-第七話- 鎌倉を離れて
大永六年十一月 鎌倉
小弓公方方に付いた里見義豊率いる安房・上総軍が玉縄城下の柏尾川にて大敗北を喫し、鎌倉から全軍を引き上げて十日ほど。月も替わろうかという頃合いに、伊勢家当主の実弟である伊勢長綱が鎌倉を事後処理の為と称して訪れていた。
「浄明殿。……いや、三浦殿。此度はご苦労であったな」
「……」
突として、ついぞ呼ばれることのなかった家名で語りかけられ、僧は言葉を失った。
(……お家再興がこの一戦の働きごときで叶う筈もなし。一体全体、どんな無理難題を吹っ掛けられるんだ?)
僧は警戒から返事をせず、ただただ軽く頭を下げるのみで様子を伺った。
「はっはっは!そのように身構えることは無かろうて!……拙僧が持ち寄ったのはそれほどに悪い話ではないのでな?」
「……はぁ」
「悪い話ではない」、そのような枕詞で始まる話に都合の良いもの存在しないということを僧は知っていた。
くぴっ。
長綱は出された湯を一口、未だ警戒を解かない僧に対し、滔々と語りだした。
「そう、悪い話ではないのですよ、三浦殿。……ああ、確かに伊勢家の証文やらも渡さずに三浦家の家名復興をちらつかせても気分が宜しくは無いでしょう、それは理解致します。ですがな……これは内々の事として拙僧の実兄、伊勢家当主の氏綱も認めた事なのです。無論、それなりのことが為された後ということにはなりましょうがね」
(そら、無理難題が始まったぞ)
然もありなんとばかりに、心の奥底で深く頷く僧。
「左様、此度の戦にて、我らは玉縄城城下に押し寄せた扇谷上杉の軍勢を退け、更には里見の軍勢を打ち破り申した。相模から武蔵、下総に引いて行く扇谷上杉の軍勢は、大庭城にて伏せていた兄上の軍勢の追撃を受けて大きくその勢いを減らしました」
(噂では聞いている。……多摩川近くまで、何日も執拗に追いかけて背を打ち続けたと聞いているな)
目を軽く伏せるだけで返答を行う僧。
「……本来、ここまで大きく背を打つ形で戦が行われれば、その軍は瓦解するが常識。何故ならば、退却路に位置する武士、農民、流民までもが勝ち戦に便乗するのが通例なものですからな。追われることに疲弊した兵達は武器を投げ捨て、具足も脱いで足早に故郷を目指す。そして、それらの支給品の具足やら所持品を狙う落ち武者狩りが湧くこと雲霞の如く……」
「で、此度は湧かなかったと?」
「左様……」
僧の相槌に満足そうに頷く長綱。
「おかげで、我らは安房・上総に対しての警戒は緩めることが出来ましたが、武蔵・下総に対しての警戒を緩めることが出来ませぬ。……裏切り者を排除せぬ限りはな」
「……」
(裏切り者と来たか……。俺個人としては、伊勢家に大勝されたままというのは癪に障るので、大勢決した後は邪魔の一つでもしてやりたい心持ではあったが、いかんせんそこまでの影響力を武蔵方面に持ってはいないからな。今の立場では鎌倉周辺での嫌がらせが関の山だし、表に出せていない家名を使ったとても相模の東での邪魔がせいぜいだ)
「果たして……玉縄城、境川より北方面でそのように影響力を示せるお方が居りましたかな?」
僧はなるべく厄介ごとに近寄らないで済むよう、用心しながら話の間を繋ぐ。
「ええ、面倒なことにお一人……。先年に我らに降ったお方、蒔田殿が居られます」
「……奥州管領殿、吉良頼貞殿ですか……」
室町の頃、足利将軍家には直系・傍系以外に征夷大将軍継承権を有する「御一家」と呼ばれる三家が存在する。
世に言う、筆頭の吉良家、渋川家、石橋家の三家である。
このうち吉良家は筆頭としての「格」が周知されて久しいが、渋川家と石橋家の優劣は曖昧である。すなわち、御一家に将軍継承権があると言っても、実際には吉良家にのみ認められたものであるとも言えるものなのだ。
無論、渋川、石橋両家も御一家であることに違いはないので、よほどに有力な後ろ盾が居れば将軍位を得るわずかな可能性は残るのであろうが、そこまでに格が落ちた家名を使うならばその実力者は足利の家名を利用する方が早かろうことだ。
さて、件の吉良頼貞に話は戻る。
この人物は奥州管領を拝した吉良家の直流ではあるのだが、現状、奥州での争いに敗れ、関東に下ってきた家の当主でしかない。
吉良家本領の三河とは縁遠く、奥州吉良家本領の多賀城は遠く史書の中。
貞治年間に鎌倉公方の招きを受け入れ、「鎌倉公方御一家筆頭」の家格を得てはいるが、肝心要の鎌倉公方それ自体の権威が地に落ちて久しい今、東国での奥州吉良家の取り扱いは推して知るべし……といった風情であった。
それだけに、此度の家格だけはむやみやたらと高い男の動き、西からの東国侵略者である伊勢家にとっては非常に扱いが難しい男が起こした厄介な行動なのであった。
「……そこでだ、三浦殿。其方には庇護しておる甥が居ったな?」
「……はっ」
隠し通せるとは到底思っていなかったが、伊勢家の関東調略に、自分の甥がこの段階で使われるとは思ってもみなかった僧である。
心ならずも返事の声色は固くなる。
「はっはっは!ようやく三浦殿も内情を声に出しましたな。結構、結構!」
「……お戯れを」
絞り出すような声しか出せぬ僧である。
「三浦殿が保護している甥御。……翔千代丸殿は小弓公方が正妻、三浦の幸子殿が息。……多少計算は合いませぬが、その存在に間違いはありませぬからな」
「……」
(ちっ。この生臭坊主め!)
僧は頭を下げたままで長綱を心の中で罵った。
「小弓公方には、これからも古河公方とは争ってもらわねばなりませぬからな。翔千代丸殿に足利を名乗らせてしまっては小弓公方の勢力が分散してしまい具合が宜しくない。かといって三浦を継がせるのは、我が伊勢家としては少々風向きが良くない……ついては……」
「……吉良を継がせたいと仰るか……」
悔しさのあまり、声に出すのも忌々しい。
だが、僧には選択肢があまりにも無かった。
「頼貞殿は少々……な。数名のお子は居られる様だが、彼らには早々に退場頂き、翔千代丸殿に吉良家を継いで頂きたい。吉良家の所領は良い田が多い土地でしてなぁ。それらの村々の主に我らが指図するためにも、当主はこちらで用意した者で抑えておきたいと願っているのですよ」
(吉良家の所領である世田谷も蒔田も結構な収量が見込める良い土地だ。伊勢家としては周囲との戦に備え、兵糧を確保できる土地には自ら指図をしたいのであろう。その第一弾として吉良家の所領に手を出す。……関東の諸将の中では格段に家格が高い吉良家の所領を思いのままに処断することを内外に見せつけることが叶えば、後の施策もやり易くなるであろうな。……また、理由が理由であるために、翔千代丸が無駄に伊勢家によって害される可能性は少なかろう。……ここは受けざるを得んか)
「伊勢家の思し召しとあらば、翔千代丸も喜んで話を受けましょう。ですが、拙僧としましては可愛い甥御をみすみす敵地に一人追いやることには納得出来ませぬぞ?」
話を拒否することは出来ない。
拒否することは出来ないが、翔千代丸の身を守るためにも何かしらの言質を長綱から取っておく必要を感じた僧である。
「無論、無論。……左様、蒔田から遠くない磯子の地に平子家が旧来使っていた屋敷跡と寺がありましてな。平子の者達は遠縁を頼って越後に渡ったと聞くが、その家に仕えていた者達の内、磯子周辺に残っていた者達が此度に吉良殿を唆したと報告を受けたのですよ。兄上もその話を聞き、これはいかんと、その者達を罰したのですが……。……こうなると、必然、磯子周辺が空いてしまいましてなぁ。ここの管理を如何様にすべきかと思案したところ、此度の里見による鎌倉侵攻により三浦家に所縁が深い来迎寺が焼失したという話を聞きましてな……?!」
長綱は満面の笑みを浮かべて時間を置く。
ふぅっ。
一方、話の先が読め、ならば良しとばかりに息を吐き、大きく頷く僧。
「これより、伊勢家が責任もって鎌倉の復興は担いますが、それまでに由縁深い寺々を失った三浦家をそのままにしておくのは我らにとっても辛いところ。……戦国の習いによって戦となった相手ではありますが、同じ武家として菩提を弔うこともままならぬで捨て置くというのは、なんとも、なんとも……」
「……ええ、拙僧も三浦の血を引く者としてその点は気に掛かっておりました。伊勢家のご好意によって菩提を弔う場を用意してくださるのならば、これに勝る喜びはありませぬ」
「おお!そう言って頂けるか?!それはありがたい!」
(吉良家家臣団を伊勢家が取り込むまでの邪魔石として磯子に俺を置くか。……良かろう。磯子ならば海を陸沿いに渡れば三浦の本拠だ。監視の目は強かろうが遣り様は幾らでもある。それに直流とは言えぬ長綱殿が深く関わる流れに身を置くことが出来れば、後の伊勢家への仕込みも色々と行えよう……)
僧は腹を括った。
「では、還俗の支度を進めることとしましょう」
「頼みましたよ。……三浦家の再興は翔千代丸殿が吉良家を継いで後ということでお約束しましょう。とりあえず、今後は磯子と名乗って下さい」
「はっ!……では仏門に入る際に置いてきた名をこれよりは再び使い、磯子義村と名乗らせていただきます!」
「義村……義村ですか。……まぁ良いでしょう。……では、義村よ。貴方には早々に磯子に入ってもらい、吉良翔千代丸殿を城主として当地のまとめに働いてもらいます。まずは対武蔵・下総の先陣を受け持つ拙僧の配下として、蒔田衆を手駒にするよう努めてください」
「ははっ!」
繋がらぬ史書の中、大永六年十一月、磯子義村なる武将が後の北条幻庵の幕下として初めて歴史の表舞台に登場することとなる。
磯子義村、この男こそが後の鎌倉の梟雄、東国十国にその名をと轟かす武将の右腕と称される黒の宰相その人であった。
これにてプロローグ終わりとなり、次話からは主人公登場の、一気に八年、九年後の世界へと飛びます。
磯子城主となった翔千代丸の生涯、その一遍から物語を再開させていただきます。
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