暗殺者《バク》は夢を喰む。
「こちらコードネーム《バク》――標的を捉えた」
ワールドカップの熱狂の渦の中、僕は冷めた目でスコープを覗き込む。
今回、依頼主Mによって課せられたミッションは、サッカー日本代表の暗殺。
標的は中学生からサッカーを始めたにも関わらず、進学先の無名だった高校を全国優勝に導いた神童で、そのままプロの道へと突き進み、ワールドカップで背番号10を任せられるほどになった。
『同点のまま迎えた後半も残り僅か。さあ日本。厳しい時間になってきました』
片耳につけたイヤホンから実況が聞こえてくる。
標的は必ず決定打となるゴールを決める。僕はそう確信していた。
『おっと、ここで香川、本田とパスが繋がって、ゴール前で――にパスが繋がった! 日本の得点チャンスです!』
実況が加熱し、日本の応援席が沸き立つ。
標的がシュートモーションに入ったのを目視で確認し、僕は深く息を吐く。
そして、無慈悲に引き金を引いた。
銃声は歓声に呑まれ、銃弾は虚空を一直線に貫く。
そして歓声が止み、一変して悲鳴へと変わった。
観客がパニックになり逃げ惑っている。
緑の芝生が鮮血に染まっていくのを確認し、僕はその場から華麗に立ち去った。
〜〜〜
僕の名は、伊藤獏。
ただの陰キャ高校生とは世を忍ぶ仮の姿。
僕こそ界隈じゃ知らぬものはいない伝説の暗殺者――コードネーム《バク》なのである。
日本代表の暗殺から三年。
世界は何一つ変わっちゃいない。
これが依頼者Mの望んだ平和なのだろうか。
高校三年の夏。誰もが受験勉強でノートに汗を滲ませる中、僕に依頼主Tによって新たな依頼が舞い降りた。
標的は有名国立大学に通う大学院生。
僕は直ちにピストルを背負い、その大学へ向かった。
情報学部に所属している標的は、これからIT業界で活躍するエンジニアにでもなるだろう。
でも、標的は存在しちゃいけない。
彼はもう消滅してもらわないといけない。
依頼主Tがそう決断を下したのだ。
大学で講義を受けるのを、反対の施設からスコープ越しに見つめる。
彼は手馴れた様子で、パソコンに何らかのコードを打ち込んでいるようだ。
息を深く吐き、引き金に指をかける。
引き金が固く感じる。指が微かに震えている。
大丈夫、躊躇う必要は無い。
依頼主Tの言う通り、彼を殺した方がいいんだ。
「――――」
静かな銃声に、ハトが驚いてが羽ばたいた。
銃弾は彼の頭を貫通し、同時にパソコンを破壊する。
世界が滲んで見えるのは、きっと夏の暑さのせいだ。
暗殺の成功に、僕は歓喜の涙を流すのであった。
〜〜~
そうやって、何度も殺してきた。
Mの願いの通りに。Tに言われるがまま。
殺して。殺して。殺して。殺して。殺し続けてきた。
そうやって気がつけば大学生になっていた。
世界は一向に変わらず、僕は空っぽになっていた。
でも、本当に殺さなきゃいけない標的は別にいる。
そいつの存在はMもTも知らない。
だから、彼を殺せるのは僕自身しかいない。
今回の標的は、小説家。
小説投稿サイトで人気に火がつき、作品が単行本化され、アニメ化もされた人気ライトノベル作家。
彼は一人自室に篭って、パソコンで小説を書いていた。
僕はその背後に幽霊のごとく立った。
拳銃の銃口を頭へと向け、震える手を抑えながら引き金にてをかける。
「次は俺を殺すのか」
その時、彼は振り向かず、そう問いかけてきた。
それでも一心不乱に小説を書き進めている。
「サッカー日本代表の伊藤獏も、有名国立大学に通う伊藤獏も――お前は既に殺してここに来たのだろう」
彼――人気小説家の伊藤獏は、ゆっくりと振り返る。
そして寂しそうに微笑んだ。自分自身を嘲笑するように。
「当たり前だ。お前は存在しない。存在しちゃいけないんだ」
「何故だ?」
「お前がいる限り、僕は夢から醒められない。いつまでも叶うはずのない夢に苦しめられるんだ。――お願いだから。これ以上、僕に幻想を見せないでくれ」
叶うはずのない願望を抱き続けるなんて、そんな残酷なことがあるだろうか。
「そうやって。サッカー選手になる夢も。有名国立大学に行くことも諦めたのか」
中学生の時にはプロサッカー選手になると嘯いた。
でも才能なんてなくて、母さんに現実を突きつけられた。
高校三年生には、有名国立大学に挑戦した。
模試の判定なんて当然Eで、先生に諦めろと諭された。
僕はいつも、叶うはずのない幻想を思い描いてしまう。
その幻想があるから、希望を捨てきれずにいる。
だったら、早い内にそんなくだらない幻想は殺さないと。
「何故だ。お前は小説家になりたかったんじゃないのか。だから暇さえあれば物語を練り、文章を書き続けてたんじゃないのか」
「なりたくなんかねえよ! あんなのただお遊びだ。本気で小説家になろうだなんて考えてない」
「母親も先生も、この夢は知らない。本当になりたかったから、誰にも言わなかったんじゃないのか!?」
「うるさい!!」
僕は力任せに引き金を引く。
銃口が火を吹き、彼の背後の窓ガラスを割る。
あまりにもそいつが的外れな推測をするもので、怒りで照準がズレてしまったのだ。
「この夢は誰も知らない。誰も否定したりしない。なのに、何でお前自身がそれを否定するんだ! お前なんだよ! お前だけが、お前の夢を叶えてやれる!」
「黙れ! 黙れ黙れ黙れ! 分かってんだよ! 僕に才能なんてないことくらい、自分自身が一番分かってる! 努力すれば夢は叶う!? はあ? 努力すればするほど、夢は遠のいていったよ……」
努力すれば、自分の才能に気付かされる。
努力すれば、その道の険しさを痛感させられる。
努力すれば――夢は醒める。
「だからもう、お前を殺さなきゃいけないんだ」
「……そうか。だったら殺せよ。諦めちまえよ。そして俺を殺した後、その拳銃で自分の脳天をぶち抜くんだろう?」
もしすべての目標を失えば、残るのは廃人だ。
それは「自分自身」を殺すことと同じに過ぎない。
最後に僕が殺すのは、未来を望む僕自身だ。
「お前、サッカー選手になることも、有名国立大学に行くことも、正直そんなに本気じゃなかっただろ。だから、言われるがまま諦めた。――でも、本気で小説家になりたかったから、お前は誰にも言わなかったんじゃないのか」
耳を塞いで、希望を捨てきれない思いを遮断する。
「……諦めた。諦めたんだよ。書いても書いても書いても、僕の『好き』は誰にも刺さらなかった。認められたいわけじゃないのに、認められないのが苦しいんだよ」
認められたくて書き始めたわけじゃない。
ただ僕の好きな物語が描ければそれで良かった。
なのに……心が張り裂けそうになるんだ。
「何で、ありふれた量産型の小説に負けるのかって、他の作品を蔑んだりもした。――でも本当は分かってる。僕に想像力も文章力もないことくらい」
才能のない自分を恨んだ。
才能という一言で諦めようとする自分を嫌った。
増える文字数と増えないブックマーク。
出口の見えないトンネルを走り続ける日々に、心が折れた。
「それでもやめなかったのは、お前が好きだったからだろ。物語を描くのが」
「…………」
「ああ、そうだ。俺を殺しても世界は変わらない。でも、お前が夢を諦めなければ、世界は変えられるかもしれない。お前の生みだした作品で、誰かにとっての世界を変えられるかもしれない。だからお前は、小説家になりたかったんじゃないのか!」
こいつは、僕だ。
迷い、葛藤。そして、心のどこかにある強さだ。
分かってる。認めたくないだけで。
「なりたくてなれるわけじゃない。でも、なろうとしなきゃなれないものだろ。――俺になれ。伊藤漠」
世界が消えゆく中、彼は優しく微笑む。
そうだな。諦めるにはまだ早いか。
もう少し。もう少しだけ、頑張ってみよう。