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その夜のことだった。
この家では、日が落ちると、灯りの油ももったいないと早々に床に入る。
花街暮らしの長い琴音には、静かな夜は却って寝付かれなくて、少し困る。
仕方なしにこっそりと縁側に出て、庭の景色を眺めていた。
新月が近くて、明け方に出る三日月は、まだ見えない。
代わりに満天の星が、今にも降ってきそうなほどたくさん見えていた。
あのたくさんある星には、全部、名前があるらしい。
とても全部は覚えきれないだろうけれど。
それでも、ひとつ、ふたつ、名前を知っている星は見えないかなと、探していたときだった。
「姫さん、姫さん・・・」
こっそりと押し殺した声が庭のほうから聞こえてきた。
そちらに目を遣ると、京が、口に人差し指を押し当てて、しぃーっと言うのが見えた。
「姫さん、ちょっとおいらと来てもらえませんか?」
こんな夜更けにいったいなんだろう。
琴音はそう思ったけれど、素直に京についていくことにした。
「暗いんで、足元に気をつけてください。」
京は琴音の手を取って、急ぎ足に歩く。
それは、浜へと続く道だった。
明るいときに何度も歩いたことのある道だったから、琴音もそれほど苦労せずについて行けた。
海人たちの舟を並べてある辺りに着くと、京は一艘の舟を海へと押し出した。
「乗ってください。」
舟に飛び乗って櫂を操りながら、京は琴音を手招きした。
琴音は言われるまま、素直に舟に乗り込んだ。
舟のなかには、灯りがつけてあって、ほんのりと足元を照らしていた。
灯りは外に漏れないように、覆いをつけてある。
この支度をしてから、京は琴音を連れ出しにきてくれたようだった。
「海に出るのですか?」
この村に来てから、海は毎日見ていたけれど、そこへ行ったことはなかった。
海の水には瘴毒が含まれているから、足を浸けたりもしないようにと言われていた。
「舟なら、大丈夫っすよ。」
京は琴音の不安を分かっているように頷いてみせた。
それだけではなく、どこか嬉しそうにも見えた。
「いいものを、見せてあげます。」
「いいもの?」
「まあ、それは、見てのお楽しみ。」
京はにこにことそう言うと、舟を海へと出していった。
夜の海はとても暗くて、恐ろし気だった。
ぞわ、ぞわ、と揺れる波に、ぞくり、とした。
「怖い、っすか?」
怯えている琴音に気づいたのか、京はのんびりとそう尋ねた。
「誰でも、知らないものは、怖いもんっすからね。
でも、おいらこう見えて、舟の扱いには慣れてますから。
大船に乗ったつもりでいてくれていいっすよ。」
まあ、舟は小さいっすけどね、と京は笑う。
つられて琴音も少し笑った。
ゆらのとの~
となかにふれる
なずの木の~
京は櫂を操りながら、のんびりと歌い始めた。
琴音はその歌に、はっと顔を上げた。
それは琴音もよく知る謡だった。
風音に習った、その前は風音が潮音にならった謡だった。
京の歌うのは、少し単純な節回しで、あっけらかんと明るく聞こえるけれど。
それは確かに、あの謡だった。
「そのお歌は・・・」
「うちの村に伝わる歌っす。
社に祀られている狐の神様の作った歌だそうです。
あ、それって、ただの伝説じゃなくて、本当の話しだったんっすけどね?」
京は海の底にいる山吹の話しをした。
海の底で皆を守るために琴を弾き続ける狐の神様は、実は枯野の祖父だということも話した。
「枯野様って、本当に立派な方なのですね。」
「本人にあまりその自覚はありませんけどね。」
しきりに感心している琴音に、京は笑って言った。
「まあでも、それがまた、いい、というか。
アニキらしい、というか。
本当ならおいらがアニキとか馴れ馴れしく呼んでいいお人じゃないんっすけど。
けど、アニキと呼びたくなってしまうというか。」
「・・・分かります。」
琴音も深く頷いた。それから、京のことを真っ直ぐに見上げて言った。
「けれど、京様も、枯野様と同じくらい立派な方だと思います。
おひとりで山吹様にお会いに行かれるくらい、勇気のある方なのですから。」
京はちょっとだけ黙って、琴音のほうをじっと見つめた。
それから、ぱっと、弾けるように笑った。
「はっ。こりゃあ、枯野のアニキでなくても惚れるね。
なるほどなるほど。いやあ、まいった。」
京は、まいったまいった、と繰り返しながら、海のむこうを見やった。
その視線は幾重にも重なる波の向こう側を見つめていた。
「しぃ、静かに。
そろそろっす。
よくよく、耳をすませてください。」
京に言われて、琴音は急いで両手で口元を抑えた。
息すらも潜めて、じっと遠くに目を凝らす。
すると、ざざ、ざざ、という波の音に混じって、静かに歌う声が聞こえてきた。
さやりさやさや さやりさや
さやりさやさや さやりさや
深みのある声に、胸がどきりとする。
一気に頭に血が上り、顔が熱くなった。
背筋がぞくぞくとする。
肌がぷつぷつと泡立っていく。
同時に、自分のなかのなにかが解放されるような心地よさも感じていた。
さやりさやさや さやりさや
さやりさやさや さやりさや
そこばかりを何度も何度も繰り返す。
それに琴の音が混じる。
声の主は尋ねなくても分かる。
枯野だった。
「この先に、干潮のときにだけ現れる小さな岩礁があるんです。
もう誰も覚えていないくらい昔、その岩礁は、枯野って呼ばれてたんだそうです。
それをソウビのアニキが見つけたんっすよ。
その真下に、例の怪物は封印されてるんだそうです。
枯野のアニキは、その封印を強化するために、その岩礁に行って、琴を弾いているんです。
琴ってのは、海の上でなければ、鳴らせないんだそうで。
セイレーンの琴ってのも、そこはちょっと不便なんっすかね。」
京が静かに説明してくれた。
京の言葉を聞きながらも、琴音の耳には、枯野の声でサヤというのが、鳴り響いていた。
琴音がまだ花街に来る前、幼いころの名は、サヤと言った。
もうずっと忘れていた名だったけれど。
その声を聞いた途端、自分の名が呼ばれているような気がした。
さやりさやさや さやりさや
思わず、はい、と応えてしまいたくなるのを、琴音は必死に堪えた。
ずっと、もう一度聞きたいと切望した枯野の歌。
それをこんな海の真ん中で聞くことになるとは思わなかったけれど。
それでも、折角訪れた機会を、ほんの少しも逃したくない。
もうずっと、いつまでも聞いていたい。
そのためには、枯野に、今ここにいることを気づかれてはいけない気がした。
琴音は必死に息を潜めて、ただ、枯野の声を聞いていた。




