第01話『たった一人の家族』
「着きましたよ、托生くん」
「…はい」
運転も10分ほどで、托生はだいたい落ち着いたらしい。
車が止まったのは、托生の自宅の前である。
辺りはもう暗くなっており、人の通りもない。
「ありがとうございます…──では…俺はこれで…」
車を降りようとする托生。
そこでバイトリーダーは、彼を呼び止める。
「明日は休んでいいんですよ?」
「…そういうわけにはいきません」
「ちゃんと有給とってあげますから」
「でも、俺が働かないと…」
いつまでもうつむいてばかりの托生に、バイトリーダーがそのとき覚えた感情は、憤り以外のものではなかった。
彼の様子が哀れで仕方なく、彼女は托生に一喝する。
「何言ってるの!──そもそもアンタの仕事なんて、他人からふっかけられたものがほとんどじゃない!何が『俺が働かないと』ですか!ふざけないでッ!」
震えた声で出たそれは、托生には届きはしなかった。
彼はたった一言──『ありがとうございました』と礼を残して、車を降りるのだった。
「…っ…ぁ…ぁぁ!」
バイトリーダーは再び、悲しみの涙を流す。
自分が取り仕切っている職場の雰囲気が、托生に悪影響を与えた現状でしかないのに、声を荒げる対象がなぜ彼になってしまったのか。
彼女にとって、これはただの憂さ晴らしでしかなかった。
だが、彼女の托生を想う気持ちが本物であることに間違いはない──それ故に、心が締め付けられるのだ。
「…」
托生には、車内からの啜り泣きが聞こえていた。
それを聞く彼もまた、胸を締め付けられる。
「…」
だが、表情はピクリとも動かない。
「──…」
今まで何度も辛いことを経験してきた彼にとって、涙を流すというのもすでに億劫になってきた。
他人のことで悲しむなどというのは、面倒で仕方ないものだ。
托生の顔に張り付いた能面は、剥がれる予兆もないのだった。
──托生はそのノイズを振り切って、自宅のドアノブに手をかけた。
ガチャ…──
「…ただいま…」
ドアを開けた托生は、その時まさにそう言った。不思議に思うだろうが…──
「…おかえりなさい…」
返事がきた。少女の声だろうか。
そして、廊下を歩いてきたのは、11歳ほどの少女であった。
「…お兄さん──」
この少女がそう呼ぶとおり、この少女は托生の妹だ。
嵐丸心花…──托生に残った、たった一人の家族。
「…きょ…今日もおつかれさま…」
「…」
托生はその労いの言葉にも、返事を返さなかった。
今までに、何度そんな薄っぺらい言葉をかけられただろうか。
バイトの連中からヘイトを集めている時給アップの原因は、まさにこの心花のためだというのに。
それも、家族の遺産や生活保険は、もしもの時に備えなければならない。托生には普通よりも多い時給が求められた。
そしてそれは、他の人間にとっては全く面白くない。
それが理由で、托生はパシリのような扱いを受け、暴力によるストレス解消のはけ口にされているのだ。
「…風呂は、もう入ったか…」
「うん…入ったけど──…あっ、一緒に入…──」
托生は、心花を振り切って浴槽へと向かう。
「…」
心花もバイトリーダーと同じく、托生の根暗に胸を痛める人間だった。
托生にとって心花が家族であれば、その逆もまた然りである。
たった一人の家族がこうにもなるまでに追い詰められているという現実、そして彼を追い詰めている者に自分自身もいるということが、心花の幼い心をこれでもかという程に追い詰めていた。
──托生は湯船に浸かる。
ただでさえ寒い季節であるし、キツい肉体労働の後の風呂はいい。
しかし、普通ならほっと息をつくことだろうが、托生はまるで水死体のようで、何といったリアクションもとらない。
痩せこけた躰では、肋骨も透けて見える。そして、痣も多くあった。托生が今まで受けてきた暴力の証拠だ。
「…」
しばらく経って水の音もしなくなったが、托生はそこで、動く。
「…」
そのとき心花は、洗面所で歯ブラシを濡らしていた。
洗面所と風呂場は隣り合わせで、本来ならば水音などが聞こえるはずだ──だがここまで静かだと、溺れているのではないかと心配すらしてしまう。
パシャ…
「…?」
水音…、どうやら向こうに動きがあったらしい。
一度上がってシャンプーでもするつもりだろうか──心花はそう思っていると…。
カリカリカリ…
「!?」
その音は心花に、ノータイムで危機を察知させた。
慌てて歯ブラシを投げ、風呂場へと向かう。
ドアを開けるとそこでは、托生が手首にカッターナイフを翳す姿があった。だが…──
「くぅッ…うぅ」
死を躊躇っているせいか、その手は震え、息は荒くなっていた。
「兄さん!」
「はァッ…!?」
心花が大声で呼ぶと、托生はそこで現実に戻される。
悪夢から覚めたような喘息に襲われ、汗が吹き出してきた。
今自分がしようとしていることを見つめ直し、ドアを開けてこちらを見る心花に目を向けた。
「心花…」
「うっ…うぁあっ…」
心花は顔をくしゃくしゃにして、大粒の涙を流す。
自分のせいで、たった一人の兄がここまで傷ついていたのだと、深く心を病みそうになるのだった。
「兄さん…それだけはやめて…お願いだから…」
涙を流しながら、心花は嘆願する。
托生が死ねば、心花を育てる人間はいなくなる。
それに、たった一人の家族を失う経験は、幼い少女には辛すぎる。
「…っ」
托生は、今の行為がどれだけ無責任であったか知る。
心花は服を、震える手で脱ぎ始める。
托生が精一杯育ててきた妹の体は健康的であったが、托生は一切なんとも思わない。
「もし…兄さんがつらいなら…ヤラれてもいいからぁ…自殺だけは…やめてよぉ…」
11歳ほどの妹が、兄を慰安するなど言うのだから、この兄妹の家庭事情は過酷すぎる。
「…」
托生は心花を見て、何とも思わない。今までにも襲った試しもない。
常軌を逸した過酷な状況下で、彼の性欲、睡眠欲、食欲は薄れていた。
チェーンをつけられた奴隷かのように、彼はどちらに転んでも、労働以外の選択肢はありはしないのだ。
たった一人の家族を守るために、彼はなけなしの精神を、じわじわと削っていた。
──托生は、唯一残った心花への愛情で、震える心花の体を力弱く抱きしめるのだった。