同級生 ~失われた記憶~
青空の下、少し肌寒さを感じさせる初夏。田んぼには水が張られ少し伸びだした稲の葉は風になびいている。学校へと続く真っ直ぐな農道。その道を小学校の通学班が歩いている。
先頭を歩くのは俺と近所に住む同級生。最後尾には五年生の時 埼玉県から近くに引っ越してきた同級生の女の子。彼女は三つ下の妹と手をつないで歩いている。その間に挟まれるように下級生が数人並んで歩いている。俺は時折後ろをみて班員がついてきているかを確認しながら隣を歩く同級生と昨日みたテレビアニメの話題に夢中になっている。
俺はこんな自分の行動を、さも他人の行動かのように斜め上からながめている。自分の姿を自分が見ている違和感を違和感と感じないまま見覚えのあるこれらの出来事をごく自然に眺めていた。どれくらい歩いたのか、どれくらい時間が経ったのか…… いつしかこの集団が学校に近づいてきた頃、これまで見てきた映像はゆっくりフェイドアウトしていった。
平成十五年三月二十九日 土曜日
窓から差し込む朝日がカーテン越しに俺の顔を照らす。
閉じた目にもその光は感じとられ、手で顔を覆いながらゆっくりと目を開けた。今度俺の目に映ったのは見覚えのあるいつもの天井、いつもの室内。はっきりした風景を捉えることができた。俺はしばらくぼんやりした意識で天井を眺めながらたった今見ていた夢を思いだしていた。
それは小学校の通学風景。隣にいたのは近所の同級生 勉だった。彼は同い年で家が近所なことから常にお互いの家を行き来していた。しかし小学校を卒業後 俺は埼玉で叔父が経営する中高一貫校へ入学したため彼とはそれっきりになっている。この学校への進学は別に俺の学業成績が良かったからではない。むしろ悪かった事から、見かねた両親に放り込まれたのだ。そして偶然にも俺の八つ上の兄貴も埼玉県にある医大に通っていた。そのようなことから両親が頻繁に埼玉へ来るようになり、俺は小学校を卒業してから一度も実家に踏み入れていなかった。
『いつでも帰れる』
そんな安心感が俺の帰省を遠のかせていた。
そういえば夢で最後尾を歩いていた子。昔近所に住んでいた同級生の女の子であるのはわかっているのだが、顔も名前も思い出せない。思い出そうと、再び目を閉じてみるが夢の続きを見られるはずもない。夢のリプレイを諦めた俺は、今自分が置かれている状況を把握しなければならないことに気づいた。
(俺はいつ帰ってきた?)
(昨日は送別会だったよな?)
(あれ? そういえば昨日はどうやって帰ってきたんだ?)
昨日は退職する同僚(男)の送別会に出席していた。彼は俺と同じ会社でソフトウェアの開発をしていたが、これからソフト開発やウェブサイト作成を請負う会社を設立するために退職という道をえらんだそうだ。ソフトやハードの知識に長けている彼なら十分やっていけると思うのだが、それ以外の知識も経験も心もとない。その為どこかの会社で経理の仕事をしていた彼の妹さんが事務全般を手伝うとのことだった。彼の新たな門出を祝して、何度となく乾杯を叫んだのは記憶しているのだが、途中から記憶が怪しくなり、最後どう別れたのか、どうやって帰ってきたのかさっぱり覚えていない。
俺は自分の布団の中で転がりながら、時計を見ようと体制を変えた時、頭の奥に『ズーン』と重い痛みを感じた。それは昨日飲んだ酒の量を想像させる。俺の片足はベッドの下へとはみ出し、ベッド脇のテーブルに置かれた目覚まし時計は倒れている。俺は手を伸ばして目覚ましを起こしてやると、時計は十時二十分を指していた。
(ゲッ! もうこんな時間なのか?)
一人暮らしの休日。特に早く起きる理由などないのだが、「ただ寝ているのが勿体ない」という貧乏性が働くのだ。二日酔いの重い身体を引きずり起こして、部屋の東側の窓にかけられたカーテンを開け、続け様に窓を全開にした。アルコール臭が漂う部屋の空気を拭い去るように春の冷ややかな風が流れ込んでくるのがわかる。俺は窓枠に手をついて上半身を外に乗り出すと大きく深呼吸した。
「春はお別れの季節です~♪」
三月という季節。同僚の退職という別れがあって少し感傷的な気分になったのか、昔の女性アイドルが歌っていた卒業ソングを口ずさんでみた。
ワンフレーズ終わったところで歌うのをやめる。
(天気いいし布団でも干そうかな)
ベッドの上で丸まっている布団を南側の窓に設置されたベランダへと放り投げる。続けて枕、毛布と投げ込むと、俺はスリッパをはいてベランダへと出ていった。先程は心地よく感じた春風も全身に受けるとちょっと肌寒い。俺はそそくさとさっき投げ出した布団などを物干しに下げかけると、今度はシャワーを浴びるためバスタオルを持って浴室に向かった。
浴槽とトイレが一畳程の空間に一緒になったユニットバスの扉の前で、着ていた服を脱ぎ始める。するとその瞬間 アルコールとなにかが混じったような嫌な臭いが鼻をついた。脱ぎかけた服を鼻にもっていくと先程の不快臭が何倍もなって鼻から入ってくる。
「ウゲッ……」
俺はその異臭を放つ服を脱ぎさると、汚物でも持つようにしてそれを洗濯機に放り込む。その後も身につけていたものを次々と同じように放り込んだ。洗濯機には前日までためた服が入っていたので、全裸になる頃には洗濯機はいっぱいになっていた。
そんな時、鉄扉を開ける音と共に男女の話し声が聞こえてきた。内容は聞き取れないが、楽しげな弾んだ調子の声。そして扉が閉まる音がしたかと思うと、その話し声はだんだん遠ざかっていった。
(お隣さんは学校でもいくのかな?)
俺が住んでいるこのアパートは全部で八室あり半分は近くの大学の学生が占めている。お隣さんはそこの男子大学生。これ迄何度かそこに女性が出入りしているのを見かけたことがあったが、二ヶ月前 ついに二人は同棲を始めたようだった。
一人で住んでちょうどいいこの部屋に、男女二人が住むってどんな感じなのだろう? そんな事を考え始めるが、生まれてこの方彼女がいたことがない俺には想像もつかない。俺はすぐに考えるのをやめて洗濯機に洗剤を放り込んでスタートスイッチをおした。
こんな俺も七年ほど前まではその大学に通う学生だった。入学と同時にこのアパートに入居して卒業し就職した今まで約十一年間住み続けている。その大学は理系学部しかないので女子は全体の二割程度しかいない。だからそれ程男女が密になっている光景を目にする事もなかったので、彼女がいない自分の身の上を気にすることもなく四年間を過ごしてしまった。
『積極的に合コンでもいけばよかった』
そんな風にその頃のことを後悔する事があったが、今現在友人に合コンに誘われても色んな言い訳をして避けてきた。その頃と消極さは変わってはいないのだ。
俺は体から漂う不快臭を落とすべく、浴室に入り、少し熱く感じるくらいのシャワーを頭から浴びた。
(二日酔いには熱いくらいが気持ちいいな)
三十秒ほど全身にお湯を浴びると、ボディーソープで全身をくまなく洗う。全身を洗い終え、バスタオルでサッと身体の水気を拭き取ると、まだ多量の水気を帯びている髪の毛を手荒く拭きながら浴室を出た。そして全裸のまま流しに並べられたマグカップをとりだすと、そこにインスタントコーヒーの粉を瓶から直接カップに振り入れた。そこへ水道から適当に水を汲み入れたあと電子レンジで加熱し、止まらないうちにレンジからカップを取り出した。こんな独身男性らしい『雑なコーヒー』をすすりながら寝室兼リビングに戻ってきた。そしてテーブルの前に腰を下ろし『ふぅ』っと大きく息をつき、テレビのリモコンに手をかけようとした時、ベッドの上に放り投げてあった携帯のバイブ音が鳴り出した。
画面に表示されているのは上谷彰。二つ年下の同僚だ。
「はい、もしもし?」
何か会社でトラブルでもあったのかと、恐る恐る電話にでた。
「あっ、有馬さん? 昨日はお疲れ様でした。ちゃんと無事帰れましたか?」
(無事? なんのことだ? 何かあったのだろうか?)
「ああ、大丈夫だよ。昨日何かあったっけ?」
そういうと電話の向こうで上谷がため息をつく声が耳に入ってきた。
「覚えて無いんですか?」
「ん? 何を?」
また電話越しに更に大きなため息が聞こえてきた。その時 電話の向こうで上谷が「やれやれ」といったジェスチャーしているのが目に浮かびちょっとムッとしたが、平静を装い話を聞いた。
「有馬さん、昨日帰る時 タクシー呼びますか っていったら、お金もったいないから歩いて帰ると言ったのを覚えてますか?」
「ああ」
(まったくこれっぽっちも覚えてないぞ)
「で、みんなが止めるのも聞かずに歩いて帰っちゃったんで、美智子さんから僕が電話する様に言われていたんですよ。まぁ、とりあえず無事で良かったですけど……」
美智子さんは俺より二つ、三つ年上の同僚で面倒見が良いことで知られている女性だ。何となく週明け顔を合わせ辛い感じもするが、社会人としてはちゃんと礼を言わねばならないだろう。
「ふっ、俺の帰巣本能も大したものだよな」
「何、馬鹿な事言っているんですか? あんな酔っぱらった状態の有馬さんを見送る方の気にもなってくださいよ」
「わかってるよ。美智子さんにはちゃんとお礼言っとくよ。上谷もありがとな」
電話を終えすっかり冷めてしまったコーヒーをすすりながら、退職した彼のことや起業のことをぼんやりと考えていた。
システム開発やプログラミングには俺も多少自信はあるが会社を作ろうとはこれっぽっちも思わない。何故あいつは会社を作ろうなんて思ったのだろう? 客がつけば今よりも稼げるかもしれないが、つかなければ収入はゼロだ。そんなリスクを冒しても自分の力を試してみたいとか? どこからそんなモチベーションが湧いてでるのだろう?
消極性こそ自分スタイルと思っている俺には理解できるはずもない。
何にせよしばらくは今の生活スタイルを変えるつもりはないのだから。
そんな事を考えていると外から冷たい風が流れ込んできた。それが体を通り過ぎ『ぶるっ』と震わせると、自分がこれまで全裸で過ごしていたことを思い出した。
「ヤバっ! こんな時誰か来たらどうすんの?」
そしていそいそと押し入れからパンツと服を取り出し身に纏った。コーディネートも何も無い、ただ寒いから着ただけといった装いである。寒さの問題が解決してふとベッド脇の目覚ましに目を移すと、もうすぐ正午になろうとしていた。
(そろそろ飯にしようか……)
そう思って立ち上がろうとした時、また携帯のバイブが鳴った。携帯電話の画面には『兄』と表示されていた。
(珍しいな)
兄の有馬太一はさいたま市内で開業医をしている。彼は大学卒業後、数年間働いていた大学病院を辞めて多額の借金をして自分の医院を開いた。
こんな身近にもリスクをとって起業する人がいた事に気がつきフッと笑いがこみ上げてきた。それにしても土曜日は診察日のはずなのに、何でこんな時間に電話をしてくるのだろう?
俺はそんな事を考えながら通話ボタンを押した。
「もしもし? 兄貴?」
「ああ、卓也か? あのな。さっき母さんから連絡あったんだけどな……」
兄の声は少し震えているような、慌てた調子で話始めた。
「今朝、父さんが倒れて救急車を呼んだらしい。それで病院に運ばれたんだけどそこで亡くなったというんだ……」
「!!」
「おい、卓也? 聞いているか?」
俺は何度か兄に問いかけられ、ハッと我に返った。
「……あ、ああ、大丈夫。それで、その何で亡くなったの?」
「心筋梗塞みたいなことを言っていたけど、母さんもかなり慌てていたから行ってみないことにはわからん。母さん、お前にも電話したけど話し中だったとか言ってたぞ」
(ああ、あの時か……)
「ああ、……で、兄貴は実家行くんだろ?」
「もう向かっている。今は大宮駅だ」
俺は兄の医院の患者は大丈夫なのだろうかと、余計なことが頭に浮かび、親が死んでも意外に冷静でいられる自分に感心した。電話を切ると俺は職場の上司に電話をして暫く会社を休まなければならない旨を伝えた。そして数日分の着替えと礼服を押し入れから出すと、部屋の床に並べて確認する。
(おおよそこんなもんだろう)
用意した服を旅行カバンに収納すると、今度はさっき着たばかりのダサい服を脱いで他所行きのキレイ目の服に着替えた。
「あっ! 洗濯物!!」
さっきスタートした洗濯機はすでに終わっていたが、何日間も部屋干しするのも嫌だったので、ビニール袋に入れて実家へ持って行くことにした。
(臭くなりそうだけど…… うち行ったらもう一度洗おう)
そのビニール袋も旅行カバンに詰め込むと、急ぎ足で最寄りの駅に向かった。
(今、だいたい十三時だから、そこから大宮まで行って、新幹線乗って、そのあと在来線に乗り換えて…… 十九時過ぎるかな?)
おおよその到着時刻をざっと計算すると、兄にメールでそのことを伝えた。土曜日ということで駅周辺は結構混雑している。これから遊びに行くであろう若者、買い物袋を抱えたおばさんなどが行き交う中、大きな旅行カバンを引きずった俺は大宮駅を目指した。
普段あまり出張もないので電車の乗り換えはあまり得意ではないのだが、大宮までは何度も来ているので迷うことなく行き進めることができた。新幹線の出発まではまだ時間もある。時間潰しに駅ビル内を見て歩き、すぐに食べられるような土産を買って行くことにした。
(なんかお菓子ばっかりだな)
普段ほとんどお菓子を食べない俺は、ネギ味噌とコンビーフをチョイス。購入するとそれらをカバンにくくりつけ新幹線乗り場へと向かう。在来線と違い新幹線はそれほど混んでいなかった。混雑を予想して指定席券を買ったが、自由席にすれば良かったと少々後悔しながらやってきた新幹線に乗り込んだ。席に着くとようやく落ち着きを取り戻し、車内販売の駅弁と三五〇ミリリットルの缶ビールを買って、遅くなってしまった昼食を取り始めた。
(そういえば今朝、小学校の時の夢を見たんだったな。なんかの暗示だったのかな?)
普段そんな迷信じみた事を気にしない俺も、父の死を受けて少々ナーバスになっているのかもしれない。そんな事を感じながら車窓からの流れる風景をながめていた。
十九時四十分、俺はようやく実家近くの駅に到着した。この駅で降りたのは俺と、学生服を着た数人の高校生だけ。彼ら彼女らは駅前で待っていた車に乗り込んで帰ったので、駅前の道路を歩いているのは俺だけだった。道を照らすのは街灯の灯だけ。駅前だというのにコンビニすらない。
(俺がいた時から時間止まっているんじゃないのか?)
そんな錯覚をしてしまうほど、何も変わっていないように見える。そんな疎らにある街灯の元、俺は実家がある方角へ足をすすめた。見覚えのない建物や整備されたキレイな道路など、少しは発展を感じさせるものもあったが、家に近づくにつれこの村を離れた十七年前と変わらない家並みが目に入ってきた。
(勉の家はここだったよな)
ノスタルジーに浸りながら歩いていると、いつのまにか実家前に到着していた。そこにはすでに白黒の幕が張られ提灯が置かれている。否が応でも父親の死を感じずにはいられない。門を通ってキレイに整えられた庭を過ぎて玄関のドアを開ける。開けた途端に線香の匂いが漂ってきた。
「ただいま!」
そう言って靴を脱ぐ玄関の隅の方には、いかにも高そうな革靴が置かれていた。
(兄貴のか……)
そして十七年ぶりに入る実家の家は、小学校の時と同じ雰囲気、同じ匂いを放ち実家に帰ってきた事を実感させる。俺は上がってすぐの引き戸をあけて茶の間へと入る。
「ただいま」
入った途端「よっ!」という兄貴と、「おかえり」という母の笑顔に迎えられた。茶の間と床の間を仕切るフスマは外され一続きになっていた。そして床の間の中央には亡くなった父が寝かされていた。俺はとりあえず父の元に行って顔をみる。その顔はただそこに眠っているかのような安らかな顔をしていて、何となくホッとして母や兄がいる茶の間へ戻った。
亡くなったばかりだというのに母と兄貴以外は誰もいない。
「親戚とかには連絡したんだよね?」
そういうと母は
「うん、さっきまでいたんだけどね。近所の人が引けた所で明日また来るって帰ったよ」
そう言って母はテーブルに置かれた湯呑みのお茶をすすった。あたりを見回すと茶の間の壁にはすでに告別式迄の流れが貼ってあった。明後日の夜に入棺、明明後日が火葬と告別式らしい。そして明日は葬儀場の人と引き物などの打ち合わせをするとのことだった。
兄貴がいつここに着いたのかはわからないが、相変わらずの手際の良さを見せてくれる。
「じゃあ、あとは蝋燭絶やさないように寝ずの番しておけばいいんだな」
俺はそう言って母と兄貴が入っているコタツに足を突っ込んだ。その後数十分おきにやってくる近所の人にお茶を出しては、数分の間茶飲み話に付き合う時間が続く。蝋燭はだいたい三時間もつので交換タイミングはおおよそ見当がつく。
二十三時を過ぎた頃、また近所からの来客があった。年の頃は俺くらい。
(こんな若いのにお参りだなんて珍しいな)
そう思いながら家の中に招き入れる。
「あら勉君。久しぶりだわね。わざわざ来てもらってありがとう」
微笑みながら母はこの深夜の客人に挨拶した。
「ええっ! 勉!?」
驚く俺に、軽く手で合図した。
言われてみればなんとなく面影を感じる。彼は俺への挨拶の後、床の間で手を合わせると、他の客同様コタツでちょっとした世間話をして茶の間をあとにした。
「ちょっと外まで送って来る」
そう母たちに告げ、俺は勉の後について茶の間を出た。旧友との再会ということでちょっと話がしたかったのだ。外にでると相変わらず街灯はなく、二人の周りは自宅から漏れる灯だけでわずかな明るさを保っていた。
「卓也、ホント久しぶりだな。そのうち戻って来るのかと思っていたのに、全然帰って来ないしよー」
「ああ、実際十七年ぶりだよ。ここに帰って来るのは……」
俺は暫く勉と再会を喜び合った。三月の夜の寒空の下で、二十分ほど話をしたところで「落ち着いたら集まって酒でも……」そう言おうとしたとたん俺は今朝の夢を思い出した。
「そう言えばさ。今朝の夢にちょうどお前が出てきたんだよ。そんな時に兄貴から電話がかかってきたからびっくりしたんだ」
「へーっ、どんな夢だよ」
社交辞令なのか、あまり興味があるようには見えなかったが、ちょっと聞きたいこともあったので構わず話す事にした。
「いや、大した夢じゃないんだけどな。小学校いく時、通学班てあったじゃん。それで列作って学校向かっている夢だったんだけど……」
「ふーん……」
想像以上に他愛の無い話に思えたのか、勉は気のない相づちを打った。
「でさ、その列の一番後ろに女の子の手をひいた女子がいたんだ。そいつって同級生の……」
そう言いかけた時、勉は俺の顔の前に手を差し出して話を遮った。
「悪ぃ、卓也。寒くてかなわんから後から電話で話さねぇ?」
「ん? あぁ……」
そこで勉と携帯の番号とアドレスの交換をして、その場で分かれた。勉はポケットに手を突っ込んで身を竦めながら駆けていった。三十分近く外で立ち話をしていたため俺の体もすっかり冷えきっていた。俺は茶の間に戻るとテーブルに用意されていた湯飲みにインスタントコーヒーの粉を振りいれて、ポットからお湯を注いだ。
「相変わらず雑なコーヒーの入れ方だな」
その様子をみていた兄は呆れ顔でそう言った。
以前埼玉の兄貴の家に遊びに行った時、「子供が真似するからちゃんとスプーン使え」と指摘された事がある。しかしそうは言っても長年の習慣をそうそう直せるものでもない。
「そういや兄貴。亜由美さんたちは来ないのか?」
「いや、明日あたり来る予定だ。今日は悠人の塾があったからな」
暇つぶしなのか、兄貴は部屋に置いてあった父の本を読みながら目線も変えずに答えた。
亜由美さんは兄貴の奥さんで、二人の間には五歳になる息子 悠人がいる。五歳にして塾通いとは大変な家庭に生まれたもんだ。
兄貴は小さい頃は神童とか言われる程頭もよく、人当たりも良かった。そして地元の中学での成績は常にトップ。そこから県内一の進学校に入って埼玉にある医大に進学した。医者になって間もなく同じ学校の看護科にいた亜由美さんと結婚して外科医院を開業している。
同じこの家で育ったのに、何故こんなにも違うのだろう。俺は事ある度にそんな事を考えていた。
俺は雑に入れたコーヒーをすすりながら、ぼーっと兄の本を読む姿を眺めていたが、不意に先ほど登録したばかりの勉の連絡先を確認した。
(「後から電話で」って言ってたけど、この時間に電話は迷惑だよな)
そんな事を考えながら、携帯電話を手の中でいじり回していると、静まっている茶の間にメールの着信のバイブ音が響いた。
(おっ、勉からか……)
俺は画面に表示されたメールを開く。
『さっき言い忘れたけど、何か手伝えることがあったら連絡くれ。』
こういうのって 『田舎ならではの風習』 って感じでメンドクサイと思っていたけど、当事者になるとなかなかありがたいと思えてくる。
『ありがとう。でも殆ど兄貴の方で段取ってくれているから大丈夫だよ』
そう簡単に返事を返した。そして携帯をテーブルに置くと畳じきの床へ上体を倒した。新幹線の中で少し寝てきたが、日付が変わる時間となれば流石に眠さが襲ってくる。幸い兄貴はまだ親父の本を読んでいるし、母も古いアルバムを見て、葬式で使えそうな写真を探している様だ。
(皆で起きていることもなかろう)
俺は目を閉じて少しの間仮眠を取ることにした。
……と、その時再びテーブルの上の携帯が震え出した。目を閉じたまま手を伸ばし、手探りで携帯を掴む。それを仰向けに寝た顔の上に持ってきて重くなった目蓋をあけて画面をみると、またも勉からだった。そしてさっきと同じようにメールを確認する。
『それとな。ちょっと話しておきたい事があるから帰るまでの間に連絡くれ。』
(話しておきたい事?)
俺は何の話か検討もつかないまま、『OK』と描かれたキャラ文字を返すと、目蓋は重力加速度が付いたようにクローズした。茶の間の蛍光灯の光が閉じたまぶたを通して眠りを妨害してくるが、この眠さの前には何の効力も無い。そして一分としないうちに眠りの世界に落ちた。
またも自分の姿が目の前に現れ、その近くには勉の姿もあった。
(コレも夢か……)
壊れたクルマの荷台が道路脇の広場に置いてある。そこはこの地区のゴミ集積場。壊れたストーブや古タイヤなどが積まれている。その近くで子供姿の俺と勉が戯れあっている。
(コレ見覚えがある。通学班の待ち合わせ場所か?)
そんな光景を他人の視線で眺めていると、お母さんに連れられてそこへ向かってくる一年生や、棒っキレを振り回しながらダラダラ歩いてくる三年生くらいの男の子が見える。そんな中、その集合場所のすぐ近くの一風変わった建物から姉妹らしき二人の女の子が出てきた。その脇には母親と思われる大人の女性が付き添っている。その人達の顔は見えない。
見ている間にその女の人は通学班の子達に何やら話していたかとおもうと、小さな袋を配り出した。
(これはあの姉妹がやってきた時か?)
そして暫くすると子供達は列を作って学校に向かい歩き出した。その姉妹は手を繋いで一番後ろをついて行っている感じだ。
(これが昨日の夢に続くのか?)
俺は今見ている映像を夢と認識しながら、冷静さを保ってこの姉妹の顔を確認しようとしていた。何度も近寄って顔を見ようとするが、次第にその映像は遠ざかる。
平成十五年三月二十九日 日曜日
夢の続きを妨害するかのような騒音が耳にはいる。
「卓也。朝だ、起きろよ」
そんな風に起こされるのも何年ぶりだろう。
「あと五分……」
寝ぼけたようにお約束の台詞を吐いてみる。
今度は肩を持って揺さぶられ、しつこい追撃に俺は耐えきれず目を開いた。すると目前には何人かの人達が座っていて、その中に自分が横たわっていた。
(わっ、恥っ!!)
俺は急いで寝ていたコタツから抜け出すと、取り敢えずその人達に挨拶をした。そばにいた兄にこっそり話かける。
「そこにいる人って誰?」
兄は少し面倒そうな顔をしながら説明する。
「あの人がお母さんの姉で、その隣がそのお母さん。うちらにとっておばあちゃんだな。そして手前にいるのが親父のお兄さんで、その人が話しているのが……」
「え、あ……うん」
高速詠唱のように説明されても寝ぼけた頭で覚えられるはずもなく、兄の説明は俺の耳を素通りしていく。五人目くらいまではなんとかいけたがそれ以降は聞くことをも諦めた。
(まぁ、覚えていてもそうそう会うこともないだろう)
昨日はバタバタして風呂にも入れなかった。せめて顔くらいは洗いたい。俺は洗面所に向かった。その途中の台所には親戚と思われるおばさん達が煮炊きをしながら世間話をしていた。
俺は軽く挨拶をしてその場を通り過ぎる。すると台所からは小さな声で、「今の誰?」と誰かに尋ねるような話し声が聞こえて来た。まぁ、小学校出てから一度も戻ってないのだから仕方のない事だが、せめて俺の耳に届かないように言って欲しい。そんな事を考えながら洗面所の前に立つ。備え付けてあった固形の石鹸を手に取り泡を立てて顔を洗うも、イマイチすっきりしない。
(とりあえず人が引けたら風呂でも入るか……)
俺は手洗い用の手拭で濡れた顔を拭くと、茶の間に置きっぱなしにしてある荷物を、昔俺が使っていた部屋へと運ぶことにした。家の中央に位置する階段を上がると、昔 俺や兄が使っていた部屋がある。十七年ぶりに自室に入ってみると驚くことに俺が小学生の時使っていたままに保たれていた。机の上には小学校の教科書と「私立中学でついていけるように」と叔父から送られてきた中学受験用のテキストまで揃えて置いてあった。おまけに学習デスクの脇にはランドセルまでかけてある。まるでついさっき小学校から帰宅した……といった雰囲気である。俺はこの時間が止まった空間で、ノスタルジーに浸っていたい衝動に駆られたが、今はそんな時ではないことは承知していたので、荷物を部屋の隅に置くとすぐに皆がいる茶の間へと戻ることにした。
戻ると茶の間はさっきにもまして自分の居場所が見つけられなかった。
「今のうちに台所で朝ご飯食べてこいは。従姉妹のけこちゃんが手伝いに来てけっだがら」
母がそう言ってきた。人生の半分以上を首都圏で過ごしてしまうと、この母の方言まじりの話は実に聞き取りにくい。母がいう『けこちゃん』 というのは、俺のいとこの梶尾圭子のことだ。さっき通り過ぎた時にもいたのだろうが気がつかなかった。そういわれて台所へ入っていくと、テーブルには漬物と大皿いっぱいに並べられたおにぎりが、紙皿や客出し用の湯飲みなどと一緒に置かれていた。
(セレモニーホールや通夜会館使えばもっと楽なのに……)
この雑多な状態をみて俺はそう感じたが、まだこの辺りではそういったものを使う風習はないと後に兄から聞いた。しかし葬式のほぼ全てを親戚や近所衆がやるって負担が大きすぎる。都会では絶対にできない文化だ。
そんな時……
「たくちゃん?」
そう声をかけてきたのは三十歳位の女性。
「ん? 圭子か?」
「やっぱり! 久しぶり!!」
圭子は俺の手を両手で握ってピョンピョン跳ねている。この年齢で『ちゃん』付けされるのも少し抵抗があるが、親戚にこう言われると実家に帰ってきた感があって悪くない。
「久しぶり。最後に会ったのって小五くらいだっけ。圭子はいまも実家いるの?」
「ううん。私、高校卒業してすぐに結婚したから。今はとなりの市で専業主婦してる。十一歳になる子供もいるよ」
田舎は結婚が早いというが本当の話のようだ。圭子は俺と同い年のはずだが、俺や会社の同年代の子よりもずっと落ち着いてみえる。
「たくちゃんは?」
「俺はまだ独身だよ。埼玉でソフト会社に勤めてる」
「へーっ! 凄い!!」
何が凄いのかわからない。
「別に凄くはないよ。給料安いし……」
「そうなんだ……」
圭子はどう反応していいかわからない様な表情を浮かべた。俺は朝食を食べにきたことを思い出して、テーブルの皿からおにぎりを一つとって口へと運んだ。それはコンビニおにぎりよりも小さく握られていて二口程度で食べ切れる大きさだ。中身は梅干しと昆布の佃煮があるようだ。俺の好きな鮭が無いのが残念だ。
「十七年ぶりに帰ってきたけど、この辺りはかわらないねぇ~」
「そうだね。私が住んでるところなんか同じ県内とは思えないくらい変わっているのに、ここだけ取り残されているみたい」
「それがいいのか悪いのかわからないけどな」
二人は顔を見合わせてクスリと笑った。俺はたくあんを摘みながら二つ目のおにぎりを平らげると、圭子を残し兄貴のいる茶の間へともどった。そこでは母と兄がJAの人と打ち合わせをしていた。他の親戚の人たちはお茶を啜りながら、畑の話をしているようだ。その中にはどうもはいって行けそうにない。
(どうも居心地が悪いな)
俺はその場を離れ、圭子のいる台所へと戻ってきた。
「ちょっとコンビニ行って来るけど、何かいるもの無い?」
他の親戚のおばさん達と話をしていた圭子をつかまえて聞いてみた。
「ああ、それだったらペットボトルのジュースとお茶類を三本ずつ買ってきてもらえる? あと……」
「いや、あの……」
「えっ?」
圭子は話を遮られ少し驚いたように俺の顔をみた。
「俺歩きだからそんなに沢山持てないよ」
「えっ、あっ、そうか。じゃあお漬物を適当に…… でもコンビニって結構遠いよ。乗せていこうか?」
そういう圭子の申し出を丁寧に断ると、この家に来る途中に見えたコンビニの看板を目指し歩きはじめた。相変わらず村道の車通りはあまりなく、ふらふらと散歩のように当たりを見渡しながら歩いていた。勉の家の前を通りかかった時、「帰る前に連絡くれ」という言葉を思い出したが、帰るまでまだ日にちもあるので、とりあえずは俺の用事と圭子のお使いを優先することにした。今歩いているこの道は小学生の時の通学路でもある。当時俺は毎朝勉を呼びにいった後、この先のゴミ捨て場前で班員が集まるのを待っていたのだ。だがその場所には当時あった車の荷台の姿はなく、代わりに鉄格子の立派なゴミ集積場ができていた。
(そういえばあの姉妹が住んでいたのってこの辺りだよな)
そう思って建物があった方向を確認したがその姿は無く、そこには花壇があるだけだった。建物を見れば少しは思い出せると思っていた俺は少しがっかりしながら再びコンビニを目指して歩きだした。
(てか、コンビニで漬物なんて売ってるのか?)
普段梅干し程度の漬物しか食べない俺は、コンビニの漬物コーナーなど見た記憶が無い。しかしこの辺りに他の店は無さそうだし、とりあえずいってみるしか無いだろう。歩みを進めると、昨日は気がつかなかった新しい建物や道路ができているのが見えた。散策したい衝動を抑え歩いていると俺の横を通り過ぎた車が少し先で停止した。
「??」
なんだろうと思いながら歩いていると、その車の窓から見覚えのある顔が飛び出した。
「ヤッホー! 私もきちゃった!!」
「ええっ? 大丈夫だって言ったのに。台所はいいのか?」
「うん。買わなきゃいけないものもあったし」
俺は圭子の車の助手席に乗り込むとシートベルトを締めた。車内は綺麗に整頓されていて、柑橘系のカーコロンの香りがしていた。カーステレオからは何かのアニメソングのような曲がながれている。俺はカーステレオをじっと見つめスピーカーからの音楽に耳を傾けていた。
「あっ、これ? うちの子が好きなアニメの主題歌よ。とある科学のなんとかっていう……」
「超電磁砲?」
「ああっ、それそれ。たくちゃん詳しいの?」
俺はそうとも違うともとれるような返事をして、車窓から流れる外の風景を眺めている。圭子の車に乗せてもらって何分か経っているのにコンビニは一度も現れていない。
……というか、俺が行こうとしていたコンビニからは遠ざかって行くように見える。
「どこのコンビニ行くの?」
「うん、買うもの多いしスーパーに行こうかと思って…… コンビニの方がよかった?」
「いや、俺はATMでお金落としたいだけだから。急にこっちくることになって全然お金用意してなかったんだよね」
そういうと、圭子はクスッと微笑み車を走らせた。十五分ほど走ると、だいぶ車通りは増えていろんなお店も目に入ってきた。そして埼玉でも馴染みのあるスーパーの駐車場へと入っていく。どうやらここはスーパーやホームセンターなどが立ち並ぶショッピングパークらしい。
「ここなら何でもありそうだね」
「そうね。ATMはあそこにあるよ」
圭子が指差した先には、郵便局といくつかの銀行のATMが並んでいる。実家付近の発展は殆ど感じられないが、この周りはいろんなものができている。俺は早速ATMでお金をおろすと、圭子の脇でショッピングカートを押しながら買い物をはじめた。圭子は次々とお菓子やペットボトルの飲み物、紙皿などをカートの買い物カゴに放り込んでいる。
(さすが奥様しているだけあるなぁ……)
結婚すればこんなふうに二人で買い物に出かけたりするのだろうか? これまで想像もしなかった事が、この圭子との買い物でふと頭をよぎってしまう。
「あれ? 圭子ちゃん?」
買い物をする俺たちの後ろから声をかけられ、びっくりした様子で声の方に振り向いた。
そこには少し小柄で可愛い感じの女性が立っていた。
「あ、明美ちゃん! 買い物?」
「うん。今日のお昼と夕飯の買い出し…… で、そちらさんは?」
そういって、彼女は不意に俺に目を向け俺の存在を確認する。
「従兄弟だよ。この人のお父さん、つまり私のおじさんが亡くなってお葬式あるんだけど、その買い出しをしているところ」
何となく彼女からじっと見られているような視線を感じる。
「ああ、どうも、有馬卓也といいます。圭子の友達? ……でいいのかな?」
そういうと彼女は驚いた顔で、話しかけてきた。
「やっぱり卓也くん? 私、私!! 佐藤明美!! 小学校の頃近くに住んでた!!」
俺は彼女の名前を聞いて、幼い頃よく遊んだ女の子の姿が蘇ってきた。明美とは家が近かったこともあり、小学校入学前に勉が近所に引っ越してくるまでは一番よく遊んでいた。
「えっ、明美ちゃん? ホント?」
この偶然の再会で、俺と明美は昔に戻ったような、ごく自然な感じで話ししはじめた。
「それにしても圭子とはどこで知り合ったの?」
二人の再会を脇でながめていた圭子はこたえる。
「明美ちゃんとは高校が一緒だったの。卒業してからもよくあってるよの。住んでる所も近いしね。でも明美ちゃん、たくちゃんと知り合いだなんてビックリ」
「うん。圭子ちゃんは一目でわかったんだけど、先生じゃない男の人と二人で買い物してたから、声かけていいのか迷っちゃって……」
明美はそんな冗談とも本気ともとれることを言っている。
「先生?」
俺は明美の放った言葉に疑問を感じ、つい聞き返した。
「そっ、圭子ちゃんね、高校の担任の先生と結婚しちゃったの。しかもできちゃった婚……」
「へーっ」
俺は圭子の姿をまじまじと見てしまう。話としてはありがちだけと、本当に先生と結婚ってあるのだと感心していた。そして再び明美に視線を向ける、
「それにしても、明美ちゃん凄く変わったっていうか、綺麗になったね」
つい口からこぼしてしまった言葉に、明美は少し照れた表情を浮かべた。
「たくちゃん! 明美ちゃん綺麗だからって手を出しちゃダメだからね。明美ちゃんも人妻なんだから……」
明美は相変わらず顔を赤らめて照れた顔で黙っている。
「そうなの?」
明美はコクンとうなずく。
「二十歳のとき。結婚してからはこの近くのアパートに住んでるんだ。旦那と子供二人の四人家族……」
「へーっ、でもなんか幸せそうで安心したよ」
内心は少しガッカリしていたが、俺の発した言葉に明美は微笑んで俺と顔を見合わせた。
「そういえば昨日の夜、勉と会ったよ。弔問に来てくれて…… あいつとも十七年ぶりだったけど、ホントみんな大人になってるんだなぁ」
しみじみ俺は昔の明美や勉を思い返して呟いた。
「えっ? 勉くんがきたの?」
明美の雰囲気が一瞬変わった様に思えたが、俺は昨晩再会して電話した番号を交換したことを話した。そんな時タイムセールの店内放送が流れ、その途端に人の波が周りを通り過ぎた。自分たちがスーパーの通路の真ん中で立ち止まっていることを思い出し、俺は明美と別れて買い物を続けることにした。カートいっぱいになった商品の会計を済ませると、ダンボールの箱に荷物を詰めて車へと運んだ。ダンボール箱一つとビニールの買い物袋一つ。圭子はこれだけの荷物を徒歩の俺に買って来させようとしていたのだろうか?
俺は再び圭子の車の助手席に乗り込み帰路についた。しばらく車を走らせた頃、携帯電話ホルダに置いていた圭子の携帯電話がなりだした。ふと目をやると、画面には山口明美と表示されている。圭子はハンズフリーモードでその着信に応答した。
「もしもし。明美ちゃん? さっきはどうも……」
明美はさっき佐藤と名乗っていたけど、結婚して苗字が変わっていた様だ。
「えっ、あ、うん」
「……」
「うん。大丈夫かと思うけど…… ちょっと聞いてみる」
圭子は運転を続けながら、チラッと俺に視線を向ける。
「たくちゃん。明美ちゃんさ、たくちゃんの携帯番号教えて欲しいんだって」
「え? ……うん、いいけど。後で圭子に教えればいい?」
圭子は黙ってうなずくと、そのことを彼女に伝えていた。
(何だろう? 思い出話をしたいって訳じゃないよな?)
俺は変な胸騒ぎを覚えながら、圭子の走らせる車の車窓から、近所の家並みをみていた。十七年という年月は長いようで短く、短いようで長い。この間に俺の同級生たちは結婚して親になったりしている。
二十歳のころ、中学の同窓会があった。しかし俺のいた中学は中高一貫校だったので、高校を卒業するまで殆ど一緒で、二十歳の頃は卒業から二年しか経過していなかった。そのときはみんな大学生で懐かしさこそあったもののほとんど変わった感じはなかった。でも今は自分だけが、取り残されたような寂しさを感じている。実家に戻ってきて再会した同級生 勉と明美…… 他の同級生はこの地にどれくらい残っているのだろう?
そんなことを考えていると、圭子の車は家のすぐ前まできていた。
「たくちゃん。荷物、家に運んでくれる?」
「ああ、わかった」
俺は後ろの荷台からダンボールと買い物袋を手にすると玄関の方へと歩いていく。両手がふさがった俺の前を圭子は歩いて玄関のドアをあけてくれた。
「だだいま」
二人の声が、玄関に響くと見慣れた男の子の顔がひょっこり飛びだした。
「あっ、お兄ちゃん! こんにちは」
そう言って茶の間から出てきたのは、兄貴と亜由美さんの子供 悠人だった。
「よっ、悠人、久しぶり」
そう言って荷物を置き悠人の頭をもしゃっと撫でると、急に構えて俺の左足ふくらはぎを目がけて中段回し蹴りを打ってきた。それをヒョイとかわすと、続けざまに後ろ回し蹴りを繰り出す。そしてそれも俺はバックステップで避ける。
「やっぱりかわされたか」
「でもなかなか良かったよ」
そういうと悠人は満面の笑みで俺の足にすり寄ってきた。このいきなりの攻防を唖然としながらみていた圭子。
「何、今の?」
恐る恐る俺に聞いてきた。
「ああ、この子は兄貴の息子の悠人。ちっちゃい頃から空手習っているんだけど、俺も空手やっていたから会った時に稽古つけてあげてるんだ」
そう説明している間、悠人はじっと圭子の顔を見ている。
「お姉ちゃんは? お兄ちゃんの彼女?」
「ちっ、違……」
意表をつかれた質問につい吹き出し、必死に否定する俺を他所に、圭子は
「お姉ちゃんはね、このお兄ちゃんのいとこだよ。圭子って言うの。よろしくね」
……と一欠片の動揺も見せずに悠人の誤解を解き、自己紹介を済ませた。そして圭子は玄関前に止めていた車を移動するため、再び玄関から出て行った。俺は悠人にしがみつかれたまま、茶の間へと入っていくと亜由美さんが親戚のおじさん達と話をしていた。
「あっ、亜由美さん。こんにちは」
そういうと、亜由美は丁寧にお辞儀をした。
「卓也さん、ごめんなさいね、悠人の相手させちゃって……」
そんな風に軽く挨拶を済ませると、玄関に置いたままになっているダンボールの荷物を台所へと運んだ。悠人もお菓子の入った買い物袋を持って後についてきている。台所では朝と変わらない様子でおばさんたちが何やら話しこんでいる。俺と悠人は荷物を邪魔にならなそうなところに寄せて置いていると、台所にある裏口からビックリした顔で圭子が入って来た。
「ねぇ、裏に凄い車が止まっているよ!!」
圭子のいう『凄いクルマ』が亜由美さんと悠人が乗ってきた車である事は容易に想像がついた。兄貴は昔からデカイセダンが好きで、今はメルセデスAMG E55というボディーも排気量もバカでかい車に乗っている。今のご時世にそぐわない車だが、ご時世とは無関係の仕事をしている兄貴にはどうでもいいことなのだろう。せいぜい景気回復に貢献していただきたい。
「多分兄貴のだよ。亜由美さん達が乗ってきたんじゃない?」
圭子は聞き覚えの無い名前に疑問符を浮かべているのが表情からわかる。
「ああ、亜由美さんていうのは兄貴の奥さん。悠人のお母さんだよ」
圭子は女性がこの大きな車を乗りこなしている姿を想像したのか、再び驚いた表情を浮かべている。それから台所のおばさん達に混じって何やら話し始めた。この適応力には驚かされる。
この葬式を控えた現状、殆どの段取りを兄貴が仕切り、特にやることのない俺…… 今はまだ十四時半…… まだまだある今日の時間をどう過ごそう。こんな事を考えてしまう自分はダメ人間になったような感覚になる。それでも今この家に自分の居場所を確保できずどうしたものかと頭を捻った。
「そうだ、悠人。庭で空手の稽古しようか?」
唐突にこんな事を言ってみた。すると意外にも悠人は喜んでこの申し出を受け入れた。
庭に出ると隅にはまだ雪が少し残っている。そんな庭の真ん中で俺たちは準備運動と柔軟を行った後、約束組手やライトスパーを約三時間行った。
あたりが薄暗くなり親戚の人たちがパラパラと帰っていくのがみえた。十八時を過ぎ気温が下がって稽古の動きをとめるとかなり肌寒く感じる。
「どれ、そろそろ家に入ろうか?」
「うん」
俺は悠人の手を引いて家の中へと入っていく。長時間の稽古なのに悠人はさほど疲れた様子がない。体力はあるし、パンチも蹴りもなかなかのものだ。第一 中段回し蹴りからの後ろ廻し蹴りをごく自然に出せる幼年部は見たことがない。
「悠人って空手の大会は出ているの?」
「うん先月出たよ。三位になった!」
「へぇ、凄いな!!」
悠人は満面の笑みで報告していたので、そんな相槌を打ってしまったが、悠人よりも強い幼児がいる事に内心驚いてしまった。全国ならともかくとして……
「……、へ?」
俺は勝手に道場のクローズドの大会か県大会レベルを想像していたが、実際どうなのだろう。
「悠人。その大会って埼玉県の大会?」
「うーん。わかんない……」
そういいながら兄貴や亜由美さんが居る茶の間へと入っていった。家の中は相変わらず線香の匂いが充満している。そこかしこでストーブやヒーターをつけているので、外から入ってくるとかなり暑く感じてしまう。俺はとりあえず今かいた汗を流したいと思いシャワーを浴びることにした。自室にあるカバンから着替えを取ってきて、浴室に入ろうとしたとき、ばったり圭子にあった。
「あっ!」
二人が同時に声を上げる。圭子の顔を見た瞬間、昼過ぎに明美から連絡先を聞かれていた事を思い出した。
「連絡先…… 教えるの忘れてた」
「うん。私も……」
俺はポケットから携帯電話を取り出すと、圭子に俺の番号を教えて、ついでにアドレスの交換も済ませて浴室へと入った。十七年ぶりに入る実家の風呂は、色々思い出に残っているが、実際に入ってみると記憶していた広さよりもかなり狭い。
(こんな狭いところで親父や母さんと入っていたのか……)
そう思わずにはいられなかった。一通り身体を洗い終え、湯船に浸かっていると、浴室の外から悠人の声が聞こえてきた。
「お兄ちゃん。僕も一緒に入っていい?」
そう言われて「いやだと」言えまい。
「いいよー」
そう言ったとたんにドアが開き悠人が入ってきた。返事を聞く前に全裸になっていたと思わせる迅速さだ。入ってきた悠人に洗面器でお湯を浴びせて身体を洗ってあげると狭い浴槽に無理やり入ってきた。そしてこの狭さでも入れないこともない事を実感した。
悠人は明日、亜由美さんとどこかに遊びに行く事を楽しそうに話している。その事を話し終えると悠人は手団扇をしながら浴槽から出て浴室のからも飛び出していった。
しばらくして俺も風呂からあがると、茶の間には出前の寿司が用意されていた。その脇では悠人が亜由美さんに身体を拭いてもらっている。兄貴は窓の外を見ながら電話をしていた。ようやく落ち着きを取り戻した茶の間で、お茶の準備をしている母に、圭子のことを聞く。
「子供と旦那さご飯作らなんなねがら帰るど。寿司くてげてゆたんだげど……」
文字で表すと地元の人でも訳しにくそうな言葉で母は言った。家庭を持つと一日家を空けるのは難しいのかもしれない。
悠人の着替えと兄貴の電話が終わると、みんなで少し遅めの夕食を取った。兄貴と俺はビールを飲み始める。亜由美さんにも勧めたが、二つ隣の市にホテルを取ってあるので、そこまで運転しなければならないと断られた。明日の夜は入棺だが、それまではとくにやることも無いらしく、悠人と亜由美さんは日中ポケモンセンターに遊びに行くとのことだった。食事が終わると間も無くして悠人と亜由美さんは予約したホテルへと帰っていった。兄貴は昨日と同じようにコタツで親父の本の続きを読み始めている。暇を持て余した俺は昔自分が使っていた部屋に行ってみることにした。
部屋の中は昔のままでありながら、母が掃除していたのか埃っぽさはない。俺は学習机の椅子に座って、机の電気をつける。机の上に重ねられた中学受験の問題集をパラパラめくるが最初の数ページしか書かれたあとはなかった。机の引き出しには色んな文房具や小物が入っていたが、どれも懐かしいと思える物はない。……というより小学校以前の記憶はどれもボンヤリしていて、こういったものを見ても自分のものという感じがしない。
俺は机あさりを辞め携帯電話を取り出しいじりはじめた。すると何件かの不在着信とメールが来ていた。
(圭子からか……)
メッセージは明美に連絡先を伝えたというものだった。なんと几帳面な人なのだろう。前からこんな細やかな性格だったろうか? 俺は簡単に了解と送信する。それと同時にまたメールが入る。
(あ、今度は明美か……)
そう思いながら明美のメールを開いた。
「『今夜二十二時頃電話していい』って……、明美ちゃんも結構几帳面だな」
つい音読してしまった。
そしてこれにも「了解ス」とメッセージを送った。
それにしても何故十時なんだろう? 何の話なのか気になって、こちらから電話したい衝動に駆られたが、何らかの事情があってその時間なのだろうと電話を置いた。俺は一度置いた携帯電話のボタンを押して時間を確認した。
(八時か…… まだ二時間くらいあるな)
俺は部屋の電気を消すと、カーテンと窓を全開にした。するとそこからは、十七年前、毎日見ていた近所の家並みがよく見えた。
(こうして見ると思った以上に家が少ないんだな)
夜の闇に見えるかすかな風景。真っ暗にした部屋の中でそれを眺めていると、外からの風が少し火照った身体を冷まし眠気を誘ってくる。それに抗う気にさえなれない程心地良い。昨日からの非日常で疲れが一気に現れ、力が抜け気を失ったように眠りにおちた。
幾ばかりか時間が経った頃、机の上、顔の近くに置いていた携帯電話が鳴り俺は現世に引き戻される。
(あれ? いつのまに寝たんだろう)
意識が朦朧としながら鳴り続けている電話をとった。
「……もしもし……」
「もしもし。明美です」
「あっ、そうか。ごめん。ちょっと寝てた。ずいぶん鳴らした?」
どれくらいの間コールされていたがわからなかったので、とりあえず謝る。
「ううん、こっちこそごめんね、こんな遅い時間に……」
「いや、それはいいんだけど…… えっと……」
寝起きの頭で何の話をするのかを思い出そうと、あたふたする俺に明美の方から話を振ってきた。
「お昼、スーパーで勉くんの話したでしょ?」
「うん。といっても昨日会ったってだけだけどね」
そう答えると、明美は言葉に詰まったような沈黙を作った。「勉がどうかしたのか?」と尋ねると、一つ一つ言葉を選ぶようにして話だした。
「あのね。卓也くん ずっと実家離れてて勉くんの事知らないと思うから、その……耳に入れておきたいというか……」
「??」
明美は何を言っているのだろう。何か話にくそうなのは様子からみてとれるが、何を言いたいのかが全くわからない。
「明美ちゃん? 勉がどうかしたのか?」
「えっと、その…… 昨日、勉くんて卓也くんの家に来たって言ったじゃない? どうやってきたの?」
「どうやってって、交通手段のこと言っているの?」
「うん」
明美が何を言いたいのかますますわからなくなってきた。
「歩いてだよ。近所なんだし…… それに少し家の外で話して、その後自分ちの方に小走りで帰っていったよ」
「……」
また沈黙ができる。何なのだろう? 電話越しに明美の緊張が伝わってくる。今の話に緊張する要素はあったのだろうか? しかし思い出して見ると、今日の昼間、勉の名前を出した時も明美の顔色が変わった気がする。
「でもね…… は…… だよ……」
「えっ? なに?」
実家とはいえ、真っ暗な部屋の中でこんな妙な感じで話をするのは決して気持ちのいいものではない。しかし昨日からの昔の夢、突然の帰省。そして頭に何かが引っかかっているような違和感の手がかりが、明美の話にありそうで聞かずにはいられなかった。
「卓也くんの近所にある勉くんの家って、今誰も住んでないの。十年くらい前から……」
「えっ…… じゃあ、そこに車置いてきたとか……」
住んでいなくても、所有地ならば一時的に車を止めるくらいの事はありそうだ。
「それはそうかもしれないけど…… その……」
明美は何か言いたげな様子で、言葉を探しているのがわかる。
「は、二十歳の時、中学の同窓会があってね。その実行委員になっていた友達が同窓生に案内の葉書を出すことになったの」
「はぁ……」
(何故急に同窓会の話?)
「でね、その時はもう勉くんちは空き家になっていたから、中学で勉くんと仲が良かった人たちに連絡先を訊こうとしたんだけど誰も知らなかった……」
「えっ、同じ高校に行った奴とかいなかったのか?」
「うん。勉くん中学の時いろいろあってさ、きっと受験勉強どころじゃなかったのかもしれない。中学の卒業式の時はまだ高校決まってないって言ってたよ。噂ではYV高校という全寮制の高校に入ったって聞いたけど…… でも卒業してから誰も勉くんを見てないみたいなの」
「YV高校って聞いたことないな。県内にそんな高校有ったっけ?」
小学校卒業と同時にこの地を離れているので、このあたりの高校を把握しているわけではないが、この付近にそのような高校が無かったことは何となくわかる。そもそもそんな変わった名前の学校なら記憶にも残っているだろう。
「私たちが中三の時に開校したから知らないのも無理ないよ」
「その学校って難しいの?」
「難しくはない……というか、偏差値的にはかなり低いよ。多分この辺りでは一番下かもしれない」
勉は小学校での成績はそれほど悪くなかったと記憶している。そのままなら普通レベルの高校には入りそうな感じなのだが、何故勉はそんな学校に入ったのだろう。明美がいうように中学であった『いろいろ』が起因しているのだろうか? それに中学出てから誰も見てないってどういうことだろう?
「勉くん ずっと行方知れずだったのに、卓也くんが帰ってきたとたんに現れたのってどういう事なのかな?」
「そんな事……」
(俺がわかるはずがない)
それにしても明美の言うことが事実だとすると、確かにおかしい。俺が今回帰ることになったのは親父が死んだからでたまたまだ。そこにたまたま勉が帰ってくるってどんなたまたまだよ? 勉は帰るまでに連絡をよこせと言っていた。俺に電話番号もメールの連絡先も残しているのに、何故他の人は連絡がとれなかったんだ?
それともう一つ気になっていることがある。
「ねぇ、明美ちゃん。このことは一旦おいておいてさ、一つ気になっている事あるんだけど……」
「ん、何?」
「明美ちゃんがさっき言ってた、勉にあったいろいろって何なの?」
高校受験といえば普通 中学最大のイベントだ。それを無視してしまうほどの出来事とは何だろう。俺は窓の外を眺めながら考えていた。少し風も強くなり、庭木も大きく揺れて枝葉がすれ合う音が少し邪魔になってきた。肌寒くもなって電話を片手に持ちながら窓を閉めようと窓枠に手をかけた。その時、勉の家の窓に小さな灯りが見えた。
「ん? 明美ちゃん! 勉の家って本当に空き家なんだよね?」
「うんそうだよ。私がそっちにいる時には空き家になってたから…… もう十年は経つよ」
(じゃあ、あの灯りは?)
俺は勉の家の窓に見える灯りを観察し続けた。街灯が窓に写っている……わけでもなさそうだ。しかも少し動いているように見える。
「今、うちの二階にいるんだけど、ここから勉の家が見えるんだよ」
「うん」
「でさ、その勉の家の窓に灯りが見えるんだけど何だと思う?」
「えっ!? 何か窓に写ってるだけじゃないの?」
明美も同じことを考えたようだが、この灯りはそういう類いのものではない。そのまま明美に状況を説明しながら俺の目は勉の家の灯りに釘付けになっていた。そしてその灯りが大きく揺らいだとたん窓の中の壁に人影ができたのを確認した。
「あっ!!」
俺が突然大声をあげた事で、電話の向こうでも明美がビックリした様な声を上げた。
「卓也くん、どうしたの?」
明美は焦ったように聞き返すが、それに答える余裕も無い。
「ごめん。あとでかけなおす。切るね!」
俺は一方的に電話をきると、階段を転げるように駆け下りた。その様子に兄貴は茶の間から何かを叫んでいるが、その声を無視して玄関にあったサンダルをひっかけるように履いて外に飛び出し勉の家を目指した。勉の家はうちから百メートルほどしか離れていないのに、サンダルだとやけに遠く感じる。
(なんだ今のは? 勉か?)
勉の家へ駆けながら目は部屋で見た窓から離さない。そこには未だ灯りがあるのが見える。あと三十メートルで勉の家に着こうかというとき窓見えていた灯りは消えた。
「くそっ!」
程なく勉の家の前に到着し、肩で息をしながら道路で棒立ちになっていた。少し息が整うと俺は廃屋となっているはずの玄関に向かって一歩踏み出す。すると家の方から微かな刺激臭が漂ってきた。
(なんだ? この臭いは…… ガス……ではないな)
そしてもう一歩踏み出したとき、建物の二階から爆音とともに窓ガラスが吹き飛ぶのが目に入る。呆気に取られる間も無く爆風とガラス片が俺を襲い、その風圧に何メートルか後ろへと飛ばされた。何秒か、何分か俺は気を失っていたが、建物が燃える熱気と時折起こる小さな破裂音が俺の意識を呼びさました。顔を上げると木造二階建ての家は大きな炎を上げて、さっきまで真っ暗だった空はオレンジに染められていた。
(何なんだよこれ。テレビドラマじゃあるまいし、普通の民家が爆発とかありえねぇだろ)
そういうテレビドラマででも、そんなシーンはスケバン刑事くらいでしか見たことがなかった。そして俺は握っていたはずの携帯電話が手の中にない事に気がつくと辺りを見回し探し始めた。それは数メートル前の、さっき立っていたあたりに転がっていた。倒れている場所から前は熱気で近づくこともままならない。それでも熱さに耐えながら手を伸ばし、何とか拾い上げるとすぐに一一九番に電話をかけた。そうこうしているうちに近所から野次馬が集まってくる。また村の消防塔の鐘も鳴り出し、現場は騒然となっている。それから十分が経過した頃 最初の消防車が到着し、その数分後に続けざまに二台が到着して消火にあたった。その時にはすでに外壁は燃え落ち、炎の中には柱と家具などの家財道具の影が見えるくらいしかなかったが、火は一向に弱まる気配がない。
(灯油か? それともガソリン?)
そう思わせるような油が燃えたような匂いがあたりを包み、黒い煙が上がっている。
暫くの間、地元の消防団や消防車の放水を続けたが、それでも火は弱まる気配がない。そしてニ時間が経過した頃、ようやく火は消え、消化にあたっていた消防士や警察にその時の状況を聞かれた。
「家の二階から外を見ながら電話をしていたら、廃屋のはずの家から灯りが見えたので、気になって見にきたところで爆発に巻き込まれた」
俺は窓に見えた人影には触れずに説明する。警察からは俺の家や電話していた相手のことを聞かれた。その後実家にいた母や兄も質問を受け、明美にも電話をかけられた。それらの証言と通話履歴から俺が疑いを受けることはなかった。何処から聞いたのか第一発見者として新聞記者やテレビの取材も受けることになったが、俺の顔など個人が割れるような情報を載せない事を約束させようやく家に戻ってくることができた。
玄関の前で携帯電話を見てみると明美からの着信が六件も入っていた。明美も状況を知りたいところだろうが、しかしまず俺がしなければならないのは勉への電話だ。あの人影が勉では無い事を祈りつつ、昨日聞いた番号に電話をかけてみた。
「お掛けになった番号は電波の……」
メッセージを聞き終えないうちに電話を切った。
今度はメールにメッセージを入れた。
「勉の昔の家が燃えている。早急な連絡を求む」
送信後、しばらく勉とのメールの画面を眺めていたが、やはり既読メッセージは届かない。次にすべきことは明美への説明だ。しかし携帯で時刻を確認すると二時を過ぎていた。この時間に女性に電話をするのは非常識なことは重々承知だが、明美も聞きたいことは山ほどあるだろう。俺は着信履歴の画面から明美の名前を選び発信ボタンを押した。二回目のコールをしたところで電話から明美の慌てた声がきこえてきた。
「卓也くん、どういう事? 何があったの? 警察からは電話かかってくるし、聞いても教えてくれないし!」
「ちょっとまって。最初から話すから……」
俺はこれまでの一連の出来事を明美に話した。一通りの説明を聞いた明美は、少し落ち着きを取り戻し、明日(日付的には今日)の九時に会う約束をして電話をきった。
家に入ると母と兄貴からも質問攻めにされるが、自分でも状況を掴めていないだけに、警察に言ったそのままを二人に話した。二人とも納得しているようには見えなかったが、これ以上俺に問いただしても何も聞けないと踏んだのだろうか、それ以上何も聞いてこなかった。俺はそのままこの場を離れることにした。その後ガラスと煙塗れの体をシャワーで流した。そこかしこに切り傷と擦り傷ができていたが、気持ちが昂っているためか痛みも感じない。
浴室からでると再び勉に送ったメッセージを確認する。やはり既読メールは来ていない。この落ち着かない気持ちのまま母や兄たちと茶の間で寝る気にはなれず、自室に布団を敷いて一人で眠ることにした。そしてこの一日の出来事を思い返していた。
確かにあの時、勉の家には誰かがいた。廃屋なだけに不良たちの溜まり場になっていたとも考えられるが、こんな田舎ではその可能性はかなり低いだろう。可能性から言えば勉なのだが、明美の話では十年以上前から誰も住んでいないという。電気も水道も使えないところに泊まるだろうか? 仮に何らかの事情でこっちに宿泊しなければねらないにしても、車中泊した方がよっぽどマシに思える。俺はあらゆる方向から今回の件を考察したが、あの影が勉であるという可能性以外を見出すことはできなかった。
(だめだ。何にも思いつかない。九時に明美が迎えにくるって言っていたし、もう寝よう)
布団を頭からかぶり目をとじる。するとあれ程興奮状態だったのに意外なほどスルリと意識が遠のき深い眠りへと落ちた。
平成十五年三月三十一日 月曜日
携帯の呼び出し音がけたたましくなっている。
(んー、誰だよ。まだ寝たばっかりじゃないか……)
そう思いながら画面を見ると既に八時半を過ぎていた。しかも電話の主は明美だった。俺は急いで電話にでると、道路を走っているようなノイズの中、明美の声が聞こえてきた。
「卓也くんおはよう。もしかして寝てた?」
「うん。でも大丈夫。起きた……」
「そう。今アパート出たから九時前には着けると思うよ」
明美も自分と同じくらいに寝たはずなのに、約束通りに迎えにくるなんて感心する。しかも世間は平日だ。おそらくは明美の旦那や子供を送り出してからきたのだろう。そんなことを考えながら、自分のことで精一杯になっている自分を省みる。一応の身支度をすると階段をおりて、茶の間へはいった。今夜の納棺のためか兄と母は段取りや持ち物などを確認していた。
「おはよう」
「ちょっと卓也、昨日のはどういう事なんだ? ちゃんと説明しろ!」
兄貴は状況がわからないイライラをぶつけるように聞いてきた。母も心配そうにこちらを見ている。
「お前が外に慌てて出てったべ。その後すぐ爆発したがらよ。何あっけなや?」
(めんどくさい……)
そう思いながらも後々面倒をかけかねないと思い、勉の家の窓に人影を見たこと、家の前に行った途端爆発したことなどを話した。
兄貴は何か複雑そうな顔をしている。
「新聞見てみろ。すごいことになっているぞ」
テーブルの上には今朝の新聞が置いてあった。そしてその県内版には昨日の火事の写真がデカデカと載せてあり、このようなタイトルが付いていた。
『真夜中の火事 焼け跡から男女二人の遺体』
「遺体!?」
やはり窓にみえた人影は見間違いではなかったようだ。そして俺はその記事の本文を読み進める。
焼け跡から出てきたのは男女二人の遺体だが、損傷が激しく身元はおろか年齢もわからない。
またこの火事はガソリンによるものであり、自殺と事件の両面から捜査しているとのことだった。
あの炎じゃ損傷がひどいのも当然だ。おそらくは炭化一歩手前といった感じではなかろうか。
もし仮にこの遺体の一つが勉だったとするならば、もう一つの女性の遺体は誰なのだろう。それと勉は俺に帰るまでに電話する様に言った。そう考えると自殺は考えにくく、事故か他殺ということになる。家の中に真夜中ガソリンを撒いてる状況ってどう見ても普通じゃない。やはり他殺…… 事件なのだろう。
新聞記事からだけでは分からない事が多すぎて、想像が大部分になってしまい、何一つ確証が持てない。かと言って現場をシロウトの俺が見て何かわかるとも思えない。
そんな時、玄関の呼び鈴がなった。
母はその場を離れ玄関の方へよろよろと歩いていった。
「卓也ー 明美ちゃんだよ」
そう呼ぶ母の声が聞こえてきた。
俺は茶の間にかけられた時計を見るとちょうど九時をさしていた。その声を聞いて玄関に行ってみると、母と明美が何やら話している。明美とは子供会が一緒で昔はお互いの家を行き来していたので、久しぶりに会って挨拶でもしているのだろう。
「おはよう」
俺が明美に挨拶をすると、母はそそくさとその場から退散し茶の間へとはいっていった。
「明美ちゃん、今日は大丈夫だった? 仕事とか……」
「うん、さっき会社に電話して『友達の家で不幸があったから』って言って休みもらったから。……で、何処で話そう?」
明美がそういう理由で休んだのなら、人が集まるようなところへ行くわけにも行くまい。会社の人などに目撃されたら後々面倒だ。
「じゃあさ、よかったらうちの二階とかどう?」
人妻を一人で自室に迎え入れることに抵抗を持ち聞いてみたが、明美は意外にもあっさりと承諾した。明美がここに最後に来たのは小学二、三年生のころだ。明美は家に上がると、自室に繋がる階段をキョロキョロしながら上っていく。
「お邪魔しまーす」
そう言って部屋に入ると、そこでも室内を見回していた。
「へぇ、男の子の部屋ってこういうのなんだ」
そういう明美に思わず突っ込んでしまう。
「いやいや、旦那さんの部屋とか行ったでしょ」
「男の子じゃないじゃん」
俺たちは顔を見合わせて笑っていたが、急に明美は窓に目を向けると、そこから勉の家の方を眺めた。
「今ここ来る時、勉くんちの前通ってきたんだけどね、黄色いテープ貼られて 警察の人が現場検証していたよ」
窓の方に目を向けると、勉の家の焼け跡で制服姿の警察官がたくさん動き回っているのが見える。
「明美ちゃんさ、今朝の新聞見た?」
「ううん。うち新聞とってないから」
そういうので、俺は茶の間から持ってきていた新聞を明美の前に差し出した。
「これ見て」
明美は大きく目を見開いて、新聞の見出しに釘付けになっている。
「うそ…… だからあんなに警察いたんだ」
そういうと、新聞を手に取って記事を読み始める。一字一句丁寧に読み進めているためか、二、三分かけてようやく読み終わった。
「コレって、やっぱり勉くんなのかな?」
「……わからない」
「……」
明美は再び新聞に目を戻す。
そんな時、ドアをノックする音が聞こえた。
「はい!」
そういうと兄貴は茶菓子とコーヒーを持って入ってきた。
「明美さんだっけ? 卓也がお世話になってます」
「あっ、はじめまして。山口明美です」
明美は丁寧に挨拶をする。
「さっき明美さんがくる前、卓也とこの話してたんだけどさ、少し話に混ぜてもらっていいかな?」
「はい。大丈夫です」
明美はまたも丁寧にこたえた。
兄貴は今回の件で警察に事情を聞かれたことから、自分たちが話そうとしていることに興味を持っているようだった。まぁ、聞かれて困るような話でもないし、後々兄貴に細かく聞かれるよりはこの場で聞いてもらった方が手間が省けると思い俺も了承した。
「この新聞に2遺体とかいてあるけど、仮に一つが勉だとして、もう一つの女性って心当たりある?」
明美はちょっと考えているような仕草で、チラリと新聞に目をむけると、少し大きいため息をついてコーヒーカップを口にする。昔を思い返すかのように語り出した。
「あるといえば……あるかな。
ねぇ、卓也くん。昨日、中学のとき勉くんに何があったって聞いたじゃない」
「ああ。高校受験が手につかなくなる程の事って何だろうと思っていたんだ」
「勉くんね。中学に入って数カ月経った頃から田嶋さんと付き合い始めたのね」
「たじま? 誰?」
この苗字を聞いて俺は全く誰なのかわからない。そんな疑問符が浮かんでいる俺を明美は不思議がるように、ハッキリと俺に名前をいう。
「田嶋晶子さん。小学五年生のころ勉くんちの近くに引っ越してきたコいたじゃない。忘れたの? 通学班 卓也くんと一緒だったでしょ!?」
俺は数日前に見た夢の女の子を思い出した。
「田嶋晶子…… そんな名前だっけ?」
俺は名前を聞いても全く思い出せていない。
「そういえばその田嶋さんて妹いた?」
「うん、いたよ。名前は……陽子ちゃんだっけ?」
やはり全然ピンとこない。俺は数日前に通学班で学校に向かっている夢をみたこと。この転校生の顔も名前も思い出せなくていたことを二人に話した。いくら二年弱しか同級生をしなかったとはいえこんなにも覚えていないことが自分でも不思議でならない。そんなにも自分の頭はポンコツなのだろうか?
この話を聞いた時、兄貴は何かを思い出したかのような、変な表情を浮かべていた。
「でもさ、その田嶋さんってあんまりクラスにいた記憶ないんだよな。修学旅行や卒業式の時っていた?」
「ううん、彼女ね、六年生の夏過ぎくらいから学校来なくなったからね。でもさ、卓也くんと晶子さんが学校で話しているのって何度か見かけたことあるよ。卓也くんが他の女子と話しているのは殆ど見かけてないのに…… 晶子さんと仲がいいと思ってた」
明美のいうように、小学生の頃はあまり女子と話した覚えが無い。でも自分が全く覚えていない事を明美が覚えているってどんな記憶力なんだろう。
「まぁ、いいや。で? 勉が田嶋さんと付き合い出してどうしたの?」
「その前に田嶋さんて何処に住んでいたか覚えてる?」
「ああ、それは覚えているよ。勉の家の数軒隣の花壇になっているところでしょ」
明美は俺が覚えていたことにホッとしながら言葉をつづけた。
「じゃあ、田嶋さんちってどんなだったか覚えている?」
「どんなって……」
「田嶋さんのうちはね、ある宗教を広めるために埼玉からやってきたの」
それを聞いた兄貴は急に顔を上げて思い出したかのように身を乗り出してきた。
「思い出した。YV研究所っていう新興宗教の施設だ。大学の頃学内での勧誘が問題になったことがある。ここの近くにできた施設と同じだったからよく覚えてるよ」
「YV研究所? どっかで聞いたような……」
俺が思い出そうとしているそばで、明美が先に答えを口にした。
「勉くんの入ったって噂されてる高校の名前だよ」
それに続けて兄貴が捕捉する。
「そこはYVが運営する学校だよ。YV研究所の二世、三世の信者が通っているらしい。YVは進学や就職は活動の妨げになるからって否定的らしいけど、その学校だけは推奨されているらしいよ」
よく話がみえない。田嶋さんがその宗教の信者だというのはわかったが、何故勉がそこに行く必要があるのだろう。
「でね……」
明美は「そこが本題では無い」というように、強引に話を戻した。
「お兄さんが言うように、その宗教って結構強引な勧誘で、この辺りでも信者を増やしていったの。そんなやり方が仇となって村でも悪い評判ばかりで、学校で田嶋さん姉妹はいじめというか無視されるようになったの。そんな事を知ってか知らずか卓也くんと勉くんは田嶋さんとよく話していたのを覚えてるわ」
「その当人は全く覚えてないんすけど……」
「……で、さっき話したように六年生の夏頃から田嶋姉妹は学校に来なくなった。結局小学校の間は来なかったわね。でも中学一年生の六月頃、急に学校に戻ってきたの。戻ってからもいじめにあいそうになったんだけど、勉くんのかばい立てでなんとかそうはならなくて、間も無くして勉くんと付き合い出したの」
まぁ、勉は周りに流されてイジメる側に立つような性格ではないけど、それでそいつと付き合うって…… その子のどんなところに惹かれたのだろうか? 自分が記憶している勉からはそれを想像することができない。それにしても中一で彼女ができて、順風満帆な感じなのに何があったのだろう? まさか勉に限って彼女に夢中になって全く勉強しなかったという事もあるまいに……
俺はこのあとの話の展開が想像できず、明美の話に耳を傾けた。
「田嶋さんは勉くんと一緒にいる時はとても楽しそうだったわ。でも三年生の夏前 突然彼女がいなくなったの」
「いなくなったって……? また学校に来なくなったってこと?」
「ううん、言葉通りいなくなったのよ。つまり失踪……なのかしら……」
「田嶋の妹や親は?」
「多分そこにあった施設にいたと思う」
明美は窓の方を指差してそう答える。
しかし中学生が失踪ってどうなのだろう。一人で姿を消したところで、女子中学生が一人で生きていくのは難しいだろう。そう考えると事件に巻き込まれたか、誘拐されたか、自殺したと考えるのが自然だ。
「でも確か捜索願いは出されていなかったような覚えがあるけど…… ごめん、よく覚えてない」
明美はそう続けた。子供が行方不明になって、捜索願いも出さないって不自然すぎる。実は親は何か知っていたのではないだろうか?
「YVってさ、信者の監禁や暴行で何度も摘発されているんだよ。明美さんのいうように、子供が行方不明になって何もしないって、十中八九 親も関わっているよな」
そう兄貴が言うと、明美もそれにうなづいた。
「勉くんもね、そう思ったんじゃないかな。彼女が失踪してからは勉くん学校に殆ど来なくなったの。YVのこと調べてるんじゃないかって噂もあったけど何をしてたのかはわからない」
もしそうであれば、田嶋の親に問いただしたところで何も教えてはくれないだろう。俺が勉の立場なら 接触すべきは妹の方か……
「ん? ……と言うことはさ、明美ちゃんはもう一方の遺体は田嶋晶子だっていいたいの?」
「ちょっと考えにくい感じはするけどさ、勉くんと結びつく女性といったら、思いつくのはそれぐらいかなって……」
確かに明美の話を聞いただけなら、そんな感じもしないでもない。しかし俺たちの知らない女性である可能性だって十分にある。仮に行方不明になっていた田嶋晶子が見つかって勉と一緒になったとするなら、こんな心中めいたことをする必要があるのだろうか。かえってYVの関係者から殺害されたとは考えられないだろうか? だとすればなぜ勉の家がその現場なのだろう?
そんな事を考えた時ふと新たな疑問が湧いていた。
「でもさ、そう考えると勉がYV高校に入ったっておかしくない? 真偽はおいてといて、勉がYVを探ってる噂が立つ様な状況で入学させるかな?」
「まぁ、噂って言っても中学校の中での話だからね。YV高校や研究所の耳に入ることはないんじゃない?」
明美のいう事ももっともな感じもする。
「あとさ、何故勉の家は誰も住んでないの?
俺がここいた頃は両親いたし、確か三、四歳上の兄貴もいたよ」
「そういやいたな。通学班一緒だった」
兄貴がそう言うところみると年齢は兄貴に近いのだろう。だがこれに関しては明美も兄貴も全く知らなかった。
「なぁ、この話なら母さん知らないのかな」
「確かに…… 近所の事だしね」
明美は納得した様にいった。俺はその場に明美と兄貴を残して、階段を降り茶の間へいってみた。
「ちょっと教えて欲しいんだけどよ~」
「なにや?」
相変わらずのんびりした口調でそう答える。
そこで勉の家族の事、ついでにいつのまにか無くなったYV研究所のことを聞いた。一通り聞き終えると再び階段を昇って二人が待つ部屋へもどる。
「聞いた事を忘れないうち」にと気持ちが逸り、全速で駆け上がってきて息がきれた。
「お前運動不足なんじゃね? 下と往復したぐらいでそんなにハァハァ言って……」
「兄貴ほどじゃねぇよ。これでも毎週空手道場通っているんだぜ」
「……の割に体力無いじゃねぇか」
明美はそんなやりとりを微笑みながら見ている。
「兄弟ってなんかいいね」
明美がそう呟いた。
「そうか? ……あれ? 明美ちゃん、弟いるよね?」
「いるけどさ、あまり話しないから……」
姉弟だとそうなのだろうか?
俺は階段を全力で駆け上った理由を思い出し、深呼吸して呼吸を整えると二人に説明をはじめた。
「まずさ、勉のお父さんはうちらが高校の時に脳梗塞で倒れて亡くなってるらしいよ。その少しあと勉の兄貴が結婚して婿に入ったんだって。今は市外に住んでるんじゃないかって。でも勉は葬式にも結婚式にもいなかったって母さん言ってたよ。その後あの家にはお母さんだけが住んでいたんだけど、若年性の認知症があらわれて六十歳もならないうちに施設に入ったらしい」
兄貴は腕を組んで考えていたようだったが、ポツポツと話だした。
「葬式にも結婚式にも来てないってことはさ、多分家族の人も勉くんと連絡取れないんじゃないか? 居場所が分からないか、勘当しているか……」
「うーん、もしそうなら卓也くんの言う様にYV高校には入ってないかも知れないね。勉くんに連絡取れない状態で学費納めたり仕送りしたりって無理でしょ。それにYVは私立だし高校生が自分で払うって難しいと思う」
私立に加えて宗教関係なら馬鹿高い寄付金とかもありそうだ。
しかし兄貴の言う通りだとすれば、勉は家の状況を把握しているとは思えない。戻ってきたら家はもぬけの殻…… 家族がどこへ行ったのかわからない状況でどんな行動をとったのだろう。
そして俺は母に聞いたもう一つの情報を伝えた。
「それとYVの施設なんだけど、街の方に移設したらしい。いつなのかは覚えていないって……」
「あの建物、俺が高校の頃できたんだよな。そんな古くないだろ? 信者が増えて入り切らなくなったのか?」
その可能性が高いだろう。明美もこの施設がいつなくなったのかは覚えてないらしい。
三人の話は次第に言葉数もへり、沈黙の時間も長くなってきた。
一応これまでの状況と勉の事はある程度整理できたものの、この三人でこれ以上話し合ったところで進展があるとは思えない。とりあえずここで話し合いは打ち切ることにした。
ふと時計を見るとすでに正午を過ぎている。
「もうこんな時間か、お昼どうしよっか?」
俺がそう言うと、兄貴は焦った様に立ち上がった。
「ヤバ! そろそろ俺、納棺の準備するわ。じゃあ、明美さん。ありがとう」
納棺でなんの準備がいるのかわからないが、あんなに焦った兄貴は珍しい。その場に残された俺たちは食べに行くのも面倒いと言う事で、近くの蕎麦屋から出前をとることにした。さっきまでの緊張した空気は緩み、すでに冷たくなったコーヒーを明美は口にした。
「あっ、明美ちゃん。コーヒー熱いの入れるよ」
「ありがとう」
そう言いながら、カップに残ったのを飲み干し、「ふぅっ」と大きなため息を漏らした。
「なんかさぁ、宗教って怖いよね。心の平穏や救いを求めて入ったはずなのに、ガチガチに縛られて、財産も搾り取られてさ」
「うん。何で勧誘されてホイホイ入っちゃうんだろうね」
俺は昔から宗教否定派だ。訳の分からないものを信仰する気持ちがわからない。
「卓也くんさ。このYVって宗教の事は知ってる?」
「いや、全然。キリスト教の一派だっけ?」
その答えを聞いて黙って首を振った。
「当たらずとも遠からず……じゃないな。ハズレじゃないけど当たりじゃないよって感じかな」
「なんだよそれ。同じ事じゃない?」
俺は明美のコーヒーカップをソーサー事手前にひくと、インスタントコーヒーの粉を瓶から直に振りかけポットからお湯を注いだ。
「なんか、凄い入れ方ね。卓也くんらしいといえばらしいけど……」
こんないつもの調子でいれたコーヒーを再び明美の前にだした。その熱い雑なコーヒーを口にすると、チョコを摘んで口に放り込んだ。
「あっ、苦かった?」
「ううん。大丈夫だよ」
明美は口の中のチョコがなくなると、俺への講義が始まった。
「卓也くん、キリスト教ってどういう宗教かわかるよね」
「ああ。イエスキリストを信じる宗教だよな」
「うーん、三十点!」
おおよそ当たりだと思えるが、この答えでは半分ももらえないらしい。
「正確にはナザレのイエスをキリストと信じる宗教だよ。キリストっていうのは個人の名前じゃなくて『救世主』……メシアって意味なの。
キリスト教ってもとはユダヤ教から派生したカルト教だったのが、世界中に広まって伝統宗教として定着したんだよね。だからキリストの経典はユダヤ教の経典 旧約聖書とイエスの弟子が書いた新約聖書となっているわけ。この新約聖書の他にも福音書や黙示録、手紙などもあってそれを含めて聖書として扱う宗派もあれば、そうは扱わない宗派もあるんだよ。キリスト教は最初カトリックを軸とした宗派だけだったんだけど、十七世紀にドイツで宗教改革が起こって『抗議する者』という意味のプロテスタントや正教会という宗派ができたんだよ」
「へーっ。……てか何でそんなに詳しんだよ」
明美は少し得意げな表情で、胸をはった。
「私 高校は琴羽学院だからね。聖書の授業もあったんだよ。私はクリスチャンじゃないけどさ」
(……ということは圭子もそうなのか)
そして明美の授業は続く。
「まぁ、それは前置きなんだけどね。で、そのYV研究所はキリスト教からの派生なんだけど、イエスをキリストとは認めていないの。イエスはミカエルと同じく天使って扱いで、YVでの神様は姿かたちを持たないYHVHだけ。キリスト教の三位一体論 父なる神 ヤハウェと子なる神 イエスと聖霊とはなっていない……と思った。この辺自信無いけど…… YVも 旧約聖書も新約聖書も経典としているけど、独自解釈が凄いというか、曲解しているというか、捏造ともいえる教えになっているんだよ」
そこまで説明をすると、明美はコーヒーを一口飲んで、またもチョコを一つ摘んだ。
「うーん、でも何でそんな色んな解釈ができるような経典にしたんだろうね。そういう意味ではノストラダムスもそうか……」
「まぁね。でもキリスト教に限らず仏教だってイスラム教だって、経典を色んな解釈をして、その解釈ごとに宗派ができて、みんな『我こそが正しい』と思っているのよね」
「……」
何だかなぁ~ 開祖は一人なのに、その弟子の受け取り方一つで色んな方向に行ってしまうって…… 今、イエスが復活したら「そうじゃねえだろ!」とか言って後ろから蹴りいれたりするのだろうか?
そんな事を考えていたら、一瞬吹き出しそうになる。
「卓也くん? 今のとこに何かおもしろい話あった?」
「ん? いや、続けて」
どうも顔に出てしまっていたようだ。
「これも前振りといえば前振り何だけど…… ここからが本題。
YV研究所ではね、ヨハネの黙示録にあるハルマゲドンによってこの世は滅ぶと言っているの。それでYVの信者だけが、その後に楽園に行って永遠に生きると信じられているんだよ。でもその為には良い行いをしなきゃいけない。それというのが信者の勧誘なんだよ。だからあんなにも勧誘活動を頑張っている。日曜日に子供と一緒にお家にパンフレットをもってきて勧誘されたことない?」
「そういえばあるな……」
思い返すと埼玉のアパートでも何度かそんな訪問を受けたことがある。
「……そう。そしてYV信者には沢山の禁止事項があってこれが二世、三世信者を苦しめているの。異教の禁止、偶像崇拝禁止、異教のイベント事…… つまりはクリスマス、節分、ひなまつり、ハロウィン、誕生日も全部ダメ」
「えっ? 誕生日もダメなの? 誕生日って宗教行事?」
そういうと明美はちょっと上を見るようにして、考える仕草を見せた。
「うーん、どうだろ? でも昔日本では年が変わった時に一斉に歳をとる数え年だったよね。誕生日って最近お祝いする様になったんじゃないかな」
「ふーん……」
よくわからないが、そういう決まりがあるということか。
「あと鳥居をくぐったり、国歌や校歌を歌うのも禁止ね。だからYV信者の子はその時座っていなきゃいけないらしいよ。そういうのもあってイジメに発展したりするんだろうね」
「……」
「それと……」
「まだあるの?」
いい加減うんざりする。
そんな制限だらけで学校生活などできるのだろうか? 田嶋はそんな生活をしていたかと思うと胸が締め付けられる気持ちになる。
「うん。婚前交渉の禁止、マスターベーション禁止…… どお? 卓也くん耐えられる?」
「……」
明美は俺の顔を悪戯っぽく覗き込む。
それはどっちを想定して言っているのだろう?
それにしてもよく臆面も無くそんな事を口にできるものだ。聞いているこっちがドキドキしてしまう。結婚すると、日常的な事としてなんとも思わなくなるのだろうか?
「そしてね」
明美は話を続けた。
「子供への体罰を推奨しているの」
「えっ!?」
その言葉を耳にして手に寒気を感じた。腕をみると毛が逆立ち、鳥肌が立っているのがわかる。
この時代学校で体罰なんてしようものならPTAで問題になるばかりかネットで吊し上げを喰らってしまうだろう。しかも推奨って……
「体罰ってどういう……」
「お尻をムチや棒で叩いたりとか……」
「中世じゃあるまいし、いったいどういう宗教なんだ?」
ここまで聞いていると明美は何故こんなにもYVのことを知っているのだろうと思えてくる? ちょっと怖い気もしたが、思い切って聞いてみる事にした。
「ねぇ、明美ちゃん。キリスト教のことは学校で習うにしても、何でYVのことそんなに詳しいの?」
「……。ここだけの話だけど、中学の頃 田嶋さんの他にもYV信者の子いたんだよ。彼女、田嶋さんを見ていたから、校歌も国歌も歌っていたし、他の人に知られないように振る舞っていたから卒業まで知られることはなかったけどね」
他の人が知らないそんな事を知っている明美は、その人とかなり親しいか明美自身かも?
そんなことが頭をよぎったが興味本位で聞いて良いことでは無いような気がして言葉を飲み込んだ。そんなとき呼び鈴の音が聞こえたかとおもうと、少しして下から「出前来たよ」と呼ぶ声がした。俺は下に降りて蕎麦屋にお金を払うと、二人分の盛り蕎麦をもって自室へと戻ってきた。
「そういえば今夜入棺なんでしょ。明日はお葬式? こんなことしてて大丈夫なの?」
明美は畳の上で座り直しくつろぎ体制で話しかけてきた。
「ああ、大丈夫だよ。もう少ししたら親戚とか兄貴の奥さんとかもくるんじゃないかな」
そう言いながら明美の前のコーヒーカップを片付けて、代わりに持ってきた盛り蕎麦を置いた。
「そうなの。じゃあ、私これ食べたら帰るね。
卓也くんていつまでこっちいるの?」
明美は割り箸を手に取り、ツユに薬味をいれている。
「明日、葬式終わったらかえるつもりだけど……
こっちの方は兄貴がやってくれるみたいだからさ」
「そう…… じゃあ卓也くんと会えるのも今日だけか……」
何となく寂しそうな表情で蕎麦をいじっている。俺は丼から蕎麦をすくいツユにつけて食べる。対面では明美も同じように食べはじめた。
「おいし」
ボソッと呟く明美に何の反応もせずに食べ進める。二人とも十分程で食べ終え、明美は帰る為の身支度を始めた。明美とは昨日再会したばかりだというのに、ずいぶんと長い間一緒にいたような錯覚を覚えた。
「じゃあ、帰るね」
そう言う明美を外まで見送りに出る。勉の家の方をみるとロープは張ってあるもののさっきまでいた警察官は見当たらなくなっていた。明美は車に乗り込むと、運転席側の窓を開けた。
「なんか長々とごめんね」
「ううん。でも田嶋のことも聞けてよかったよ。この前から思い出せなくて気になっていたから……」
「そう言ってもらえると来たかいあるけど。また何かわかったら連絡するね。お蕎麦ご馳走様!」
明美は窓から手を出して振りながら走りだし、その姿が見えなくなると家の中へと入った。
その後、圭子や亜由美さん達、数人の親戚がやってきて納棺はつつがなく終わった。
平成十五年四月一日 火曜日
この日は火葬、告別式と何事もなく進行した。その後おときと呼ばれる食事会と、夕方からは近所の人が集まって数珠廻しがあるとのことだったが、亜由美さんと悠人は今日中に埼玉に帰らなければならないと言うので、俺はそれに便乗して車に乗せてもらう事にした。おときの為に台所ではパタパタと動きまわっているおばさん達に混じって、圭子も仕事をしていたので捕まえて簡単に挨拶をしておく事にした。
「たくちゃん。明美ちゃんから聞いたよ。大変だったみたいね」
「まぁね。火事のことわからない事だらけでスッキリしないけど……」
実際この事件のことはほとんどわかっていない。火事の原因も、二つの遺体についても。自殺が他殺かも……
しかしながらここに残っていたとしても、警察が教えてくれるはずはないし、調べるにも関係者と思える人物とは誰一人とも連絡が取れないのだ。そして後ろ髪を惹かれながらも帰る事を決めたのだった。
「でもまあ、仕方ないよ。一応明美ちゃんは何かわかったら連絡くれるって言ってたし。それに明美ちゃんや圭子と久しぶりに会えたし帰ってきてよかったよ」
「うん。連絡先交換したからいつでも話せるしね」
仕事中長々と引き留めても悪いので、そんなふうに簡単に挨拶を済ませると、自室に戻って帰る為の準備を始めた。普段ネクタイなどめったにしないので今着ている礼服は窮屈でならない。俺は黒のネクタイを真っ先に外すと、礼服、ワイシャツを脱いで昨日の昼過ぎまできていた服に着替えた。汗かくようなこともしてないし、家からも殆ど出ていないのでこれで大丈夫だろう。着替え終わると、ついさっき脱いだ線香くさい礼服を袋付きのハンガーにかけ二つ折りにする。
(忘れ物はないかな?)
あたりを見廻し、忘れ物がない事を確認すると、学習机の脇にかけられたランドセルが目に入った。
(懐かしいな)
俺はランドセルを手に取って机の上にのせた。
「重っ!! 中身入っているやん」
机の上で、ランドセルを開けてみると教科書やノート、学校からのお便りなどがでてきた。どうやら卒業式前日あたりに帰ってきた時のまんまと思われる。カバンから出したノートをめくってみると子供っぽい文字で、丁寧とは決していえない感じで書かれていた。
これを見てもやはり自分の文字という感じはせず、懐かしいとは感じない。俺はカバンから出したものを元どおりに戻した。そしてランドセルの蓋を閉めようとした時、一番外側のチャックのついた部分に目が止まった。
(確かここは集金袋とか大事なものを入れる時くらいしか使わなかったな)
俺は何も入っているはずは無いと思いながらも、何となく開けてみた。チャックを開いて開けてみると、何やら小さな白い便箋がはいっていた。
(手紙?)
取り出してみると便箋の表には丁寧な字で『有馬卓也君へ』と書いてある。裏表を確認するが開けられた形跡がない。便箋には差出人の名前も書かれていない。でもこの字の感じからして女の子であることは間違いない。こんな字をかく小学生男子がいるのなら、書いている姿を見てみたいものだ。それにしてもこれって、いわゆる『ラブレター』ってやつではなかろうか? いつもらったのだろう? いや女の子からこんな手紙を手渡しされたら何を差し置いても読むだろう。そうなると、学校で入れられたとしか考えられない。まぁ、何にせよ当時この手紙に気づかなかった自分を殴りたい。
俺は封を切ろうと、室内でハサミやカッターを探そうとした時、下から亜由美さんの呼ぶ声が聞こえてきた。どうやらもう出発するらしい。俺は開けようとしていた手紙を持ってきた旅行バックにしまうと、机の上のランドセルを元の通り机脇に引っ掛けた。
階段を降りると、亜由美さんと悠人は玄関のところで母と話しながら俺を待っていた。悠人は俺を見つけ「一緒に帰ろう」と足にしがみ付いてきた。
母は車のところまで見送りにでた。
亜由美さん達は母に挨拶をすると車に乗り窓をあける。
「おばあちゃーん。まったくるからねー」
悠人は窓から手を振ってそう叫ぶと、母はにこやかに手を振り返し答えた。今はだいたい十四時。アパートへ着くのは二十二時頃になるだろう。
俺は車のリアシートに悠人と二人で乗っている。本革のシートにジュニアシートとはかなりアンバランスさを感じる。悠人は足を軽くバタつかせながら、俺に昨日行ったポケモンセンターの話をしている。しかし俺はポケモンのキャラはピカチューとピチューくらいしか知らないので、なんとも反応し難い。最初は勢い勇んで話しをしていた悠人も、しだいと言葉数が少なくなり、俺に寄りかかって寝息を立て始めた。それにつられるかのように俺もうとうととし始めた。
「卓也さん。悠人寝た?」
「うん。今寝たみたいです」
亜由美さんは兄貴と同じ歳なので自分より八つ年上だ。しかし単に年上というだけでは無い雰囲気を持っていて、ついかしこまってしまう。亜由美さんはそうとう頭が良く頭もキレる。だが同じように頭のキレる兄貴とはまた異質なものに思える。悠人の空手は間違いなく兄貴の勧めだろうが、通塾は亜由美さんがさせているのだろう。この両親にしてこれほどの英才教育をうければ、悠人は色んな意味でかなりのポテンシャルを持っていると思われる。
俺は悠人の寝顔を見ながらそんなことを考えていた。
「さっき太一さんに聞いたんですけど、一昨日大変だったそうね?」
「えっと…… まぁ、そうですね」
兄貴が亜由美さんにどのあたりまでの事を話しているのかわからないだけに、その返答に困った。
「あの…… 兄貴からは……」
「そうね。卓也さんのお友達のことと、その彼女の事。そしてYV教団のことかしら……」
亜由美さんは頭がいいというより察する能力が異常に高いような感じがする。今しがたのことも俺が何に対して返答を迷っていて、それに対しての回答を的確に返してきた。ちょっと怖さをも感じる。
それにしても亜由美さんのこの振り。何か言いたいことがあるのだろうか?
「YV教団、正確にはYV研究所といいますけど…… それについて卓也さんはどれくらい知っているのかしら?」
「いや、そんなには…… 今日兄貴や友達に聞いた事が全てというか。やけに決まり事の多い宗教だなって事ぐらいでしょうか……」
そういうと運転中の亜由美さんは真っ直ぐ前を見ながら、ちょっとため息をついたように見えた。
「卓也さん。今、日本ではたくさんの新興宗教とかカルト宗教と呼ばれているものがあるけど、YVってその中でも結構古い部類で十九世紀くらいにできたものなの」
「……て、ことは百年以上前からあるって事ですか。そんな前からこの世は滅びるとか言ってるってどうなんでしょうね」
「まぁ、そうですね。でもそれよりも教義そのものの不健全さが問題なんです」
「不健全さ?」
俺は亜由美さんがいう『不健全さ』の意味がどういう事かよくわからなかった。
「色んな宗教で悪い事をすれば地獄に落ちるとか、良い行いをすれは天国や極楽に行けるという話はあるでしょう。でもそれは生きているうちに良い行いをして徳を積みなさいという戒めなわけです。でもYVはYVの教えだけが唯一無二で、それに従った者だけが楽園に行けるという、一種の脅迫のようなものになってます。YVの信者は奉仕といって勧誘をする事が最も良いこととされているのですが、他のカルト教と違って無理な勧誘はしてこないのが特徴です」
「あれ? でも確か……」
俺は兄貴から大学での強引な勧誘が問題になったと聞いたのを思い出した。しかしYVだけが勧誘を行っている訳では無いだろうし、ほかの宗教と勘違いしているのかもしれない。そう思ってその疑問はスルーする事にした。
「ん、どうかしました?」
「あ、いえ……」
亜由美さんは話を続けた。
「YVは小児性愛者の温床だというのを聞いたことありますか?」
「小児性愛?」
「つまりは年端もいかない子供に性的な虐待をしているということです」
俺は昼に明美から聞いた事を思い出した。
「でも、YVって婚前交渉NGなんですよね。それどころか、その……マスターベーションもダメだって……」
「教義はそうです。でもそのような教義に反していることでも二人以上がそれを認めなければ罰せられることはないのです」
(そんな馬鹿な?)
人のいる前でレイプする奴なんてそうそういないだろう。
「YVは中で何が起こっているか、何をしているかわからない教団です。卓也さん、できればYVとは関わらないようにしてください。あなたがお強いのは知ってますが、得体の知れない部分が多い宗教ですので……」
そう話を終えると、亜由美さんは道沿いにあるコンビニへと入った。その時縁石の段差で車が大きく揺れたが、悠人は俺にもたれたまま目を開けない。
「卓也さん。夕食と飲み物買ってきますけど何がいいですか?」
先程の神妙な面持ちから一転して、いつもの調子で買うものを聞いてきた。ついさっきの雰囲気とあまりに違うので反応に戸惑いながら、ホットコーヒーと肉まん二つをお願いした。
それにしても明美といい、亜由美さんといいなぜこんなにもYVに詳しいのだろう。明美は二世信者の友達がいたようなこといっていたけど、それにしたってだ。それとも俺が無知なだけなのだろうか?
俺は上質の本革シートにもたれ目をつぶってそんなことを考えていると、いつのまにか俺の意識は夢の中へと移行していた。
俺は目の前にある自分の子供姿を眺めている。
どこかの部屋?
俺は二人の大人から床に抑えつけられていた。
(何だこれは? 今度は過去の夢じゃないのか?)
すると三十代くらいの女性が何やら瓶の様なものを持って部屋に入ってきた。するとその瓶を俺の顔の側におくと目を閉じ祈る様な仕草をし始めた。暫く子供の俺は抵抗しながら苦渋の顔を浮かべていたが、何分もしないうちに突然頭を床に落とした。その数人の大人達はカッターを持ち出し首のところを何か所か軽く切りつけた。
「なっ、何を!」
血が滲み出す傷口へ手慣れた様子で注射を打ち込む。すると俺の身体を持ち上げ部屋の外へと運び出そうとした。俺はその姿追いかけようとしたとき、またいつもの意識のフェイドアウトがおこり、またも現実への移行がおこったのだった。
「卓也さん。起きました?」
「ん、あ…… あっ、ごめんなさい。寝ちゃってました」
俺は夢で切りつけられた部分を触ってみる。勿論血など出ていない。執拗に首を触っている俺を亜由美さんはルームミラーでみている。
「どうかしましたか?」
「あっ、いや……」
そう言ってドア窓から外を覗くと、見慣れた町並みの中を走っているのがわかった。
「あと十五分くらいで着きますよ」
……となると、六時間ほど寝ていた事になる。隣を見ると悠人はまだ眠っている。俺は手の指を組んで小さくのびをした。
「肉まんとコーヒー、覚めちゃったので帰ったら温めて食べてくださいね」
そう言って、助手席の置かれたコンビニの袋に目を向けた。
程なくして車はアパートの前に到着した。俺は亜由美さんからコンビニの袋を受け取ると、寄りかかっていた悠人を逆側にたおして、小声でお礼を言って車を出た。そして亜由美さんを見送ると四日ぶりの自室へと入った。
部屋の電気を付けると、出かける前に飲んでいたコーヒーカップがそのままテーブルに置かれていた。当然のことではあるが、こんな時一人暮らしの身の上を少し寂しく感じる。
そして実家で干すつもりで持っていった濡れた洗濯物を三日間旅行バックに入れっぱなしにしていた事を思い出し、取り出すと蒸れて異臭を放つ物体になり変わっていた。
(あーあ…… 匂いとれるかな?)
そう思いながらバックの中の荷物を出していると、実家を出る前に見つけた封筒が床に落ちた。
(そういえばこれは誰からの手紙なんだろう?)
十七年以上の経年から封筒は黄ばみを帯び、そこに書かれた文字も少し色が抜けかかっている様に見える。俺はカッターで丁寧に封を開けると、中から手紙を取り出した。
四つ折りにされた手紙を開くとそこには丁寧な字で、書かれた数行の文章があった。
有馬卓也君へ
まずは酷い目にあわせてしまってごめんなさい。何のことか覚えていないのなら、その方がいいのですが、それでは卓也君が納得できないかと思います。
私は暫く学校には行けません。また学校に行けるようになったら、いつものように卓也君達とお話ができたら嬉しいです。
それじゃその時までお元気で。
昭和六十一年九月七日
田嶋 晶子
(田嶋晶子!?)
何故、田嶋からの手紙が? しかも手紙の内容が全く理解できない。酷い目に遭わさせた? 何のことだ? こんな手紙をくれるなんてやはり田嶋とはよく話をする仲だったのだろうか?
手紙の日付は十七年前。おそらくは明美が言っていた田嶋が学校に来なくなったのはこの後なのだろう。
(くそっ! 何で俺はこの時手紙に気が付けなかったんだ!)
俺は過去の自分に苛立ちを覚えた。
それと何故この辺りの記憶が全くないかが不思議でならない。俺自身に起こった酷いこと…… この時兄貴は大学生で家にはいないはずだ。……となると知っているとすれば母さんか。
部屋の時計を見ると二十三時になろうとしている。
(この時間じゃさすがに寝ているよな。それに明日は会社だし俺も寝ないと……)
俺はビニールに入った洗濯物を洗濯機にいれ、今着ているものも同じように放り込むと簡単にシャワーを浴びてからベッドの中へと潜り込んだ。しかしさっきの手紙の文面が頭から離れずなかなか寝付けない。明日まで休みを貰っておけばよかったと後悔しながら目をつぶっていた。
平成十五年四月二日 水曜日
顔に朝日が当たるのを感じ目が覚めた。いつの間に寝てしまったのか?
目覚まし時計は五時半を指している。
(あと三十分は眠れるかな)
そう思って目を閉じて、またも昨日読んだ手紙の事を考えていた。
(酷いことねぇ。酷いといえば昨日車で見た夢は嫌な感じだったな。アレが田嶋のいう酷いことだったとして、何故覚えていないのだ?
あーっ、マジあと二、三日休みとっておけばよかった)
そんな後悔をしていると、無情にも目覚まし時計は六時を指し控え目に設定したアラームが鳴り出した。俺はのたりとベッドから這い出ると、いつものようにコーヒーを入れ、電子レンジで温めている間に身支度を整えた。朝飯は昨日亜由美さんに買ってもらった肉まんでいい。コーヒーが温まると、入れ替わりに肉まんをレンジに入れてスタートボタンを押した。レンジのなかでランプに照らされている肉まんを眺めながらコーヒーをすすっていると、隣の住人も起き出したようでドタバタと物音がし始めた。凄く日常的で昨日までの実家で過ごした数日間が非日常だった事を感じさせる。自分の意識も次第に日常へとシフトしていく。
俺はレンジ温め完了へのカウントダウンが1になると、取り消しボタンを押して中の肉まんを取り出した。一つあたり二口、三口で胃袋へおさめるとジーパンとロンティというラフな格好で職場へと向かった。会社でも「遊びにでも行くのか?」といわれるほど、浮いた仕事着であり 自分自身そういわれる事にも慣れてしまっている。
職場に着くと机には萩の月が置いてあった。
「これは?」
隣の同僚に聞くと、出張に行った上谷の土産だという。
(しまった!)
仕事休んで実家帰ったというのに何も買ってこなかった。まぁ、葬式で休んだ事はみんな知っている訳だし、そう気に病むほどのことでもなかろう。俺は萩の月を机にしまうと、出勤途中に買ってきたペットボトルのお茶を机の上に置いた。
(さて……休み前は何をしていたんだっけ?)
パソコンを立ち上げ、メーラーと業務報告を書いたエクセルファイルを開いた。何となく先週末までの仕事を思い出すことができ、ある程度今日の段取りも頭の中にできた。
まずは先週末の飲み会のお礼を美智子さんに言っておこう。俺は自分の机を後にし二つ隣の島にある美智子さんの机に向かった。
彼女は始業前だというのにパソコンに向かい、必死にキーボードを叩いている。
「おはようございます」
「あら、有馬君おはよう。お父さん大変だったわね」
「あっ、いえ。それとこの前の飲み会の時はその…… ありがとうございました」
「あら。覚えてるの?」
美智子さんは悪戯っぽく言った。
(覚えてる? 覚えてるって何だ? 何かやらかしたのか俺?)
そんなドギマギしている様子がおかしかったのか、ますます面白がっているようだ。
「そういえば明後日の夕方って大丈夫?」
「明後日? 何かありましたっけ?」
俺は今週の予定を思い返してみたが、思い当たる事が無い。
「実はこの前退職した関谷くんの補填として、新しい子が入ったのよ。だからその歓迎会をしたいんだけど大丈夫かしら?」
「マジすか? ずいぶん対応早いですね」
「ええ。でもその教育計画、今日まで作れって部長がうるさくて……で、そのモナカなの」
始業前だというのに、あんな必死になっていた理由がわかった。それにしても新入社員だってもうすぐ来るだろうに、何故中途の人なんかとったのだろう。
「……で、その新人っていつから来るんですか?」
美智子さんに尋ねる。
「もうきてるわよ。でなきゃ歓迎会なんて決められないでしょ」
そう言われて周りを見渡すと、先日まで関谷がいた机に見覚えのある顔が見えた。
「あれ? 竹内? 竹内か?」
そういうと机の人物はこちらを見て、立ち上がり俺のところにやってきた。美智子さんは驚いたような顔をして俺の顔を覗き込む。
「知り合い?」
「大学の同期です。でも何で? お前、実家の方で就職するって言ってなかったか?」
そういうと竹内は少しニヤついた顔を俺に向けたが、すぐにもとの表情に戻り自己紹介を始めた。
「竹内大地。新座大学理工学部出身です。よろしくお願いします」
「いや、知ってるし。でもまあ、よろしく」
そういうと竹内はすぐに机に戻り、していた作業の続きを始めた。新人がまさかの知り合いとは……とんだ拍子抜けだ。しかしまぁ気を使う必要も無ければ、奴の能力もある程度わかっている。そういう意味ではやりやすい。しかしそれから歓迎会が行われる金曜日まで竹内とは全く喋る機会がなかった。俺自身二日間の帰省で遅れた仕事を取り戻すべく躍起になっていたので仕方がないのだが、彼がなぜこの会社に入ってきたのか気になっていた。
平成十五年四月四日 金曜日
夕方、先週に続いて、これから職場の飲み会が行われる。
だが日々の業務に追われてすっかり会場の場所を聞き忘れてしまっていた。そこで俺は上谷と駅前で待ち合わせて、一緒に会場に行くことにした。
(おっそいなー。上谷の奴。約束の時間とっくに過ぎているじゃないか)
週末の夕方ということで駅はいつにも増して人であふれている。こんなに人がいたんじゃ、すでに来ていたとしても見つけるのに骨が折れそうだ。俺は上谷を見つけようとその場であたりを見廻す。こんな時間だというのにアンケート、ティッシュ配り、何かの勧誘はまだまだ引きそうにない。そんな中で人に声をかける訳でもなく、紙袋を持ち聖書を抱えた二十代半ばと思われる女性がたたずんでいるのが見えた。
(何だアレは? 何をしているんだ?)
何をする訳でもない。
何かを見ている訳でもない。
ただそこにいる。
そんな感じだ。
俺の目は彼女に釘付けになっていた。
すると後ろから急に肩をたたかれ、驚きのあまり思わず飛び退いてた。
「有馬さん?」
肩をたたいたのは上谷だった。
「なんだ上谷か」
「なんだって、この状況で有馬さんに声かける人他にいますか?」
これまた言い返せないことを……
思い切り遅刻しておいてそんなこと言われると、ちょっとムッとするが、今からの歓迎会前にほんのちょっとの蟠りも持ちたくはない。俺は上谷の言動をスルーして、先ほどまで気にしていた女性がいた場所に目を向けた。しかしそこはすでに多くの通行人が行き交う場所と化していた。
「さっ、有馬さん、行きましょう」
俺は上谷に連れられてとある居酒屋に入った。店内は予約席と書かれた衝立で囲まれたテーブル以外は満席で盛り上がりを見せていた。
「予約していたサイバーマンゴーの上谷ですけど……」
普段は気にも留めないことだが、こうして人の口から社名を聞くと語呂の悪さを否めない。いかにも取ってつけたような、バチモノ臭さを感じてしまう。上谷がそういうと、俺たちは衝立内の予約席へと通された。店員に熱いおしぼりを渡されて、俺はすぐに顔を拭く。
「プハァ~!」
上谷は手を拭きながら、こちらを見て呆れるように言葉を放った。
「有馬さん、相変わらずおっさん臭いですね」
いちいち上谷は気に触ることを言ってくる。
わざとなのか? それともKYってやつなのか?
しかしこやつの言うことにいちいち腹を立ててたら疲れてしまうので、俺は本日二度目のスルーを決め込んだ。
「それにしても竹内さんて有馬さんの同級生なんですよね?」
大学での同期を同級生と言うのには違和感を感じる。
「ああ。学部も学科も同じだよ」
「へー、世間て狭いですね」
「まったくだ。でもあいつ地元に就職決まって、実家に帰った筈なんだけどな。何でわざわざ此処に戻ってきたんだか……」
そんなことを話していると、一人、また一人と歓迎会の参加者が集まってきた。そして最後に主賓である竹内がやってきた。
(新人が最後にやってくるって…… 相変わらずマイペースな奴だな)
しかしこの会社は今の社長が立ち上げたベンチャーなだけに、誰もこの事を気にする様子はなかった。
そして宴が始まって数時間。宴もたけなわというとき店内のザワの中で大きな怒鳴り声が響いてきた。その声に店内は一瞬にして静まり返る。散々ぱら呑んで気分良くなっている時にコレはいただけない。俺は声の方向に顔を向ける。すると少しむこうのテーブルに座っている客に、ヤサグレた男二人が詰め寄っているのが見えた。
「おい、お前! 連正会の何が悪いんじゃ!?」
(何だあいつらは?)
俺は隣に座る上谷に小声で話しかけた。
「連正会って何? この辺りのヤクザか?」
そういうと、上谷は顔を耳のそばに寄せて言ってきた。
「違いますよ。結構悪名高い新興宗教です。かなり強引な勧誘したり、監禁事件起こしたりして問題になってますよ」
「ふぅーん」
(てか、飲み屋で暴れて問題起こす宗教団体ってどんなだよ)
俺はその光景を遠目にみながら、テーブルの上のつまみを啄みジョッキのビールを飲み干した。
シーンと静まり返った状況で多くの客がこの二人に目をむけた。この注目に高揚感が増したのか、二人はますます声を荒立てた。
そんな時自分達のテーブルからスックと立ち上がった男がいた。その男はそのテーブルへと歩みよると二人を指刺して言い放った。
「おい! こんな騒ぎ起こして置いて何が悪いじゃねぇだろ。お前らヤクザか?」
(げっ! 竹内!?)
思わぬ竹内の行動に店内の客はざわめきだった。
「悪いに決まってるだろうが!!」
「なんだお前? 連正会に文句あんのか? ああァ!?」
「連正会なんて知らねぇーよ! 文句あんのはお前らにだ!」
そういって竹内は男二人に詰め寄った。そして男たちの正面にきたとたん竹内は力なく崩れて落ちた。やさぐれの一人が、竹内の腹部にナイフを突き立てていた。ざわめいていた店内が一瞬静まり返る。倒れた竹内の体から流れ出た血液が床を赤く染めると、近くにいた女性客は悲鳴を上げた。そして店内は一瞬にして騒然となる。
(なんだあいつら? 何の躊躇もなく竹内を刺しやがった)
刺した男たちは何の動揺もなく、あたかもそれが日常であるかのような態度で倒れた竹内に罵声を浴びせている。さっきまで詰め寄られていたテーブルの客は血の気がひいたような顔でその様子を見ている。
(まったく! 出てきた途端フェイドアウトとか…… 竹内ってそういうキャラだったのかよ)
俺はトイレでもいくかのようにシラっとやさぐれ二人に歩みよると、その一人の左膝にローキックをみまう。足は関節とは逆に折れ曲がった。変な呻き声を上げ苦痛に顔を歪め、上体が下がったところでナイフを持つ手を蹴り上げると、下がった頭を掴み顔面に左右の膝蹴りを入れた。鼻と口から血を流し倒れピクリとも動かない。もう一人のやさぐれは目を見開き慌てふためく。俺は美智子さんに救急車を呼ぶように頼んだ。
「な、なにをしやがる! こんなことしてただで済むと思っているのか!」
そんなセリフを吐きながらも仲間がやられた動揺を隠しきれていない。その男は倒れたを男が持っていたナイフを拾い上げると、美智子さんの方を向いていた俺を目掛け振り上げて切りつけてきた。
「正当防衛成立だな」
そう言って向かってくる男の顎をゼロモーションで蹴り上げると、崩れ落ちる頭目掛けてカカトを振り下ろした。頭を床にたたきつけられ先の男同様に気を失ったまま床に転がっている。
店員に警察に連絡してもらうと、ポケットからインシュロック帯を取り出し倒れた男の両腕を背中に回し親指同士を縛りつけた。
「有馬さん。なんでそんなもの持っているんですか?」
不思議そうに尋ねる上谷。
「SEやプログラマーなら持っていても不思議はないだろ」
「いや不思議ですって……」
上谷とそんなやり取りをしていると救急車とパトカーが駆けつけてきた。さすがに繁華街だけあって到着が早い。俺は警官に事情聴取をされ、最後には「やり過ぎ!」と説教を食らう羽目になった。
主賓不在のまま歓迎会を続けるわけにもいかず、今日はこのまま御開きとなった。
俺は居酒屋を出ると上谷とともに先程待ち合わせをしていた駅に向かった。なんだか少し飲み足りない感じもするが、先日の今日でまた同僚に醜態を晒す事もなかろうと、自分を納得させて帰宅の途についたのだった。
「なぁ、上谷。こういう事ってよくあるのか?」
隣を歩く上谷に尋ねる。
「こういう事って、他の客に絡まれるってことですか?」
「いや、そうじゃなくて、もっとスポット的な…宗教絡みの揉め事だよ。さっきのってテーブルにいた客は連正会の話をしていただけなんだろ?」
「そうですね。僕はあったこと無いですけど、話としては良く聞きますね。ほらよく言うじゃないですか。政治と人権と宗教の話は公共の場ではタブーって……」
俺は初耳だ。
でもコレらは個々に意見が対立しやすい話題でもあるし、おそらくはそう言うことなのだろう。
駅につくと上谷と別れて、アパートの最寄り駅方向の電車に乗り込んだ。週末ということで車内のそこかしこでアルコール臭が漂っている。そう言う自分からもそんな臭いを発しているのだろうが……
(連正会、YV研究所か…… 何故、そこの信者はそんなにも宗教に一生懸命になるのだろう)
人混みの電車の中でそんな事を考えていた。
自分の実家は仏教だが、普段それを意識することは無い。初詣で神社にだっていくし、クリスマスには友達とケーキを食べる事だってある。
殆どの日本人はそうだろう。
『異教のイベント禁止』を日本で実践するのはかなり大変なことに思える。その上偶像崇拝禁止だの国歌校歌禁止だのってどうなんだ? これまで宗教とは無縁だった俺はこの短い間に二つの宗教的なトラブルに巻き込まれた。自分にとって宗教は『どうでもいい物』から『キライな物』に変わった。そんな事を考えていたとき、同じ車両に乗る乗客の中に見覚えのある顔が目にうつった。
(あれは…… 確か夕方駅前に立ってた……)
さすがに聖書は抱えていなかったが、夕方と同じ紙袋を携えてどこをみるでもない視線で立っていた。
(どこかで見たような表情……)
駅で見た彼女の表情のことではない。もっとずっと前にこれと同じ表情を見たことがあった。俺がさっきからこの女性を気にしている原因はこれだったのだ。
彼女は次の駅で降りた。降りたその先を目で追うがすぐに見失ってしまう。俺は更にその二つ先の駅で降りてアパートに帰った。その後シャワーを浴びて湯船に浸かるも先ほどの表情が頭を離れない。
(これは一度会って話をしてみようか……)
なんと俺らしくない積極的な選択なのだろう。しかしこの落ち着かない気持ちを沈めるには、これしか方法は無い…… そんな結論に達し、明日はさっきの駅で彼女を探してみることにした。
平成十五年四月五日 土曜日
この日、俺は昨日と同じ駅に来ていた。
土曜日ということで駅前は、昨日以上に人で溢れ、キャッチセールスや何かの勧誘も昨日より多いように思える。
駅を出て周りを見回すと、昨日と同じ場所に彼女を見つけた。
(いた!)
俺は何と言って話しかけようか考えないままに、彼女のところへ向かう。もう数歩でたどり着くという時、ポケットの中の携帯電話が震えその勢いを邪魔した。
発信者は明美だった。俺は明美と別れる時の「何かわかったら連絡する」という言葉を思い出した。
「もしもし。明美ちゃん?」
「卓也くん。いまちょっと時間大丈夫?」
俺はチラリと数歩先に立っている彼女に目を向ける。
「ああ、大丈夫だよ」
俺は彼女が立っている場所から数メートル離れた、植え込みの柵に寄りかかり電話を続けた。
「今日ね、新聞のネット記事見ていたんだけど、そこにこの前の火事のことが書いてあったの。でね、あの二つの遺体なんだけと、司法解剖したらどちらも四十代半ばから五十代後半って判ったんだって」
「……って事は、何? これは勉と田嶋じゃ無いって事か?」
「この結果が正しいならそうなるね」
だったらこの遺体は誰なんだ? 本当に勉とは無関係の人物なのか?
「明美ちゃん。ちなみに勉のお母さんて存命なのか?」
「どうだろ。でも十年近く前の時点で痴呆患っていたからね。家に誰かといるって考えにくいんじゃ無いかな」
明美は俺の頭に浮かんだ可能性を読み取り、先に意見を述べた。
「でもまぁ、勉と田嶋の可能性はほぼないって事だな」
「ところで卓也くん。周りずいぶんうるさいけどどこにいるの?」
そういわれ俺は彼女の存在を確認した。
「駅前だよ。こんな時間なのにかなり人通りあるから」
「へー、さすが都会だね」
明美は納得したように呟いた。
「じゃあ、卓也くん。また何か分かったら連絡する。またね!」
「うん。ありがとう」
そう言って電話を切った。そして俺は、さっきから気にしている彼女のところへ駆け寄った。
「あの、すみません」
「はい」
「えっと……、あの……」
俺は初対面の人と話すのは苦手だ。
どう話を切り出すか迷っていると
「昨日、そこで待ち合わせしていた方ですよね。その夜も電車の中で見かけました」
「そ、そう」
(一度も自分の方なんて向かなかったのに、どんな目をしているんだ?)
「えっと、その私、聖書に興味があって…… その、話聞きたくて……」
「そうですか。それじゃ説明させていただきます」
彼女はにこやかにはしているが、表情をほとんど変える事なく淡々と話はじめた。そしてA5程の大きさの冊子を取り出しページをひらいて説明が始まった。それはこの世界は悪に満ちていて、神の名の下にこの世は亡びるというもの。その中にイエスの名は出てこない。その代わりにでてくるのはYHVH…… 実体を持たない。発音さえできないこの神を唯一神として信じているようだ。実体がないため『偶像崇拝』にはあたらないというのだろう。
十分程の説明をうけると、説明に使っていた冊子を俺に手渡した。その表紙には『YV研究所』の名前がかかれていた。
(ビンゴ!)
「あっ、あの……」
俺が話しかけようとしたとき、相手の方から先に声をかけられた。
「あの、よろしかったら少しお話しできませんか?」
幸運にも相手の方から接触を求めてきた。俺にとってはその方が出方を決めやすい。それにしても彼女は何を話そうと言うのか。それは十中八九 YVへの勧誘。それに乗るというのも悪くはない。
彼女は場所を変えたいと言うので、『喫茶店かファミレスでも……』と提案したのだが、周りに人がいないところというので二駅隣にある公園に向かうこととなった。そこは昨日の夜この人が降りた駅だ。
(やはり勧誘か……)
そう思いながら彼女の後ろをついて行った。
着いたのは学校のグランド程の大きさの公園。特に遊具があるわけでもなく、広場の真ん中の方では何人かでボールを蹴っている姿が見える。俺と彼女は入り口から少し離れたところにあるベンチに並んで座った。
すぐに勧誘が始まるのかと身構えながら彼女の話を待っていたが、意外にも彼女は黙ったままだった。単に勧誘をするのに慣れていないのか? だがどうやらそうではなかった。
「あの……あなた、先ほど電話されていましたよね」
「はぁ、まぁ……」
初対面の人に『あなた』呼ばわりされる違和感もあったが、突拍子のない質問にそんな違和感を置き去りにしてしまう。一体何を言いたいのだろう。
「その時、田嶋という名前が聞こえてきたのですが、田嶋とは『田嶋陽子』という人ではありませんか?」
彼女の口から発せられたこの名前を聞いて、鳥肌が立つのを感じた。運命などというものがあるとは思わないが、この出会いには何かしらの縁があったとしか思えない。
それにしてもあの雑多な音がする中、よく俺が喋った事を聞き取れたものだ。そして田嶋という苗字一つでここまで連れてくるとは、この名前にかなり過敏になっていると考えられる。もし全く違う『田嶋』だったのならどうするつもりだったのだろうか?
そしてこれに対してどう反応すれば良いのだろうか? 頭をフル回転させる。しかし彼女が田嶋陽子とどういった関係なのかがわからない以上余計な事を言うのは危険だ。
「えっと…… 俺が話していたのは田嶋晶子の事だけど、陽子さんって晶子さんの妹さんだよね。田嶋陽子さんとはどんな……」
「田嶋陽子は会の仲間です」
「はぁ。……で、話したい事というのは?」
「端的に言えば陽子の居場所を知りたいのです」
「田嶋姉妹って埼玉にいるのか!? 何処に!」
思わず彼女に詰め寄り声高に聞き返してしまった。
そして彼女との間合いがやけに近くなっている事にハッと我にかえった。
「ああ、すまない」
「いいえ。……あなたの言う姉妹というのは、陽子と晶子さんのことを言っているのですか?」
「ああ、そうだ。今から二十年近く前まで埼玉にいた事は知っている。だが、そのあと布教活動のため別の土地へ移ったはずだ」
そういうと、彼女は聖書の説明をしていたときの様な表情に戻り淡々とこう続けた。
「晶子さん…… 陽子のお姉さんは向こうの地で事故にあい亡くなったと聞いています。陽子が戻ってきた時は一人でした」
俺はこの話を聴いて、先日明美に聞いた話が頭をよぎった。
「それで、田嶋陽子、……陽子さんはいつまで埼玉にいたんだ?」
「私の知る限りでは十日前ですね。昔の知り合いという方が尋ねてきて出て行ったきり連絡がとれません。アパートにも行ってみましたが帰っていないようです。尋ねてきた人はおそらく会の人かもしれません。どこかの教会で見たことありましたから……」
俺は腕を組んで、これまでの事を思い返していた。十日前という事は、俺が実家に戻る三日前だ。不自然なほど出来事が集中している。
尋ねてきた人というのは勉なのではなかろうか?
そんな事が頭をよぎる。
「……で、えーっと……、名前なんて呼べばいいですか?」
名前も知らないままここまで会話してきた事に気がついた。
「佐藤由美です」
「じゃあ、佐藤さん。その尋ねてきた人について他に何か覚えてませんか?」
田嶋晶子が亡くなったのか、失踪したのかはわからない。しかし多分田嶋陽子は真実を知っているのだろう。
「陽子は出る時、『勉さん』と言っていたのでそのような名前かと……」
あまりにも話ができすぎている。さっき明美とは勉の話もした。この佐藤という人はそこまで知った上で探りを入れてきている。そう考えると、この佐藤由美という女は、本当に田嶋陽子を探しているのかさえ怪しい。
「わかった。じゃあ、俺が調べられる範囲で調べてみるよ。佐藤さんの連絡先教えてもらっていいかな?」
そう言って携帯番号を教えてもらい彼女と別れた。
そのあと俺は勉のメールを開いた。
(やはり……)
さっきまで来ていなかった既読確認メールが入っていた。
今なら勉は電話に出るのではなかろうか?
そう思ってこの前登録した勉の電話番号を探しかけてみる。するとすぐにその応答があった。
「卓也。そろそろかけてくると思っていたよ」
「やっぱり生きていたんだな。なんだあの茶番は? 警察だってあの死体がお前じゃない事くらいすぐにわかるだろ」
電話越しにフッとほくそ笑んでいるのが目に見える。
「まぁ、そうだな。卓也の想像通り、あの二人は俺が殺した」
「だろうな。誰なんだあの二人は……」
「その辺りは会ってゆっくり話そうじゃないか。今夜あたりどうだ? 今、お前がいる公園の近くにYVの教会がある。そこで会おう」
「!!」
俺は自分の周りを見回す。
(勉が俺を見ている?)
(何処から?)
見渡せる範囲に勉の姿は確認できない。
「わかった。何時だ? 何時がいい?」
勉は十九時という時間を指定してきた。
そして一つ気になっていた事を勉にぶつけてみた。
「勉、田嶋の妹はどこだ。お前が連れ出したんだろ?」
「陽子ならここにいるよ。だが連れ出したとは人聞きが悪いな。陽子がここにいるのは彼女の意思だ。別に拐かしたわけでも無理やり連れてきたわけでもない。まぁそれも含めて今晩そこで決着をつけるよ」
(決着?)
俺が勉に決着をつけられるような事はあるだろうか? そんな疑問を持ちながら、電話を切ると約束の時間までこの公園で時間を潰すことにした。俺は自販機でコーヒーを買い、適当なベンチに座った。
今回の出来事は俺と勉が小学校の頃の何かが起因している。それはいま、勉と田嶋陽子が今一緒に行動していることでわかる。勉はその関係者を少なくとも二人は殺している。勉が決着というのなら関係者の滅殺。もし滅殺が終わっているなら事情を知る俺を消す事か?
とにかくここからは慎重に行動しなければならないだろう。
「さて……」
次に取るべき行動を考えた。
その結果、俺は明美に電話をかけるという行動をとる事にした。
「もしもし。卓也くん。どうかした?」
「うん。さっきさ……」
俺は明美にこの数時間の出来事を説明した。
「なんかさ、卓也くんずっと勉くんに監視されているって感じだね。卓也くんの居処も、知り得た情報もすべて勉くんは把握しているみたい」
状況からすれば確かにそんな感じだ。
しかし、動き回る俺をずっとつけているとも思えないし、暫くは様子を見るしかないだろう。
「……で、これから卓也くんはどうするの?」
「……。明美ちゃんにこんな事頼むのも気が引けるんだけどさ、前にYV信者の知り合いいるって言ったじゃない。その人にさ、田嶋晶子と教団内の虐待について聴いて欲しいんだ」
明美は暫く無言でいたが、
「……わかった。でもあまり期待しないでね。一応彼女は脱退してるけど、心に傷はあるだろうから……」
「こんな事頼んでごめん。お願い……」
一時間後、俺の携帯電話はポケットの中で震えた。
電話は明美からだった。
「卓也くん。一応聴いたよ」
明美の声はさっきよりも沈んでいるように思える。
「ありがとう。それで……」
「うん。かなり酷い話だからそのつもりで聴いてね。えっとね……」
明美の話す内容は壮絶なものだった。
子供への体罰が推奨されているとは聴いていたが、幼い幼児への鞭打ち、監禁、そして性的暴行。十歳くらいになると日常的に罰と称したレイプが行われるという。田嶋姉妹もそんな中にいて、田嶋晶子は小学校六年生の時に妊娠して堕胎をしたという。夏過ぎ頃 田嶋晶子が学校に来なくなったのはこの為なのだろう。
「それにしてもさ、こんな事になって親は訴えたりしないのか? ビンタ一つで裁判になる時代だぜ?」
俺がそういうと、明美はさらに重い口調でこたえた。
「ならないわよ。多くの場合、親の目の前で行われるのだから。本人ではなく親の同意のもとにね。そうでない場合にも薬物を使って意識を朦朧とさせたり、数日分の記憶をめちゃくちゃにしたそうよ。だからそこで起こった事を証明できない。まぁ、それ以前に教団内で起こった事は、例え殺人であっても教団内で処理されるそうだから」
俺はこの話に言葉を失っていると、明美の口から更に衝撃的な話がでてきた。
「で、晶子さんの事なんだけど、中学入って勉くんと付き合ってたって言ったじゃない。それが教会の人の耳に入ってまた罰を受ける事になり、また妊娠したらしいの。そして彼女は中三の夏前、教会に灯油をかぶって現れて、親やみんなの目の前で焼身自殺をしたそうよ」
「なっ!」
「でも、この事は教会から口止めされて、遺体は教会の方でもっていって処理されたって」
俺は言葉を失う。
しかしこれで勉の行動の意味は理解できた。おそらく二つの遺体は教会関係者。そしてそれは田嶋晶子を襲ったやつと、田嶋の母親ではなかろうか。そいつらを田嶋晶子と同じように焼き殺したのだろう。
「明美ちゃん。ありがとう。だいたい掴めてきたよ」
「うん。でも気をつけてね。今の勉くん、どんな行動に出るかわからないから……」
電話を終えまた暫く公園のベンチで明美の話を思い返していた。
勉は元々粗暴な奴ではあったけど、ここまでの狂気に駆り立てるとは…… でも、俺もその立場なら同じ事をしたかもしれない。これから会うそんな旧友にどう接したら良いかを考えているうちに約束の時間がやってきた。
(そろそろ行くか……)
夕方七時、勉が指定した教会にきた。
人気の無い庭を通り入り口の前に着くと恐る恐るドアノブをまわした。鍵は開いている。
そしてドアを開けると意外にも建物の中には灯りがついていた。
(電気なんか点けて大丈夫なのか? こっそり入ったわけじゃないのか?)
そう思いながらあたりを見回す。
するとその部屋の中央にある演台のそばに、見たことのない男が三人座っていた。よく見るとその男たちは何かで縛り付けられているようだ。
「よう、卓也。一週間ぶり!」
甲高めの声が聞こえた。
俺は声の方に眼を向けるとそこには勉の姿があった。明らかに先日会った時と様子が違う。テンション、目つき、表情、態度……その全てが自分の知る勉ではない。
そして勉の隣には二十代半ばの女性。恐らく田嶋晶子の妹 田嶋陽子だ。
「お久しぶりです。卓也さん。……と言っても、覚えてませんよね」
勉とは対照的に表情の起伏がまるでない。
(なんなのだ?この取り合わせは?)
「勉、アイツらはなんだ?
こんなところで何の話をしようというんだ?」
「そんな身構えるなよ。
別にお前と殺し合いをしようってんじゃないんだから。
俺はただお前が忘れている過去を思い出させたいだけだ。つっても俺が話そうとしている事の六、七割はもうお前が自分で調べたようだがな。
アイツらは日本YVのトップ3だ。これまでの責任を取ってもらおうと思って捕まえてきたところだ。気にするな」
明美の言う通り、俺が調べた事は勉に筒抜けになっている。
「勉、何故俺の得た情報を知っている」
そういうとポケットから携帯電話を取り出した。そして目の前で音声出力をスピーカーに切り替えた。
「ん? 何だそれは!?」
そう言ったところで、勉の持つ携帯電話からも俺が喋った声が発せられた。
「何っ!!」
「YVが開発した携帯電話感染型の盗聴器。メール経由で感染させ常駐させた。すげーよな。こんなのを作っちまうんだから。
でもこれのおかげではっきりしたよ。卓也は小六のあの出来事を本当に覚えていないってな」
「小六の時の出来事だと? 勉。なんなんだそれは? お前は何を知っている?」
勉は陽子に目を向けると、無言で頷いた。すると勉は大きく深呼吸する。さっきまでの狂気した顔から落ち着きをとりもどしはじめる。
「俺たちが小六の頃だ。晶子は顔に酷いアザを作って登校して来たことがあった。学校では俺たちと晶子は一緒にいることが多かったし、学校でできたものではないことは明らかだった。晶子に聞いても頑として言わない。そこで俺たちはあの教会が怪しいと思い忍び込むことにしたんだ。……卓也、ここまで言ってもまだ思い出せないか?」
「ああ」
俺は必死で当時を思い出そうとするが一片の記憶も探し出すことができない。陽子に眼を向けると少し辛そうな顔をしている。
「そして俺たちは二手に分かれて、別々の小さな部屋に忍びこんで隠れて集会の様子をみていた。そしてそのあとお前がいた部屋ではとんでもないことが行われた」
「とんでもないこと?」
俺は口に溜まった唾を飲み込む。
陽子は目を閉じて俯き震えている。
「これは中学の時に晶子から聞いた話だ。
お前がいた部屋に晶子と晶子の母親、中年の男が入ってきた。そこで晶子は母親とその男の前で着ていた服を全部脱がせ壁に手をつかせられた。そして男は細い棒のようなもので、晶子の体を何度も何度も叩いた。全身にアザや傷ができてもなお叩き続ける。それが何分間か続き晶子がぐったりしていると、その男ははいていたズボンを脱いで、その傷だらけの晶子を犯そうとした。その様子を晶子の母親は止めるどころか、表情一つ変えずに観ていたそうだ」
「そっ、それで俺は何もしなかったのかよ」
俺は苛立ちで震えながら勉に聞いた。
「いや、この時お前は飛び出して男に殴りかかったらしいんだけど、その騒ぎで入ってきた他の奴らに捕まった。そんなことになっているとはわからなかった俺は、その騒ぎに乗じて外に出てお前を待っていた。ところがいくら待ってもお前は来ない。そしてその日の晩にお前は家の庭に血まみれで倒れているのをお前の親父さんに見つけられたんだ」
「そんな…… これほどの事があったのに、何故俺は全く覚えていないんだ?」
勉は持っていた携帯電話に目線を移した。
「このアプリだけじゃなくて、ここではいろんなものが作られている。その一つに記憶を混乱させる薬があってな、それを晶子の目の前で打ち込まれたそうだよ。ナイフで全身に傷をつけ、注射の跡がわからないようにしてな」
確かに俺の体には覚えのない傷痕がいくつもある。
俺は首にある大きな傷痕を触りながら勉の話の続きを待った。
「お前は発見されてからも暫く意識が戻らなくて数日間入院していた。そして再びお前と会ったとき、何事もなかったかのように俺や晶子に接してきた。教会へ侵入したことも覚えていないようだった。その時俺は晶子に起きていた事は知らなかったが、知っていたはずのお前は普通に晶子と話していたんだ」
「……しかし、本当に記憶を消すなんてできるのか?」
そんなご都合主義な薬なんて聞いた事がない。しかし勉が言ったことが本当ならば、俺の記憶している過去と明美から聞いた話ともつじつまが合うことになる。
「そうだな。お前がその時意識が戻らなかったくらい体に負担はかかるようだが…… 現にお前の親父さんはそれで亡くなっている」
「何?!」
あまりの展開についていけなくなりだした。
「教会に忍びこんだとき小学生だった俺は何をすれば良いか分からなくてお前の親父さんに田嶋のことや教会に忍び込んで卓也が捕まったことを話した。
俺は教会に顔が割れていなかったが、卓也はマークされると踏んだ親父さんは埼玉の全寮制の中学にお前を逃したんだ。別にお前の成績が悪かったからじゃない。実際そんなに悪くも無かったしな……」
自分自身が持っている過去の記憶がここまで曲げられていることに、気持ち悪さを覚えた。
「話戻すけど、そんな感じで俺は事あるたびにお前の親父さんに相談した。小さい頃からあの家に出入りしていただけに、かなり親身になって相談に乗ってくれたよ。中学の時は今後危険にさらされるかもしれないからって実践空手の道場まで紹介してくれた。
晶子と付き合い始めたのは中一の夏頃だ。その頃、晶子はもう教会での罰は受けていないと言っててなんとなく安心していたんだけどな、中学三年になったとき今にも泣きだしそうな顔でうちにやってきた。訳を聞いてもずっと黙ったまま。そして暫くして晶子が少し落ち着きを戻した時、突然立ち上がり俺の目の前で服を脱ぎ始めた。晶子とはまだそんな関係になかった俺は状況についていけなくてアタフタしていた。そうしている間に全裸になった晶子に目を向けると、そんな動揺も吹き飛ぶものが目に入ってきた。全身至る所にできたアザと傷痕。中にはできたばかりと思われる生々しいものもあった。その姿に言葉を失っていると晶子は大粒の涙を流して俯いた。そしてこれまで毎日のように教会の中で行われてきた罰という名の虐待を受けていたことを知った。そしてその時妊娠していて明日教会内で堕胎の処置が行われると…… それまで晶子の身に起きていた事に気付くこともなく、能天気に晶子と接してきた事にどうしようもない苛立ちを覚えたよ。何が晶子の彼氏だってな……
そんなどうしようもない気持ちに震えていると、晶子は俺に抱いてと言ってきた。そして俺は初めて晶子と身体を合わせた。何時間もの間、何度も何度も…… 晶子の表情は少し穏やかになったように見えたんだが、次の日 晶子は俺の前から姿を消した。実際にはお前が知っている通り教会で焼身自殺していたわけだがな」
勉はそういうと、縛られた男を蹴飛ばした。
他の男たちは怒りとも畏怖ともいえない表情を浮かべ、蹴られている男を見ている。
「勉。お前はいつ田嶋晶子が亡くなった事を知ったんだ?」
「晶子がいなくなってYVの教会を探しまわったが見つからなくてな。YV高校に入って情報を集める事にしたんだ。だが俺が入ったのは地元ではなく、ここ埼玉にある学校だ。地元だと顔が割れている可能性があるからな。その学校の寮に入って、何人もの二世、三世信者と知り合っていくうちに、あそこで起きた焼身自殺の話を耳にした。二世、三世信者ともなると信仰心なんて薄い人が多いし、それどころかYVを嫌いな人もたくさんいるから簡単にそういう情報を口外する。それを知って俺に殺意がめばえた。学校や教会のデータから、当時のあの教会の奴らを調べまくったよ。そしてそいつらは全て教会内で殺してやった。教会内は治外法権だからな。死体を放置しておいても勝手に処理してくれるから楽なもんだったよ」
勉に蹴り飛ばされぐったり横たわる男を見てそう言った。
「……で、八日前、俺は陽子と一緒にお前の親父さんに会いに行って、長いこと調べてきたYVのことを報告した。そんな時奴は現れたんだよ。俺たちが親父さんと別れた瞬間をねらってスタンガンで襲い例の薬を打ち込んだ。その後そいつは俺たちにもスタンガンを向けてきたんで、取り押さえて俺の元実家に隠しておいた。そいつから晶子の母親の居場所を聞き出して同じようにあの家に監禁しておいた。
母親からも色々聞き出したけどヘドの出るような話だったよ。そんなことをしていた時、お前の家の方が慌ただしくなってな、親父さんが亡くなった事を知ったんだ」
「つーことは、親父はYVに殺されたのか」
あの時見た『やすらかに思えた死に顔』は、その時勉に聞いた事やYVに襲われた記憶を無くしていた為と考えられる。そう思うと怒りが込み上げてくる。
「勉。コレ迄の事はだいたいわかったよ。
親父を襲った奴も、当時の教会の奴らも、もういないんだよな。だったらコイツらはどうするんだ?」
「そんな事は決まっている……」
勉が次の言葉を発しようとしたとき、俺の後ろの扉が突然勢いよく開いた。
「見つけた!」
そこにいたのは片手にボーガンを携えた異常な殺気をまとった女。それは日中、陽子の居場所を尋ねてきた佐藤由美とか名乗ったやつだった。
「早見! お前の兄を殺したのはそいつだ! そいつらを全員殺せ!!」
拘束され今まで言葉を全く発しなかった男の一人が彼女に向かって大声で叫んだ。
神に仕える者とは思えない言葉だ。
彼女は勉にボーガンを向け放つと、後ろから巨大なミリタリーナイフを取り出して勉に向かって走りだした。勉は自分に向かってくる矢を寸前ではたき落とすと、切りつけてくる彼女からナイフを奪い取りそれを彼女の首へと振り下ろした。頭は一瞬にして胴体をはなれ、切り離された胴体は血飛沫をあげながら床へとくずれる。頭部はさっき叫んだ男の足元へと転がっていった。
「ひぃ!!」
転がった頭を避けるように足を竦めた。
勉はさっき佐藤由美と名乗った女が持っていたボーガンを拾い上げ、はたき落とした矢をセットする。
「へーっ、これがクロスボーというやつか」
勉はボーガンをひとしきり眺めると、さっきの男の足目掛けて引き金を引いた。放たれた矢は鈍い音を立てて、男の足首を貫通し床に突き刺さる。
「ゔぎゃゔ!!!」
苦悶の表情を浮かべ叫び声を上げながらもがく男に、勉は顔を近づける。
「元気いいじゃねぇか。何か良いことでもあったのか?」
勉はツマ先で男の顔面を蹴り上げると、矢で床に固定されたままの男の足は引きちぎれんばかりに伸び、足首の骨が露になった。またのけぞった顔の口鼻からは血が止めどなくながれ、男が口に溜まった血を吐き出すと肉片のついた歯が数本床に落ちた。
「皮肉なもんだな。イエスがゴルゴダの丘で磔にされたように、お前もこの教会に磔にされるなんてな……」
こんな目覆いたくなる様な状況にもかかわらず、陽子はその様子を顔色変えずに見ている。コレ迄陽子がどれほど悲惨な状況を見てきたかがうかがえる。
「卓也、お前に話したかったのはこれで全部だ。
俺たちはこいつらを処分したら姿を消すつもりだ。一応今回の関係者は全部消したつもりだけどな、今後何が起こるかわからない。お前は実家に戻れ。あそこにはまだYVの支部があるからおふくろさんを一人にしておくのは危険だ」
「わかった。どのみち母さん一人にしとくのは不安だったしな。でもお前たちはこれからどうすんだ?」
勉は陽子と顔を見合わせる。
「まぁ、どっか二人で暮らしていくよ」
これまでほとんど無表情だった陽子の顔が少し緩んだようにみえた。
「……て、お前ら、付き合ってんのかよ? それってソロレート婚とかいうやつでね?」
「人聞きの悪いこと言ってんじゃねぇよ。だいたい結婚してねぇし……」
足下では血反吐を吐いている男、運命を察し怯える男、首の無い遺体が転がっている脇で、冗談を言い合える俺は、いよいよこっち側の人間になってしまったのかもしれない。
三カ月後。
俺は母親のいる実家への引っ越しの真っ最中だった。十七年間過ごした埼玉のアパートから持ってきた荷物は想像した以上に多く、明美と圭子に手伝いにきてもらっている。二人とも手慣れた感じで作業をこなし、俺がしている作業を邪魔くさそうに見ている。
「卓也くん。コッチはいいから仕事部屋の方を片付けしたら?」
そう明美に言われ、俺は昔兄貴が使っていた部屋に移動した。こっちに戻ってくる事を決めた日から、再就職先を探してみた。しかしこんな田舎ではなかなかプログラマーやSEの募集はなく、自分で会社を立ち上げる事に決めたのだ。勿論資本金などロクにないので、実家の空き部屋を使う事にした。
仕事は暫くの間、前の会社の下請けで食いつなぐつもりをしている。
俺は部屋の隅に置いてある、光モデムからLANの配線を兄貴が使っていた机まで引いてきた。机の上には三十二型のモニターとキーボード、マウス。サイドテーブルにはクライアントとの連絡用に買った真新しいノートパソコンが置いてある。
「よし! こんなもんかな?」
PCの設置をだいたい終えて、仕事で使う資料を本棚に並べようとした時、机に置いていた携帯電話が鳴り出した。
「久しぶり、卓也。楽しそうにやってるな。引っ越しは順調か?」
そう言ってきたのは勉だった。
「おう。お前達はどうよ。住む処は決まったのか?」
「まぁな。陽子もYVを離れた暮らしにすこし慣れてきたよ。時間は掛かるだろうが、それはいくらでもあるしな。これからのんびりやっていくよ」
「そっか…… ……って、オイ! 何で俺が引っ越ししてんの知ってんだよ! まだ盗聴アプリ動いてるのか?」
勉は電話の向こうで笑い出した。
「わかったよ、この電話切ったら消しとくよ」
「ああ。ほんとうにだぞ!」
「わかった、わかった。まぁ元気そうで安心したよ。明美にも宜しくな」
勉からの電話が切れると、俺は作業を再開しようと携帯をポケットにしまった。
そんな時……
「キャー!」
隣の部屋から明美達二人の悲鳴が聞こえてきた。俺は急いで隣の部屋に駆け込む。
「どうした?」
俺は恐る恐る尋ねる。
「卓也くん、これ……」
明美はシリコンでできた円筒状の物体を、汚いものでも摘むように持ち上げて俺の前にさし出した。
(げっ!!)
俺の顔から血の気がひく。
「これ、未使用だよね?」
「……、いや……」
「きゃっ! ばっちい!!」
明美は持っていたものを離し、その物体は弾みながら床を転げていった。
明美は手をバタバタしながら地団駄をふんでいる。
「ちゃんと洗っているから汚くないよ」
苦し紛れに強がりながらそういうと、呆れ顔で圭子がいった。
「たくちゃん。彼女いないからってこういうのに頼るのはどうかと思うよ」
「そうそう、卓也くんエロ過ぎるよ」
二人の冷ややかな視線が痛い。
「しかもこんなにいっぱいあるし……」
そんなやり取りをしていると、またもポケットの携帯電話が鳴り出した。
(勉からのメッセージか……)
『卓也、そんなものに頼ってないで早く彼女作れよ! 』
「まだ盗聴してんじゃねぇか!!」
(しかし、なんで俺がこんな辱めを…… ソロレート婚って言った仕返しか?)
ぶつぶついいながら床に転がったアイテムを拾い上げると、明美と圭子は俺のアイテムボックスをみながら楽しそうにはしゃいでいた。
俺は勉からのメッセージに目を戻す。
(まぁ、勉たちも普通の生活に戻れてよかったよ……)
俺は携帯電話をポケットに戻した。
さらに数日後、俺の元に一通の手紙が届いた。
封筒の裏をみると『田嶋陽子』と、名前だけがかかれている。陽子は携帯を持っていないのか、手慣れた感じの綺麗な字で文章が綴られていた。
拝啓
卓也さんお元気ですか。
今回の事では色々ご迷惑をかけました。
私は生まれた時からYVの中にいて、YV以外の生活など考えたこともありませんでした。そんな私を勉さんはYVから連れ出してくれました。勉さんはとても優しくて、いろんな事を教えてくれます。こちらにきて三カ月経ちましたが、毎日がとても楽しいです。
姉も勉さんと付き合っていた二年間はとても穏やかな顔をしていたことを思い出します。亡くなる前にそんな時間を与えてくれた勉さんにはとても感謝しています。
これからも勉さんと一緒に暮らしていくつもりです。
それでは卓也さんもお元気で。
敬具
田嶋陽子
(……ノロケ? 勉への手紙と間違えてね? )
しかしこの手紙を読んで、あの無表情な田嶋陽子が笑っている姿を想像するとなんとも言えない嬉しさが込み上げてくる。生まれてからあの異常な環境で過ごしてきたのだから、心の傷跡はなかなか消えないだろうけど、勉と一緒に幸せに暮らして欲しいと心底思ったのだった。
(……ん? 続きがある)
追伸
勉さんは毎日私を求めてきます。
そのおかげで勉さんと私の赤ちゃんができました。
来年の今頃には新しい家族が増えているでしょう。
生まれたらまた連絡します。
『勉さんは毎日私を求めて』のくだり必要だろうか?
田嶋陽子は天然なのか?
それとも勉に染められたか?
俺はそんな二人の日常のやり取りを想像し、微笑ましく感じずにはいられなかった。
読んでくださいましてありがとうございます。
これは私の初めての作品です。ベースは私が小学生の時に起こった宗教的な出来事に足を付け羽を付け、さらにはしっぽまでつけて物語に仕上げました。もちろん作品中に出てくるような殺人事件はありませんし、監禁事件も起きていません。個人名や団体名も架空のものです。
それはさておき最後まで書き上げることができてよかったです。次作では文章や表現の技法を勉強してきれいな文章ができるように気を付けたいと思っています。