102
その次の瞬間、琴音を襲ったものは、琴音が予想することすらできなかった恐怖だった。
果てしなく続く落下の感覚。
どこまでもどこまでも落ちていく。
抱き上げてくれた枯野の腕も、その体温も、息遣いも。
あんなに近くにあったはずなのに、すべて、失われていた。
ただ、どこまでも、落ちていく。
その恐怖に、琴音の意識は支配された。
落下の先には何があるのか、考えたくもないけれど。
けれど、その先に、いつまで経っても辿り着かない。
喉から悲鳴が迸る。
一度叫びだすと、叫ぶことを止められない。
何度も何度も叫びながら、ただひたすら落ち続けていく。
見開いた目には、極彩色に彩られた世界が映った。
それが、考えられない速さで、上へ上へと逃げていった。
見上げれば、ずっとずっと遠く、永遠に続くかと思うほどの、極彩色の色の渦。
見下ろしても、どこまでも続く、極彩色の渦。
始まりも終わりもない、ただ混沌のなかを、ひたすらに落下していく。
自分は永遠にここから抜け出せない。
その恐怖に、琴音は叫ぶ。
声が枯れ、血を吐いても、琴音は叫び続けた。
けふっとむせた瞬間、ほんの一瞬だけ、叫び声が途切れた。
・・・と、ね、さん・・・
わずかな静寂の間に、誰か、自分ではない者の声が聞こえた気がした。
枯野、様・・・?
どんなにかすかでも、どんなにわずかでも、それが枯野の声なら分かる。
少し低くて、穏やかで。どんなに酷い状況でも、それを聞くと安心できるような。
名を呼ぼうとしたけれど、声にならなかった。
琴音は混沌のなかに枯野の姿を探して、必死に目を凝らした。
その刹那、確かに、その姿は目に映った。
「枯野様!」
今度は声になった。
心が悲鳴を上げるようにその名を叫んだ。
目の前の色の渦のなかに、ぽっかりと、その姿が浮かんだ。
琴音を見下ろす枯野の顔には、なんの表情も伺えなかった。
作り物のお面の、ただの黒い穴のような目が、琴音をじっと見据えていた。
その枯野の背から、ぽたり、となにか黒いものが滴り落ちてくる。
赤く、黒く、少し粘り気のある液体を、琴音は、自分の白い手に受けた。
喉の奥から恐怖がせりあがる。
込み上げる血の匂いは、目の前の枯野のものか。それとも、自分のものだろうか。
真っ赤に染まった手を見て、琴音はもう一度悲鳴を上げた。
世界が赤く染まっていく。
むっとする血の匂いが、鼻腔のなかを、自分のなかを、満たしていく。
温かく、優しく、穏やかな記憶がぜんぶ、その匂いに上書きされていく。
こんな恐ろしいのは、もう、嫌・・・
見開いて、からからに乾いた眼球からは、もう涙も出なかった。
いっそ、殺してほしい。
そしてもう、終わりにしてほしい・・・
そんなことを考えたときだった。
「断。」
鋭い声がそう宣言した。
枯野様・・・じゃ、ない?
その瞬間、何もかもが断ち切られた。
琴音の叫びも。恐怖も。意識も。
何もかもが、全部。
どうせ殺されるなら、枯野様が、よかった・・・
一滴の涙が、頬を伝って、落ちた。
そして、琴音は何もわからなくなった。




