表 タロ・ジロ慰霊公園
太
<看板① 群島と対岸、そして第一小島>
ここから見渡すことの出来る群島は、数百の島々によって構成されています。一キロメートルに渡り、対岸を覆うようにして点在していることから、別名「ころも群島」とも呼ばれています。
古くから今に至るまで、そのすべてが無人島でした。それぞれの島があまりに小さいこと、また対岸の平地が古くから港町として栄えていたこと、の二つが理由であるとされています。対岸からも四キロメートルほどしか離れていないため、流刑地としても不向きであるとされ、長らく放置されてきました。
今皆さんが立っている島は、この群島の中でも最も大きいものであるため、「第一小島」と呼ばれています。大きいとはいえ、一ヘクタール(テニスコート四十個分)ほどの広さであり、また僅かな砂浜の他には木々が生い茂っているため、人が定住するのには適さない環境です。
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<看板② 対岸の歴史>
群島と対岸は、今でこそ我が国の領土です。しかし、二百年前から先の戦争まで、民国の統治下にありました。ここでは、対岸の歴史について説明します。
対岸はもともと天然の良港であり、早い段階から我が国の一部として認識されています。特に、隣国との貿易において大いに活躍し、詩や書物に頻出するほど栄えていました。
その後、各国の国際進出が活発になるにつれ、貿易港の割譲や占領が世界で相次ぎました。対岸も例外ではなく、我が国と民国との争いの果て、二百年前、対岸は群島とともに民国へと割譲されました。
民国占領下では、国際貿易港として我が国・民国のみならず、他国の民族も多々流入し、多様な文化を形成しました。その姿は今でも保存され、天気の良い日にはこの第一小島から眺めることが出来ます。
さて、時は先の戦争時にまで移ります。先の戦争において、我が国と民国は同盟を結び、八十年前には勝利を収めました。その友好関係の中で、対岸は群島とともに民国から返還され、また我が国へと主権は戻りました。
それ以来、国際交流のモデル都市として、今でも多くの民族が共存し、古くから続く融和的な気質を保っています。
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<看板③ タロとジロ>
先の戦争時、この群島は対岸の花火師一家が所有していました。
対岸では煙幕と花火で年越しを祝うという文化があり、その打ち上げを一家が一手に担っていました。そして、群島は無人でもあったため、打ち上げ場所として活用されてきました。
その花火師に、タロとジロという双子の兄弟がいました。タロとジロは極めて優秀で、また手先も抜群に器用でした。十五歳の頃(八十四年前・戦争開始時点)には既に名高く、いずれは博士か、あるいは民国軍士官か、いや首都の花火師か、など、対岸の人々から将来を渇望されていました。
二人の父は既に亡く、母も病弱であったため、群島の管理、そして花火の打ち上げは二人が担っていました。仲も良く、暇さえあれば、二人して群島の島々を泳ぎ回り、火薬庫や打ち上げ台の状況を確認し、異常がないかを確認していたそうです。
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<看板④・⑤・⑥ 敵国の空襲、そしてタロとジロ>
先の戦争において、民国は当初中立国として、敵国とも我が国とも組むことなく静観する姿勢を採っていました。また、敵国の民族も多数住んでいたため、対岸が攻撃される心配は極めて薄いと考えられていました。
そのため、八十四年前の戦争開戦後、暫くの間は近隣の土地と違い平和な様子で、年越しの祭りなども通常通り実施されていました。そして八十三年前の十二月廿五日夜、タロとジロは年越しに備えて、群島に渡りました。
その翌日、廿六日未明、対岸に空襲警報が鳴り響きました。敵国機が突如として十数機、中立条約を無視し対岸方向に向けて襲来したのです。
予想されていない出来事で、対岸は大混乱に陥りました。多くが眠っている時間帯でもあり、また廿六日は年末休暇の二日目でもあったので、陣頭指揮を執るべき公務員の控えが通常より少なく、防空壕への避難指示が遅れました。敵国機は警告を無視してなおも接近し、このままでは破滅的な結末が予想されました。
そのとき、群島にいたタロとジロは、俄に煙幕を発射させて空を広く覆い、少し置いて、大量の花火を打ち上げました。対岸から群島方向を見ていた人は、このように証言しています。
「
飛行機がたくさん集まってきているのが見えて、敵国のものだと噂されていました。防空壕も遠く、これから爆撃される、もう終わりだ、そう思ったとき、俄にけたたましい音が鳴り渡りました。
もうどこか爆撃されたのか、でもあんな遠いのに、そう思って音のほうを見ていたら、群島から煙が激しく天に昇っていて。あっという間に空を覆い尽くして、こちらからは群島の姿も何も見えなくなってしまいました。
続けて、ぼんやりと、何か群島から光が出たかと思ったら、空に昇りました。次々、色とりどりの光がぼんやりと煙に滲んで見えました。
私はすぐに気づきました。タロちゃんとジロちゃんでないかって。
煙幕は、覚えていないのですけど、花火は三分くらいで尽きました。普段は三十分くらい使うものですから、たぶん相当急いで打っていたんだと思います。それで、花火が尽きたら、今度は橙の閃光が、雨みたいに、上から、その……。
」
敵国機は群島におぞましいほどの爆弾を降らせ、帰っていきました。
煙幕が晴れた頃、普段は緑で覆われている群島が、真っ黒になっていました。それを見た住民は、空襲の危険も厭わず、すぐさま群島に大挙してタロとジロを探しました。しかし、もはや見つかることもありませんでした。
それを期に民国は態度を一変させ、我が国との同盟関係を速やかに構築し、戦争を共に戦うことになりました。それが八十年前の勝利へと繋がることになります。
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<看板⑦ タロ・ジロ慰霊公園と花火>
タロとジロは何を思っていたのか。確実なことはわかりません。
二人の遺品から、少しばかり軍事に関する知識があったと推察されています。一方で、群島に渡ったのがあくまで祭りの準備のためであることは、あらゆる関係者の口から明らかにされています。
このことから、敵国機を目にした二人が、咄嗟の判断で、煙幕によって敵国機の視界を塞ぎつつ、花火によって注意を向けさせ、爆撃を引き受けたのだろうと考えられます。事実、敵国機は群島からの花火を対岸からの砲撃だと勘違いしていた、と戦後になって判明しています。対岸を守るため、二人は自らを犠牲にしたのです。
死して対岸を守ったタロとジロは、骨こそ見つからなかったものの、住民たち、そして両国から手厚く弔われました。
タロとジロの墓標ははじめ、対岸の教会に設置されましたが、群島と対岸の返還時、彼らの偉業を讃えて第一小島に遷され、慰霊公園として一部整備されるに至りました。その際、大量の煙幕と花火を打ち上げて祀ったことから、慰霊碑の前では線香花火を灯す習わしが生まれました。
線香花火を通して、多くの人々を救った二人の御霊に、感謝と平和への誓いを捧げましょう。
ほならね