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海人たちの村へは、琴音ひとりが枯野たちと行くことになった。
流石にいくら枯野の背が広くても、四人は乗せて走れない。
けれど、使い魔たちは、舟での移動は嫌だと言い張ったからだ。
使い魔たちだけなら、後からウサギ穴を使うこともできる。
まずは、琴音を安全に連れて行くほうが先だと話しはまとまった。
三人の使い魔たちは、そのまま見世に残ることになった。
老夫婦と見世のことは任せておけと、使い魔たちは胸を叩いた。
「なになに、わしらはもう、花野屋の立派な御職よ。
安心して、後は任せておけ。」
得意げに言う椿に、山茶花もウバラも、同意するように頷いた。
枯野たちの留守の間、使い魔たちもぼんやりと過ごしていたわけではなかった。
いつの間にか、見世全体を覆いつくすほどの強力な結界ができている。
この内側には、敵意を持つ者は入ってこられない。
だてに五百年間、妖狐の郷を守ってきた霊木ではない。
枯野はつくづく感心した。
ここにいるほうが琴音も安全なのではないか。
枯野はそう考えたが、ソウビはそれには反対した。
「力づくで結界を破るやつもいるかもしれねえ。
巧妙に敵意を押し隠して、近付くやつもいるかもしれねえ。
あの猫の口ぶりじゃ、大王お抱えの術師ってのは、曲者揃いのようだからな。
結局、一番怖いのは人だ。
そうして、一番強いのもまた、人だ。」
ソウビは励ますように枯野の肩をひとつ叩いた。
「お前さんも、傍に置いておくのが、一番、安心だろう?
お前さんが琴音のことを気になって存分に働けなければ、それが一番困る。」
枯野もそれには納得した。
陸路を狐になって走るなら、出立は夜になる。
折角来たのだから、と、老爺は心づくしの食事を用意してくれた。
海人たちの用意してくれる食事も毎日美味しかったけれど、やっぱり老爺の料理は格別だ。
今度、海の魚を持ってくると、枯野は老爺に約束した。
夜を待つ間、枯野とソウビは少し休ませてもらうことになった。
ソウビは枕ひとつ持ってくると、畳にごろりと横になって、すぐに寝息を立て始めた。
枯野も真似をしようとしたけれど、横になっていても、いっこうに眠れなかった。
考えてみれば、市に京を訪ねてから、もうずっと、休む暇もなく動き回っていた。
忙しく動き回るのはもう日常になっていて、急に休めと言われても、なんだか休めない。
日の高いうちから横になっても、かえってそわそわと落ち着かなかった。
寝返りばかり打っていても、寝ているソウビの邪魔になるだけだ。
枯野は起きだして、庭を散歩することにした。
しかし、いざ、散歩といっても、よく分からない。
結局、うろうろと速足で庭を歩き回る。
強い結界のせいか、その内側には、琴音の気配が充満していた。
それはまるで、酔ってしまいそうなほどに、濃厚だった。
だからこそ、かえって、琴音自身の気配に、気づかなかったのだろう。
いきなり背中から声をかけられて、枯野は心底驚いた。
「あ。その。すいません。」
とりあえず、謝ってしまう。
そんな枯野に、琴音は、くすくすと笑った。
「なにも悪いことなど、なさっておられませんのに。
どうして謝られるのです?」
枯野は困ったように視線を泳がせた。
「え?・・・っと・・・、その、貴女のいらっしゃったのに、気づかなかったので。」
「気づかれないように、そっと足音を忍ばせて参りましたから。」
琴音は悪戯の成功した子どものように目を輝かせた。
枯野はどきりとした。
久しぶりに直接会えた琴音は、あまりにも、刺激が強過ぎるようだ。
足音を忍ばせたくらいなら、普通なら気づく。
というのは、とりあえず、黙っておいた。
あまりにも琴音が嬉しそうだったから。
「枯野様は背がお高いから、後ろから目隠ししたくとも、届きません。」
琴音は、そんなことを言って、拗ねたふりをしてみせた。
「ああ、これはどうも、すみません。」
枯野が慌ててしゃがみ込むと、琴音はまあと目を丸くした。
「誰だか分かっていては、目隠しも面白くありませんわ。」
「・・・確かに。」
大真面目に頷く枯野に、琴音はまたころころと笑いながら、枯野の隣に並ぶようにしゃがんだ。
「お久しぶりです。枯野様。」
視線の高さがいつもより近い。
その場所から、琴音は、芽吹き始めた庭の木々を仰ぎ見た。
「春ですね。」
「はい。春です。」
大真面目に答える枯野がおかしいのか、琴音はまたころころと笑った。
枯野はそんな琴音にぽつりと言った。
「貴女を危険なことに巻き込んでしまったこと、本当に申し訳なく思っています。」
琴音は、枯野をじっと見た。
目が合って、枯野は慌てて先に目を逸らせた。
「こんなこと言っては不謹慎だと叱られるかもしれませんけれど。
わたし、本当は、枯野様に連れて行っていただけることが嬉しいって、思ってしまっています。」
琴音が困ったようにそう言うのが聞こえた。
「嬉しい?」
枯野は驚いて聞き返した。
それに、はい、と琴音は頷いた。
「・・・枯野様の行方が分からなくなったと聞いたとき、胸が不安に押しつぶされそうでした。
きっとご無事でいらっしゃると信じておりましたけれど。
信じることの他にできることのないのが、もどかしくて仕方ありませんでした。
じっと待つことがわたしにできる最善なのだと、自分に言い聞かせて参りましたけれど。
それも辛いことでございました。」
けど、と琴音は枯野を見つめた。
「お傍にいれば、なにかできるかもしれないとずっと思っておりました。
お怪我をなされば、お薬を塗って差し上げたり、病のときには、看病をして差し上げたり。
もちろん、枯野様の怪我や病気を願っているわけではありません。
けれど、遠くにいて案じているより、近くで無事なお姿を見られれば、どんなに幸せかと。
お仕事のお邪魔にはならないよう、気を付けるとお約束いたしますから。
どうか、お傍におらせてくださいませ。」
訴えかける琴音に、枯野は不思議そうに首を傾げた。
「俺が人ではないということは、椿たちから聞いたのですよね?」
枯野の問いかけに、琴音は、はい、とだけ答えた。
その琴音に枯野は重ねて尋ねた。
「俺のことを恐ろしいとは思わないんですか?」
「枯野様のどこが恐ろしいのですか?
逆にお尋ねしたいですわ。」
琴音にきっぱり言われて、枯野は苦笑する。
確かに、と頷いてから、聞き方を少し変えた。
「俺のこと、そんなに心配してくれたんですか?」
その問いには、琴音は少しむっとした顔になった。
「当たり前です。
大事な方が行方不明と聞いて心配しない者などありませんでしょう?」
「大事な、方?」
思わずそう聞き返した枯野に、琴音は、あ、と口を抑えた。
けれどすぐにどこか怒ったように付け足した。
「大事な方です。枯野様は。
人だとか、人でないとか、関係ありません。」
枯野は柔らかな微笑みを浮かべて、琴音を見つめた。
「有難うございます。」
「お礼を言われることではありません。」
琴音は枯野からつんと視線を逸らせた。
その琴音に枯野は静かに語った。
「母の故郷の異国の海にいたとき、しばらくの間、陸の記憶を失いかけていたことがあります。」
琴音は、まあ、と枯野のほうを振り返った。
枯野はそのまま続けた。
「海のなかにいて、俺は、俺ではない別のものになっていました。
毎日がただ静かに平穏に過ぎて、辛いことも苦しいことも、そこにはありませんでした。
けど、海の底から湧き出す泡が上っていくのが気になって、それを毎日眺めていました。
あるとき、いてもたってもいられなくなって、その泡を追いかけて、水の上に浮かびあがりました。
そのとき、潮風が、貴女の声を運んできたんです。
俺の名前を呼ぶ、貴女の声を。
それで、俺は、すべてを思い出しました。」
珍しくたくさん話した枯野は、少し疲れたように息を吐いた。
「貴女は俺をこの俺に繋ぎとめてくれる大事な碇です。
俺は自分で思っていたより、もっとあやふやなモノでしかないんだって、思い知りました。
けど、貴女がいれば、俺は、ずっと、今の俺のままでいられる。
そして、俺も、今のこの俺のままで、ずっといたいと思っています。」
枯野は琴音をじっと見つめた。
「貴女を巻き込んでしまったこと、ずっと後悔しています。
申し訳ないと思っています。
だけど、どうか、貴女のことを、俺に護らせてほしい。
この命に替えても、貴女をお護りすると誓います。」
琴音はゆっくりと横に首を振った。
「いいえ、それは聞けません。」
え?と口を半開きにしたまま、枯野は絶望したように凍り付いた。
その枯野に琴音は言った。
「枯野様の御命と引き換えになんて、しないでください。
わたしは、わたしより、枯野様のほうが大切です。
だから、わたしのために、枯野様の御命が失われるのは認められません。」
枯野は目を何度かしぱしぱと瞬いた。
それから、言い直した。
「分かりました。
なるべく、俺も無事でいられるよう、心掛けます。
だから、どうか、俺に貴女を護らせてください。」
琴音はにっこり笑って頷いた。




