裏 焼夷弾と星の降る夜
う〜ん?
「タロ」
空を、見ている。南国とはいえ、冬の夜は底冷えして刺すようである。相変わらず、空は暗くて、青い。星々は綺麗だ。
「タロ」
ジロの声が聴こえた。双眼鏡から目を離して、こちらを振り向く。木々たちを背に、砂浜の上に座っている。灯火に照らされたその顔は、笑っていなかった。
「民国の航空機——全部撃墜されたっぽいぞ」
ジロが笑っていない。笑っておらずに、落ち着かぬ目で、こちらを見る。ジロから、鈍い音のほうへと目を移す。ああ、確かに——木々の向こう側には、綺麗な光を放って、点がくるくる回って落ちていく。
その明かりに照らされて、ぼんやりと、飛行機が十数機、暗闇の中に浮かんでいた。小さく低い音を伴って。腹の底に横たわる。腹を揺らす音。
反対側、砂浜側を見た。対岸の街。明るい。午前三時だというのに、国際貿易港はいつ見てもまばゆく、温かい光を見せてくれる。
そして、空襲警報が響いている。叫び声すら混ざって、対岸から甲高く姦しく来て、耳を貫く。頭が割れそうに高い。そして空に渡って、暗闇の中に広がっていく。空襲という事実が、決して訪れるとされていなかったその時が、音になって舞い降りる。
また木々の側を見る。飛行機の群れは、矢張り、だんだんと大きくなっていく。疑う余地もなく、かの国は敵になった。
「これは、良くないな」
タロは呟く。暗闇を仰ぐ。星々が見える。この群島は星が綺麗だ。冬ともあって、オリオン、おおいぬ、こいぬ、そしてふたご。星座たちが透き通って見えている。この星々に、軍令を重ねる。
このとき、どうすべきか。軍に言われていた。群島を所有し続ける代わりに、有事の際には為すべきこと。つい一週間前にも、総督から厳命された。対岸を守るために。
「タロ」
また、ジロの声が聴こえる。ジロがまっすぐこちらを見つめる。海風が——これは海風なのだろうか——対岸に向かって吹いている。灯火が海風に揺らされる。対岸の方へ、傾いていく。
ジロは変わらず、硬直したまま動かない。無理もない。我々の行き着く先に、何があるか。それを考えれば、誰でも動けない。それでも、タロは俄に気づいてしまった。
いつも動き回って、いつも悪戯をしかけ、いつも笑って、いつも母さんを困らせていたジロ。父さんが生きていた頃は、しょっちゅう殴られていたジロ。十五歳に思えないほど、威厳と風格に欠ける幼子、双子の弟が、微塵たりとも動かない。日常に見せないジロの姿。それがこんなにおかしく思えるか、と。
「——こんなときに、何だよ」
タロの笑ったのを見て、感情がジロの顔に戻っているのを感じる。いや、まだ足りない。これでは「不思議」に過ぎない。
「いいや、お前が黙りこくっているなんて、おかしくて」
タロは言う。途端にジロの顔は渦巻く。きっと困っているのだ。何を言えばよいのか。この状況で、どう思えば良いのか。わからずに。
しかし、流石にジロであった。数秒後には、また笑っていた。
「——覚悟だよ、覚悟。敵国機に我らお手製の薬玉をぶつけるんだ。ごめんなさい、の覚悟だ。きっとよく弾けて痛いぜ。煙幕も張るんだしな」
流石に花火師の子である。よく弾けて話す。すっかりいつも通りのジロであった。その姿を見ていて、タロは何だか恥ずかしくなっていく。
「——ごめんな、何だか」
「いいって。さあ、さっさと準備しようぜ」
ジロはもう、スイッチの元へと急いでいた。
—————
敵国機は、軍の想定通り爆撃機であった。それも、視界に依って投下する部類。
であれば、軍令通り。爆撃機が一定の距離まで近づいたとき、煙幕を張って視界を塞ぎつつ、火薬を打ち上げて攻撃目標を誤認させる。群島に爆撃を引き寄せる。
「第三小島から第百三十六小島まで、煙幕の準備」
「完了」
「第百四十一小島から第三百六小島まで、火薬の準備」
「オーライ」
第一小島の砂浜に、びっしりと張り巡らされているスイッチ。それぞれのスイッチが、それぞれの小島に設置されている煙幕、火薬の着火と発射を司る。
もう毎度毎度、何年もやっていることだ。それぞれの点検はこの一ヶ月で既に完了しているし、本来ならば年越しに使用するべきものだ。
が、今回は趣向を異にする。対岸を守るための、発射である。花火師の矜持にかけて、なおさら失敗は許されない。
「早く来いよ、敵国の野郎ども」
ジロはこう言って、もう元気に挑発している。エンジン音は、地すら揺らすほどに大きくなっていた。ごうごうと、空と海とを揺らす。身体すらも揺らして、足元が揺れる。矜持だけで立ち続ける。敵の息吹と、対岸の空襲警報をかき消さんとばかりに、ジロは叫び続ける。漣などもう聴こえない。
星々を見る。ああ、星がいる。星々だけだ、ただ伸びやかなのは。キラキラと音がする。ガラスの音だ。ガラスの反響音のように、冬の星は音を放つ。ガラスの中に閉じ込められたように、星座たちは暗闇の中に縮こまって、眠っている。
ふと、タロは思う。どうしてだろう。このような喧騒の中に在っても、平静は際立つ。恐らく死が待ち受けているというのに、星々を見つめるほど、静けさに溢れている。
敵国機は見間違うことなく近づいている。エンジン音はごうごうと身体を掻きむしる。空襲警報は鳴り響いている。戦争だ。戦争の最中にある。
しかし、心は凪いでいる。ジロの不自然を笑い、天を仰ぎ、星々の美しさに想いを馳せるくらいには、静かなのだ。
なぜだろう。喧騒の中に、答えは無かった。
———————
やがて、時が来る。時が来た。タロは双眼鏡を見つめる。幸いなるかな、風は対岸に弱く、しかし確かに吹く。総督から厳命されたことを振り返る。
——機体がこの双眼鏡を覆い尽くさんとするとき。
ちょうど、その位置に来た。来てしまった。
「煙幕、発射」
「あいよ」
いつもの年越しのように、ジロが威勢よく声を上げて、スイッチを押して回る。タロと手分けして、一つ一つ押していく。タロは第三小島から第六十九小島まで。ジロは第七十小島から第百三十六小島まで。
普段であれば、時間をかけて発射していくのだが、今日はそうもいかない。一気に煙幕を張らなければ、対岸を隠すことも、攻撃目標を曖昧にすることもできない。
小さな島内を忙しく掛けて回る。装置を作動させるたび、近くの島々から勢いよく煙幕が舞う。風にのって、空高く、そして対岸にゆっくりと押し寄せる。火薬の臭いがあたりに満ちる。ひっそり煌めく星々を覆い隠す。やがて世界は対岸と切り分けられ、白くなる。
ボン。最後の煙幕が高く跳ぶ。周囲は白い。真っ白だ。何も見えない。ただ、喧騒だけが空間を支配する。エンジン音にこの盾が割かれないか不安になる。不安になるだけ。音が色を塗りかえることなど有り得ない。成功だ。僅かな喜びが口から漏れる。
いや、余韻に浸ることなど出来ない。次だ。火薬を打ち上げなければ。素通りされてしまっては、何の意味もない。
「対岸を隠すまでどのくらい要る」
「ざっと五分って感じだな。初発はもう届いていると思う」
「オーライ。あと一分。一分で打ち上げよう」
「いいねえ」
真っ白な空間でも伝わってくる。悠長にジロはへらへらと笑っている。どこまでも、どんなときでも、花火師の子供だった。確かに、これも打ち上げである。年越しの祭りと大差ない。花火でないものが、混ぜてあるだけだ。
「火薬、発射」
タロの合図とともに、また装置を手分けして起動させる。普段であれば三十分。今回は三分で、集中的に打ち上げる。勢いよく花火の上がる音がする。ひゅー。天に向かって高く伸びる。そして、どん。花開く。煙幕に隠れていても、その色は凛と美しさを伝える。
どかん。十発に一発程度、振動を伴って破裂するものがある。簡易的な爆弾。軍から支給されたものだ。それは高く上がって、空中で閃光とともに炸裂し、衝撃波を四方に伝える。斜めに射出しているので、一部煙幕が晴れようとも、敵国機からは海が見えるのみ。どこから打ち上げているのか、いやどこから攻撃しているのか、それはわからない。
こうでもしないと、民間人の拙い抵抗として素通りされてしまう。
「たまや」
数々の色と鳴動に包まれて、ジロははしゃぐ。煙は花火に映されて、ぼんやりと、あらゆる色をまとっていた。ただ地に見える砂浜の他には、色、色、色。色に囲まれて、二人はただ佇んでいる。年越しの祭りなんかよりも、よっぽど色に満ちていた。
花火が止んだ。エンジン音はもはや天を切り裂いている。警報の音も、ジロの声も、何も聴こえない。きっと、かなり近づいている。タロは思う。敵は策に囚われてくれたのだろうか。群島を行き過ぎてはいないだろうか。軍令の遂行を、花火師として懸念する。
—————
そのとき。忘れていた冬の寒さが、つと押し寄せた。
音がした。音に音を重ねて、混濁は極まっていたが、その混沌に一線、新しいものが加わった。音と音でもみくちゃになった世界に、一つ浮き出るような音だった。
その音は、何かを笑うような音だった。ケラケラと、不純なく楽しげに笑うような音。それでいて、悲鳴に似ていた。苦しみに嘆き悶える声に似ていた。誰かは笑い、誰かは悶える。そんな音が、空から少しずつ、囁きかけてくる。きゅー。
その音は小さかった。僅かに笑っていた。ほんの一瞬だけ。いつの間にか重なっていって、多くに笑われていた。もう耳が割れそうな五月蝿さだったのに、その音だけは、頭の中に直接届いた。
すぐに気づいた。これは焼夷弾だ。焼夷弾を大量に放っているのだった。
「成功だ……」
タロは呟いた。呟く間もなく、煙は突如として橙色に染め上げられた。燃えている。矢張り燃えた。焼夷弾は空中でも燃えた。焼夷弾は火の雨と呼ばれている。そういう記事を目にしたことがある。それは本当だった。我々の場合は火の雲であった。たったそれだけだ。
煙はどんどん色を増す。煙に突き刺さる音も、どんどん増していく。昼のようであった。あまりに煌々としているので、目を閉じた。なおも焼夷弾の躍動は脳裏に強く焼き付く。そのまま焦げ付いて覆う。
俄に、恐怖が訪れた。勝手に眼が開く。身が震える。足が崩れ落ちる。赫赫と明るいのに、何も見えない。見えているのに、見えない。目の前の視覚情報を認識できない。それだけがわかる。うつ伏せになって、頭を抱えこむ。
隣を見る。ジロが、見えない。煙はあまりに濃く、仲睦まじい双子の影すら隠していた。どこに居るんだ。どこに隠れているんだ。声を上げようとも、喉の奥で弁が閉まっているかのようにかすれてしまう。
ぼちゃ。一つが橙色の尾を張って、海の中に落ちるのを感じた。彗星のように、海の中へと消えていく。星が落ちてきたかのようだった。しかし、その星は悲鳴を上げて。
もう何も考えられない。ただ身体の震えを、喉の震えを、手の震えを、涙を、止めることすら出来ない。息が激しい。動悸も苦しい。迫りくる終わりに、ただ身を小さく、頭を抱える。結末はわかっていた。予想できていた。なのに、なんで。嘲笑に苛まれて、ひとり、震える。
笑い声は地上に落下してきて、今度は怨嗟へと変わる。炎があたり一面に飛び散っていく。煙は薄くなっていた。それなのに、もう周りは紅に変貌している。炎が鈍く、呪いの言葉を唱え続ける。逃げ場などどこにもない。木々もまた、呪われてしまった。
逃げ場は無いのか。滲んだ視界で左右を見渡す。何もない。ただ激しい炎が巻き起こる。海の表面すら、どこか燃えているように感じる。熱さと煙さが身体にまとわりつく。手で追い払おうと、腕を振る。離れない。どこまでもこいつらは追いついてくる。
———————
「助けて」
ジロの声がする。助けないと。声のほうに向かおうとする。顔を向けて、立ち上がろうとする。
動かない。足元を見た。燃えている。痛みも熱さもない。ただ、燃えている。メラメラと、自身の足であった部分が、ただ赤い。ベテルギウスのように、鋭く光っている。悠然と、タロの足は光っていて、その光が目に入り込む。優しい光であった。穏やかで情熱的で潤いのある光であった。
それを見てタロは、震えを止めた。息も動悸も、穏やかにした。恐怖も焦燥も、何もかも忘れてしまった。何をしようとしていたのか、それすらも忘れ、燃ゆる様を、ただ眺めていた。ゆったりと。
靴に燃え移ったのか、それとも他か。海に飛び込もうか。海を見る。海も綺麗に、紅く輝いている。紅海なんて見たことないけれど、こんななのかもしれない。
なんだかゆっくりと眠気が差し込む。思えば、今日は徹夜だったな。砂浜に仰向けになろうとする。なぜだか、手の力が緩い。力いっぱい押しやって、空を眺める。天頂から少し低いところには、大きな航空機が連なって、対岸の反対側へ離れようとする様が見える。
「はは、ざまあみろ」
タロは不思議と勝ち気になって、天頂に目を移す。春の星座が登っている。星の光は数時間前に見たものと、何も変わっていなかった。
だんだんと、下から赤い光が強まってくる。そして瞼が極めて重くなる。まだ。目を開けようとする。瞼の微動を感じる。しかしだんだん、抗い難くなって、落ちていく。音も温度も触感も遠のいていく。脳に痺れが走って、雷鳴がして、何かが浮かび上がる。
——ああ。
大学校に通ってみたかった。
学問に励んでみたかった。
もっと、色々知りたかった。
でも、仕方ないな。
母さん。悲しむかな。一言、謝りたかった。
それから、ジロは無事だろうか。無事だといいな。
それから、父さん。父さんと、会えるかな。
それから。
う〜ん??