すすきの森
私にはお父さんが連れて行ってくれる場所の中でも
一番のお気に入り と呼べる場所がありました
そこは、秋になると辺り一面がすすきの穂で一杯になり
私にはそれがすすきの森のように見え
森の中に分け入って遊ぶのが大好きだったのです
すすきが風に揺れる様も
夕陽の光を受け、白い穂が赤く染まる様も
大好きな理由の一つだったかもしれません
その日もいつものようにすすきの森に入り
一人で「探検ごっこ」をして楽しんでいました
すると、ふと目の前を小さな黒猫が横切っていったのです
ここは人家から遠く、
猫が歩いているところを見るのは珍しいことでした
もし猫を見かけたとしても、
それは誰かに飼われている猫であり、
野良猫を見たことはありませんでした
その猫は、逃げるでもなく、気ままに歩き去りました
「何処に行くのだろう。迷子かな?」
そう思って、好奇心半分、心配半分で、
気付けば猫を追いかけていました
猫はとてとてとすすきの森を歩いていきます
その速度は決して早くないのですが
ここはすすきの森の中
油断するとすぐに見失ってしまいます
驚かせないように慎重に、
けれど見失わないように足早に、
スパイ気分で猫の後ろをついていきます
そうしてどれ位歩いたのか、
気付くとすすきの森が途切れていました
はっと辺りを見渡すと、そこは本当の森の中
日の光が差さない為か
見知らぬ場所に出てしまった為か
なんだか突然心細くなりました
見上げれば、木々が風に揺れ
その隙間からわずかに光が差し込んできます
普段ならばその光の輝く様に目を輝かしているのですが
その時は心細さで、綺麗な日の輝きも薄気味悪いものに見えました
そうして立ち尽くしている内に、
いつの間にか猫の姿を見失っている事に気付きました
ひとりぼっち…
そう思ったら、
なんとなく心細かったのが、
本当に心細くなってしまいました
いつもは気持ちのよい風も、なんだか冷たく感じます
どうしたら良いのか分からなくてただ立ち尽くしていると
まぶたの辺りが熱くなってきました
瞳から零れ落ちそうになる涙をぐっと拭います
泣いたって誰かが来てくれるわけではありませんし
泣いてしまうと本当に動けなくなってしまいそうな、
そんな気がしたのです
もう一度辺りを見回しますが
見慣れたすすきの森は何処にも見えなくなっていました
猫を追いかける事に夢中になっている内に、
ずいぶん遠くまで歩いてきてしまっていたようです
猫ばかりを見ていたせいで、どちらから来たのかも分かりません
…足跡はないかな?
なんとなくTVで見た知識を頼りに手がかりを探そうとしますが、
地面は乾いていましたし、
薄暗いこともあって
自分の足跡も、追いかけていた猫の足跡も
見つけることは出来ませんでした
…どうしよう
いよいよ何の手がかりもなくなってしまいました
…お母さん、心配しているかな?
笑っているお母さんの顔が浮かび、ますます悲しくなります
このままここで一人ぼっちなのかな
そう思っていると、何かが足にぶつかりました
「…あっ!?」
不思議に思って足元を見ると、
先ほどまで追いかけていたあの黒猫が、
私を見上げ、ちょこんと座っていました
黒猫は、私を心配するかのように
じっとこちらを見つめていました
帰り道は分からない、それは変わらないけれど
そばに猫がいてくれる
それだけでもさっきまでの寂しさはどこかに消えてなくなっていました
嬉しさのあまり、その場にしゃがみこむと
私を見ていた黒猫の体をぎゅっと抱きかかえます
不思議と、黒猫はされるがまま、大人しくしていました
寂しい気持ちを分かってくれたのでしょうか
猫は私が離すまで、じっと私に身を預けていました
猫から伝わる温もりは、私の心も温めてくれたようでした
少し元気を取り戻せた私は、
抱きしめていた腕を解いて
黒猫をゆっくりと地面に下ろします
膝についた砂を軽く払うと
猫の方を見て
「何処から来たの?」
そう問い掛けました
答えが返ってくるはずはないのですが、
なんとなく、このたびの仲間と話がしたくなったのです
猫は私の問いかけを聞いた後、
答える代わりに、とてとて、と歩き始めました
そうして数歩進むと
こちらを振り返り、小さな声で
「にゃ~」
と鳴きました
「ついてきて…って事?」
今度も何も答えてくれませんでした
代わりに、またとてとてと歩き出します
すすきの森では猫について歩いていたのが、
いつの間にか、猫に連れられて歩いていました
猫は何処に向かっているのか、
私には当然分かるはずもなかったのですが、
不思議と、寂しさも、不安も感じませんでした
だって…、頼もしい道連れが一緒にいてくれるから
どれくらい森の中を歩いていたのか
森から差し込む日差しが少し赤みを帯び始めた頃
辺りの景色がいきなり開けました
目の前には見慣れた草原と
そして、夕陽で赤く染まったすすきの森が広がっていました
すすきの森の前では
お母さんがシートの上で座って本を読んでいました
お母さんの姿を見つけた瞬間、
私はお母さんに向かって駆け出していました
そうしてお母さんの腕にしがみつくと
その途端、今まで抑えていた寂しさが一度にあふれ出ていました
お母さんは私が思いもかけない場所から出てきた事と
突然飛びつかれた事に少し驚いていた様子でしたが
やがて、そっと私を抱きしめてくれると
優しく背中をなでてくれました
…もう、風は冷たくありませんでした
その後、私はお母さんに事情を話し
ずっと私のそばにいてくれたあの黒髪の猫の姿を探しましたが
猫の姿は何処にも見当たらなくなっていました
それから何度かすすきの森に足を運びましたが、
あの猫に出会うことはありませんでした
飼い主の元に帰ったのか
それとも「特別」だったのか
今となっては知る由もありませんが
その日の事は、こうして確かに私の心に残っています