なのは、ソウビさんの作ってくれる丸薬のおかげだ。」


「ああ。あの、山葵の?」


「そう。その山葵の。

 俺はもう立派な狐の山葵漬けだよ。」


枯野は自嘲するように笑った。


「本当は、あの札をなんとかしなければならないんだけど。

 下手に手出しをして蛸が暴れたら、厄介なことになる。

 そう思うと、なかなか思い切っていけないんだ。」


枯野はそう言ってため息を吐いた。


「セイレーンの琴は、海の上でなければ鳴らせない。

 琴を止めて近づけば、蛸を起こしてしまう。

 けど、琴を鳴らしたまま、蛸に近づくことはできない。」


「わたしが!

 わたしが琴を鳴らします!」


思わず琴音はそう申し出ていた。

今にも枯野に掴みかかりそうな勢いだった。

あんまり勢い込んだので、京が捕まえてくれなかったら、海に落ちていた。


「どうかわたしに、琴を弾かせてください!」


枯野ははっとしたように琴音を見て、それから、反射的に首を振ろうとした。

けれど、その枯野に京が言った。


「そうしましょう、アニキ。

 姫さんに琴を弾いてもらいましょう。

 姫さんは、その琴を鳴らせるんでしょう?

 姫さんに舟で琴を弾いてもらって、その間に、アニキは蛸のところに行けばいい。

 そうすれば、蛸に突き立てられている札を無効化できるんですよね?」


先手を打たれて、枯野は躊躇うように視線を泳がせた。

琴音にそんな危ないことはさせられない。

枯野の瞳がそう言っているのがありありと分かる。

けれど、琴音はここぞとばかりに、精魂込めて訴えた。


「枯野様。

 わたしは、何のお役にも立てないばかりか、貴方にご迷惑をかけるばかりです。

 そのことを、ずっと心苦しく思っておりました。

 申し訳なくて、いたたまれなくて、辛くてたまりませんでした。

 どうかどうか、わたしを使ってくださいませ。

 貴方様のために、なにか少しでもお役に立ちたいのでございます。」


「・・・琴音、さん・・・

 俺は、貴女に、役に立ってもらおうとか、そんなことは、考えていません。

 ここに連れて来たのだって、貴女を護りたかったからです。

 そんな貴女に、お役目を手伝わせるなど、とんでもない。

 万にひとつも、危険なことには、一切、関わらせたくない。

 そのくらいなら、瘴毒の海も泳ぎ切ってみせます。」


一手遅れたものの、枯野は頑として首を振った。

けれど、言い出した琴音の勢いは止まらなかった。 


「わたしは、枯野様のお役には立てないのですか?

 せっかく、できそうなことが見つかったのに、してはいけないとおっしゃいますか?

 枯野様、それはあんまりです。

 お願いですから、わたしにも、枯野様のお力にならせてください。」


「何も。

 何もしなくていいんです。

 琴音さんは、そこにいてくださるだけで。

 俺には、じゅうぶんすぎるほど、じゅうぶんなんです。」


枯野ももまた頑として後には引かなかった。

お互いにきりきりと睨み合った後、琴音が、ふ、と力を抜くように微笑んだ。


「枯野様。枯野様がどれほどにご立派な方か、よく存知ております。

 強くて優しくて大きくて。

 そんな枯野様のお力になりたいなんて、烏滸がましいにもほどがある。

 もちろん、そんなこともよく分かっております。

 それでも、あえてわたしは、貴方のために、何かしたい。

 怪物の許へと赴く貴方をこのわたしにも守れるというのなら。

 全力で、貴方を守りたいのです。」


枯野は呆然として琴音を見つめ返した。


「・・・貴女が・・・?俺、を・・・?」


そこで、まあまあ、とふたりの間に割って入ったのは京だった。


「アニキも姫さんも、互いのことを思いやってるってのは、よく分かりました。

 そんなに大事に思ってるのに、喧嘩してたら、本末転倒っすよ。」


京に言われて、ふたりとも、申し訳なさそうな顔になった。


「さてと、そろそろ、引き返しますかねえ。」


京は櫂をとると、のんびりとそう言った。

見上げると、明け方のほっそりとした月が上ってくるところだった。


「アニキも乗って行きますか?

 もうひとりくらいなら、余裕で乗れますけど?」


「いや、俺は・・・

 水から上るわけには・・・」


赤くなって目を逸らせた枯野に、京は、ああ、そっか、と軽く言った。


「んじゃ、アニキは泳いで帰ってください。

 おいら、姫さん連れて、帰りますから。」


「ああ・・・くれぐれも、気を付けて、頼むよ。」


枯野は念を押してから、ついっとからだを翻した。


ちゃぷん。


七色に輝く尾ひれが、きらりと光って、水のなかへと消えていく。

あまりにも美しいその姿に、琴音は息を呑んでいた。


「あれが、枯野様の、人魚姿?」


ぽつりと尋ねる琴音に、綺麗っすよねえ、と京も返した。


「姫さんも、あれを綺麗だって、思うんっすよね?」


念を押すように尋ねる京に、琴音は深いため息を吐いた。


「本当に、枯野様は、美しくて、強くて、立派で。

 わたしには手の届かない方だと承知しております。

 それでも、叶うなら、一度でいい。

 枯野様に必要とされたいと思います。」


「アニキにとって、姫さんはもう、なくてはならない人だと思いますけどね。」


京はひとつ肩を竦めて、舟を戻し始めた。





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