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ざざ・・・ざざざ・・・ざざあ・・・ざざ・・・
止まずに聞こえる海鳴りにも慣れた。
海人たちの用意してくれる食事にも慣れた。
いつも少し塩辛い井戸水にも。
眩しくて歩きにくい砂浜にも慣れた。
咄嗟に気を失わせてくれたソウビの判断は正しかった。
琴音が心に負った傷は最小限で済んでいた。
陽気な海人たちの温かい思い遣りに包まれた、穏やかな日々。
そのなかで、琴音の負った傷は、みるみるうちに回復した。
琴音は長老の家で、村の賓客として、大切に世話されていた。
お狐様たちの大事な大事な姫君だから。
そう言って、下にも置かぬもてなしを受けた。
大切にされ過ぎて、少し困るくらいだった。
来る日も来る日も、ただ座敷の奥にいて、上げ膳据え膳で暮らしている。
家事を手伝おうとすると、家人の誰かに止められてしまう。
他所の土地の勝手の分からない琴音は、無理に手を出しては却って迷惑かとも思う。
仕方なく、心苦しく思いながらも、甘えさせてもらっていた。
長老の家族はとても親切な人たちで、琴音に不足はないかと、何かと気をつけてくれた。
ことに幼い孫娘は、すぐに琴音に懐いて、いつも傍にいたがった。
姫君の邪魔になるのではないかと、家族は心配したけれど。
琴音はむしろ、子守りくらいはさせてほしいと思った。
幼子は、琴音の膝にもたれて、とりとめもない話しをしたり、歌を歌ったりした。
ときには庭に出て、花や草を使ってままごとをすることもあった。
その姿はとても愛らしくて、琴音の心を明るくしてくれた。
ときどき、京という若い海人が、話し相手になりにきてくれた。
海人らしい、気さくで陽気な京に、琴音はすぐに馴染んだ。
京は、海人たちの暮らしや、海のことを琴音に教えてくれた。
それから砂浜に散歩にも連れ出してくれた。
海の風は独特の匂いがして、最初は少し、苦手だった。
けれど、今はそれさえも、心地よいと感じるようになった。
京と一緒に浜を歩くのは、琴音の楽しみのひとつになった。
少しもじっとしていない海は、ずっと眺めいても少しも飽きなかった。
打ち上げられた流木に腰かけて海を見ていると、京には何でも話せる気がした。
あれから、枯野には会っていない。
枯野とソウビは、村の社に滞在しているらしい。
そう聞いて、何度か会いに行ってみたけれど。
いつも留守で会えなかった。
枯野もソウビも元気だと京は言った。
今は忙しくて会いに行けなくて残念だ、って、言ってました。
京は笑ってそう言ったけど。
それは嘘だと、琴音は思った。
忙しいというのは、嘘ではないと思う。
だけど、会えなくて残念だというのは、きっと嘘だ。
枯野は、残念とは思っていないだろう。
むしろ、もう二度と、琴音には会いたくないと思っているのではないだろうか。
自分は枯野を傷つけてしまったのだと思う。
あれほどに、苦しそうに謝る枯野に、何も言えなかった。
枯野が悪いなんて、髪の毛一筋ほども思ってはいなかったのに。
血を流して謝る枯野の姿を、恐ろしいと思ってしまった。
あのときのことは、後悔しても後悔しても、後悔しきれない。
きっと、枯野は、琴音に拒絶されたと思っただろう。
どう謝っても許してもらえない。
だからもう、自分には会ってくれないんだろう。
今、この村は大変な状況にあるのだと聞いた。
海人たちの生活の場である海に、恐ろしい怪物が眠っていて、そこから瘴毒が溢れてくるのだと。
枯野たちは、それをなんとかするために、働いているのだと。
恐ろしい怪物を相手にしている枯野たちのことは、とても心配だった。
けれど、自分には、そんな枯野たちのことを心配する資格はないと思った。
何か、ほんの少しでも、力になりたい、力になろうと思っていたはずなのに。
結局は、何の力にもなれないどころか、足手まといにしかならない事実に、打ちのめされていた。
何度も会って、言葉を交わして、枯野のことをとても近く感じていた。
けど、実際には、枯野たちは、自分とは違う世界に生きる人なのだと思った。
自分には到底、真似できないような、恐ろしい怪物とも対峙する。
自分のような者には手の届かない人なのだと思った。
それでも、枯野に会いたい。
一目会って、謝りたい。
たとえ許してもらえなくても。
もう二度と、あの優しい笑顔をむけてはもらえないのだとしても。
京には何度もそう言って、会わせてもらえないかと頼んでみた。
けれど、大抵の望みはすぐに叶えてくれる京も、それだけは叶えてくれなかった。
「姫さんに謝ってもらうようなことは、何もないって。
枯野のアニキはそう言うんっす。」
何度も何度も同じことを頼む琴音に、とうとう京は困ったようにそう言った。
「それより、不便なことはないか、って心配してました。
まあ、長老ん家は、この村で一番いい家っすから。
あそこで不便だったら、どこにも住めませんけどね?」
そう言って、けらけらと笑う。
琴音も、よくしてもらって、なにも不足はないと言った。
「とりあえず、ここにいる分には、危険はないそうですから。
ソウビのアニキが、それはそれはもう、厳重に結界を張ったから、安心しろ、って。
蛸をなんとかしたら、また、花野屋に帰してやるから、それまでは我慢しろだそうです。」
京はおどけてソウビの真似をした。
「なんもないところで、姫さんには、退屈でしょうけど。
おふたりは、もうしばらくの我慢だから、どうかこらえてくれ、って。
ああ、そうだ、これ。」
京は何か思い出したように懐から取り出すと、琴音に手渡した。
「枯野のアニキが、姫さんの慰みになれば、って。
おいらの新作っす。
姫さんのお目に敵うかどうかは、分かんないっすけど。」
琴音は、手に取るなり、まあ、と目を輝かせた。
それは、満開の桜を描いた、見事な螺鈿細工の櫛だった。
「しばらくこっちにいる間に、じいさまにまた新しい技を習ってて。
少しは腕も上ったと思うんっすけどね?」
櫛を眺めている琴音を見ながら、京は言った。
「これまでも、姫さんの土産にするんだって、アニキはおいらの作った物を買ってくれてて。
けど、何を渡しても、身につけてくださらないんだ、って悩んでました。
おいら、姫さんのこと、よほど気難しい方なのかと思ってましたけどね。
こうして実際にお会いしてみたら、気難しいどころか、お優しい方じゃないっすか。
聞いてもいいっすか?
どうして、つけてくださらないんです?」
琴音は少し困ったように京を見た。
「枯野様のくださった物は、全部、貴方の御作りになったものだったのですね?
本当に、どれもみな、素晴らしい細工ばかりで、感心いたしておりました。」
「お世辞はいいっすよ。
もっと単純にどこが嫌いなのか言ってください。
おいらもね、毎度毎度しょんぼりしているアニキを見ているのも気の毒で。
だったら、姫さんの気に入る物を作ってさしあげようって思ってたんっすけど。
お好みを聞き出してくださいって言っても、アニキはからきしダメで。
ああ見えて、蚤の心臓なもんで、面と向かったら姫さんとろくに話しもできないんっすよ。」
つけつけと言う京に、琴音は目を丸くしてから、少し目を伏せて、静かに、けど、きっぱりと言った。
「枯野様のくださったものを身につけられないのは、わたしがまだ、それに見合う者でないからです。
いつか、この立派な品に見合う者になれたときには、身に着けようと思います。」
京はわざとらしく目を丸くしてみせた。
「へええ。
そいつはまた、健気なこった。
けど、そんなにまでしてもらうほどの物じゃ、ないんっすけどね?
なんたって、このおいらの作った物なんっすから。」
京は肩を竦めると、少し低い声で付け足した。
「まだまだ、力の足りない、習作のような物ばかりっす。
だからダメなんだろうって、まあそうなんっすけど。」
とんでもない、と琴音は目を上げる。
それに、京は、へへっ、と笑ってみせた。
「あんなものに、枯野のアニキは、いつもたくさん、金子を払ってくれるんです。
なんかおいら、いつも申し訳なくって。
だから、アニキのためにも、もっと上手くなろう、もっといいのを作ろうって。」
京は琴音の目をじっと見つめると、ねだるように言った。
「姫さん、そんなおいらに、ちょいと協力してはもらえませんか?
たとえつけてくれなくても、姫さんの喜ぶ顔を見られたら、アニキも嬉しいと思うんです。
だからね、姫さん、なんだったら、姫さんは喜んでくれますか?
そうだな、たとえば、花とか。
何の花が姫さんはお好きですか?」
あまりに熱心に尋ねるものだから、琴音もつい、答えてしまった。
「花ではありませんけど、紅葉が好きです。」
「紅葉、っすか?」
あっちゃー、と京は額を叩いた。
「そいつはまた、季節外れだね?
紅葉は半年は先だ。
それに、紅葉の柄は、枯野のアニキも好きだから、もう何度も差し上げているでしょう?」
琴音は困ったように頷いた。
むぅ、と唸った京は、何か思いついたように、拳で掌を叩いた。
「いや、待てよ?
青い紅葉なら今の季節か。
アニキの目のような、青い紅葉も、悪くないかもしれませんね?」
「まあ、枯野様の瞳のような?」
思わず引き込まれる琴音に、京は、しめたという顔になる。
「春の朧月と青い紅葉。
うーん、色合いが枯野のアニキだね。
ついでだから、狐も二匹ほど、走らせておきます?
金色のと銀色のと。」
「まあ、素敵。」
思わず喜んだ琴音に、京は、まいどあり、と頭を下げた。
「んじゃ、今度の柄はそれにします。
楽しみにしておいてください。」
「あ、いえ・・・」
慌てて琴音は京を引き止めた。
「折角作っていただいても、わたしは、まだ・・・」
「つけていただけない?
まあ、それは、仕方ありませんね。」
京はけろっとして肩を竦めた。
「だったら、おいらは、貴女が是が非でもつけずにはいられなくなる物を作るだけっす。
お好みもちゃんと聞き出しましたしね。
しかし、要は枯野のアニキを連想するような物ならいいんっすよね?
そうだなあ、春の菜の花なんかもありかなあ。
黄色がアニキの髪色だし。葉っぱは目の緑色っすから。
いや、何はなくとも、狐つけときゃ、それでいいかな?」
まあ、と口元を抑えた琴音を、京はわざと悪ぶって、ちらりと横目で見やった。
「へいへい、ご馳走様。
ったく、立派な両想いだってのに、アニキのやつ、なにをもたもたしてんだか。
いっちょ、このおいらが指南してやりましょうかね。」
「ご指南、くださるのですか?」
「って、貴女もですか?」
思わず身を乗り出した琴音に、京は呆れたように笑った。
「いやいや。余計なことは、よしておきますよ。
ソウビのアニキも、あのふたりは、生温かい目で見守ってやれ、って言いますしね。
心配しなくても、なるようになるなんて、アニキぶって言ってましたけど。
まあ、おいらも、そこには同意してます。」
琴音を励ますように京は笑いかけた。
「枯野のアニキは、貴女のことが大事で大事で大事過ぎて、迷走しまくってるんっすよ。
そのくらい大事に思ってるんです。
だからね、信じて、もう少しだけ、待ってやってください。」
はい、と琴音は頷く。
枯野を信じる。
折角近くに来たのに、やっぱりそれしかできないのはもどかしいけれど。
遠くにいても、近くにいても、結局は、それしかできないのかもしれないけれど。
京に話して、ずいぶん、心が軽くなった気がした。
「有難うございます。京様。
話しを聞いてくださって。」
琴音が礼を言うと、京はへへっ、と笑った。
「なんのなんの。
聞き上手なら、枯野のアニキには及びませんけど。
まあ、しばらくの間は、アニキの代理に、聞かせていただきます。
あ、っと、姫さんのお話しは、ちゃあんと、アニキにも伝えておきますので。
きっとね、そのうちね、アニキ本人が、姫さんに会いにくると思いますよ。」
目の前の開けた海のように明るく笑う京に、琴音もいつの間にかすっかり励まされていた。




