5話 weebに恋した女
次の日、朝早くから二人は昨日の夜に入った喫茶店の前にいた。先に栞里が、次にケヴィンが到着した。別にケヴィンが遅刻したわけではなく、栞里は一時間前から古本屋で買った本を喫茶店のテラス席に座って読んだだけである。
ケヴィンは30分前に到着したが、彼女が先に来ていたことに少し驚いた。
それでどこに行くか、どこか行きたいところはあるかケヴィンが聞いた。栞里はアメリカ人が使う慣用句なのかと勝手に解釈した。ケヴィンはデートだと思ってて、栞里はお礼のためにプレゼントを選ぶ場所を探すことを意味すると思っていた。
二人は雑貨屋とアクセサリー屋が並ぶ街に電車で来て、歩きながらいろいろ見て回った。ケヴィンはいくつか冗談をしたけど、栞里は首をかしげるばかり。
ただその動作自体が可愛く、ケヴィンは心の中で悶えた。わざとやっているようには見えなかった。本当に冗談がなぜ笑えるのかがわからない様子。そもそもなぜそんなことを話すのかも伝わってないようで。
ここでも文化の違いがあったのかもしれないとケヴィンは思うことにした。栞里は時折突拍子もないことを言ってくるケヴィンを不審に思うというより、アメリカ人ってこんな感じなんだろうかと勝手に納得していた。
ちなみに栞里がケヴィンをアメリカ人と知っているのは彼が自分をアメリカ人だと教えてくれたから。栞里はアメリカ人のアクセントを聞いたらそれがイギリス人のそれと違うことは区別できたけど、アメリカ人のアクセントというか、アクセントのないアクセントでしゃべるイギリス人がいても不思議じゃないと栞里は思っていたのである。
周りは二人を微笑ましく見ていた。若い男女がデートしているようにしかみえない。自覚がないのは栞里だけ。
ケヴィンはいくつか栞里に似合いそうなアクセサリーもこっそり買っていた。ちょっとパンクなデザインだったけど、そもそもこの町がその手のものを専門的に扱っているのである。なぜそんなところをチョイスした。二人は別にロックとかパンクとか無縁な人生だった。どうしてこうなった。
ともかく、二人のデートは進み、昼頃にまで時間が過ぎた。栞里は笑うことはなかったけど、何となく愛想笑いをしようとしたら自分が思った以上に表情が緩んだことに自分でもびっくりした。
ケヴィンは会話の節々にも彼女に気を付けながら細やかな配慮をしていた。自分も楽しいんだから相手も楽しんでほしい、そう思うのはケヴィンにとって当然のことであった。
ただケヴィンは笑顔を作ったらそれがダンディに見える。無精ひげも相まって、心から楽しみながら笑っているというのに、愛想笑いならぬ自分が笑っているから大丈夫だという意思表示をしているような、力のある笑顔。
その笑顔が自分に向けられるものだとは思わず、栞里はまるで画面の向こうのモデルを鑑賞しているような気持ちでぼーっと見とれていた。
そうなるとケヴィンは彼女が動かないからと自分も動かず栞里を笑顔で見つめる。栞里は見とれて何も考えられない。見つめあう二人。甘い空気が流れる。パンクな服装の若者たちが二人のそういう様子を見てクスクスと笑う。
それではっとなってぎこちなく視線を外す栞里とそんな彼女をエスコートするように歩くケヴィン。
そして昼食である。栞里は頭の中で花火がなってるけど感じたことがない感情だから今日の自分はどうしちゃったんだろうと自覚せずにいた。なぜここまで買い物が続いて、昼食まで一緒に食べているのかに関してもまるで何も考えられない。ケヴィンの母はイタリアンレストランでコックをしているのもあって食事のマナーには結構厳しい。自分が作ったものをマナー守って食べてほしいのである。そしてケヴィンはそんな母の教育を受けて行儀よく食べるようになり。
そんな姿にまた見とれる栞里。彼女の中でケヴィンは謎の騎士様とかそういう風に見えた。自分が一世一代の大ピンチの時に颯爽と現れ、救ってくれた人。
ただそれだけなら、おっさんやおばさんでも可能で、例えば複数のおばさんが騒いでたらその犯罪者の男は自分から手を放したはず。そんな、救ってくれたからと惚れるとかフィクションじゃないんだからという考えにたどり着いた時、栞里は思った。
あれ?
救ってくれたから惚れたわけじゃないということは、惚れたこと事実に基づいての断定では?
え?
あれ??
栞里も子供のころ、小学校の担任先生に惚れたことがある。自覚もせず過ぎていた甘酸っぱい思い出。栞里をいじめる子供たちを叱ってくれたのだ。結婚もして子供も持っている30代半ばほどの先生だったけど。
こんなことを言っていた。
「お前たちだっていつか大人になるんだよ?栞里ちゃんもいつか大人になる。考えられないか?傷つけられたまま、大人になることを他人に強いるなんてどれだけ残酷なものか。そんな権利なんぞお前たちにあるわけがないだろうが。大人の女性にできないことは子供の女の子にもしちゃいけない。わかるか?」
今考えてみれば先生は少し投げやりのような態度だったけど、栞里に向けられていたでかい女とかの罵声は先生のその一括によってなくなったから結果オーライではあったんだけど。
それで自分を大人の女性の延長線上で考えてくれた先生にときめいたもので。
ただ栞里はそれを初恋だとは思わなかった。実らないものだからと感情に蓋をした。
そして今まで自分が蓋をした心と向き合うことはせず過ごしていた。
だというのに、素敵で魅力的な男性と出会ってしまった。
自分が彼に理想的な何かを見ているわけではない。彼はただ、その姿のままで格好いいと思った。年を取ってもずっと今みたいな感じなんじゃないかと。
そして自然と自分と彼の子供を想像した。もう付き合いも結婚も通り越して子供である。
何やっているんだろう、また見とれている。彼はとても綺麗に食べる。長くてごつごつとした指。引き締まって少し盛り上がった胸の筋肉も彼が食事をするためにかがんだ時に見える。
仕事は何をしているんだろうか。年齢は、そこまで取っている気はしないけど。
頭よさそう。お金持ちなのかな。なぜ彼は私と二人で過ごしているのだろう。
まるでデートみたい。
デート…。デート?!
今更栞里は彼が自分と歩き回りながらいろいろ見てみたいと思った意味を思い返す。
けど私、彼に比べたら全然…。ただの引きこもりの女子大生なのに…。うまく引きこもることもできなくてこんなところにまで来てこんなに格好いい人に迷惑かけて…。私何やっているんだろう…。
あ、でもあまり嫌われている感じはしないんだけどどうしてだろう?
当然のことである。ケヴィンは栞里を好ましいと思っていた。別に年下趣味だからとか、アジア人にフェチズムを持っているからとかではなく、好奇心旺盛で自分の感情に素直になるようなところや整った顔立ちを武器にマウントを取りに来ることもなく、自分に見とれては目を合わせてもよくわからないような表情をするところとか。
それにケヴィンは人のぬくもりに飢えているのである。誰でもいいということはないが、栞里はいいと思ったのである。
結局夜までデートは続いた。
そしてケヴィンは彼女にぶっちゃけた。自分のホテル部屋にくるか、それとも自分が行くか。どっちも嫌ならただ友達でいたい。ロンドンから離れても連絡を送りあわないかと。
栞里はパニック状態になった。え、どうしよう。恋人になるか友達になるか選択権を自分に与えてくれたことはうれしいけど、乗っていいの?そもそもよくわからないのにそんな急に。
少し迷った。具体的には十分ほど迷った。
そんな急に決めるわけがないというのに、心の中で今まで読んできた文学作品たちが囁いていた。
これぞ運命、と。
栞里はせめて物の抵抗として、彼が泊っている部屋へ行くことにした。別に意味はない。いや、意味はある。きっとある。自分の部屋を見せないという意味が。あるはず。
だが彼女は初めてである。この年まで処女とか面倒くさいとか思われないかなと不安半分期待半分。そもそもなぜこうなった。こんな映画のようなシチュエーションあっていいのかと自問するも、やっぱり自分の心は素直である。断じて栞里がちょろいわけではない。
先にケヴィンがシャワーをして、次に栞里の番。マジで脱ぐんですか。ここまで来てどうする。脱がずにできるものか。いや別に穴に入れるだけなら下着をちょこんとずらして。いや何考えているの、そこまで映画のようにいかなくてもいいじゃない。
時間は夜の10時。普段は起きている時間だし今も眠気なんてものはない。
ケヴィンって、軽すぎじゃない?こんな一日デートしてすぐやるとかどうよ。遊びなれてる?そんな悪魔だか天使だかが心の中で囁く。
だけど今こそがチャンスなのだという心の声に逆らえず。
ええい、女は度胸!と自分で気合をいれ、服を脱いでシャワーを浴びた。もう何が何やら。
ただここにはケヴィンの押しもあったのだ。選択する権利を与えるように見えて、気があるなら今日最後までしよう、気がないならこの夢のような出会いは淡々とつながる現実の一部でしかなくなるぞ、と。
思い出を人質に取ったようなものだ。このようなやり方をしていいのかとベッドに座り栞里を待っている間に思ったケヴィンだったが。
自分が選ばないと未来は来ないし、選択の結果どうなるが、それが自分が迎える未来であるならそれが悪い未来でもいい未来でも受け入れるのみと思い直す。
この手の葛藤はいつもやっているものだ。今更後戻りをするつもりはない。
そしてその晩、ケヴィンは優しく栞里を抱いた。笑顔にしようとジョークを言うことはやめて、ただひたすら緊張して固くなった体をほぐそうと愛撫を重ねた。
栞里は初めての感覚にくすぐったかったり痺れたり、感じたり。
ケヴィンは聞いてきたのだ。どこか触ってほしいところはあるかと。どこかなめてほしいところはあるかと。それと自分の、ケヴィンの体も触りたい、舐めたいところがあるのかも聞いてきた。筋肉がすごかったから、腕とか腹筋とかたくさん触った。栞里が彼を触るたびにケヴィンも栞里に可愛いと頬を手の甲でなでたり唇を親指でなでたりしていた。
そんな仕草一つがいちいち格好良すぎて。
そして栞里自身は自覚していなかったことだけど、彼女はそう質問を受けるたびに顔を真っ赤にしていたのだ。ケヴィンはそんな彼女を愛おしいと思った。
栞里はセックスってこんなにいいものかだったのかと衝撃を受けた。
栞里は大学の友人や知り合いから結構生々しい話を聞いたこともある。ただ本で読んだだけの知識が彼女のすべてではない。けどこんな、互いに聞いて確かめ合うとか、聞いてない。
ああ、そう、きっとそうだ。セックスだって人間関係の延長線上にあるものだから。うまい人に偶然出会うとかそういうものじゃないんだ。独りよがりになるものじゃなく、互いに互いのための気持ちを向かい合わせることなんだ。愛し合うってこんなにも、こんなにも心が満たされることだったんだ。
ちなみにケヴィンは栞里を愛していると言える段階にまでは行ってない。栞里も同じであったが、初めての経験が思ったよりずっとスムーズだったため、栞里は夢のような心地だったのである。