ベイリー公爵家という家族
ベイリー公爵家当主にして、アインアデル帝国宰相であるロベルト=ベイリーは、頭を悩ませていた。
明晰な頭脳を持ち、常に冷静沈着、そしてこれ以上ないほどに公正な男だ。皇宮では、一切の隙も無く、全ての問題を解決に導く『皇帝の右腕』。そんな男が、眉間に深い皺を寄せ、何も言わずにもう長いこと黙り込んでいた。部屋の隅に控える初老の執事が、じっとその横顔を見ている。
邸の塵ひとつない書斎の机の上に、数枚の便箋を並べ、睨むようにしてそれらを何度も読み返している。どれも、有力な貴族の家から送られてきたものだ。それらの内容はみな、自分の家の子息と、ベイリー家の末娘ステラ=ベイリーとの婚約を打診するもの──つまり、縁談であった。
ロベルトは、十五で未だに婚約者の無い娘の将来を仕切りに案じている。時間がない中であっても、少しでも本人の望み通りの結婚を用意してやりたい。それが、ロベルトの考えだった。
しかし、ステラの好みは分からない。本人に聞いても、『さあ?』と言う。茶化しているのか、本気なのかは、いまいち分からない。
だから、茶会や夜会があれば積極的に送り出し、お転婆な彼女に稀に縁談が舞い込めば、とりあえず会わせてみようと試みた。しかし、それらは悉く失敗していた。何せ、ステラは大人しくできない──否、しようと思えばできるのだが、しないのである。
男の方が、お淑やかな女性を求める限り、無理なのではないか。そう、薄々感じてはいる。しかしロベルトは根気強く、ステラが納得出来る相手を、そこそこ以上の家の中から探していた。
勿論、いつもなら迷わず見合いの場を設定するところだ。しかし今回に限っては、ロベルトは迷っていた。原因は、そのステラ本人にあった。
先日の皇宮での夜会から、彼女の様子がおかしい。
あの日ロベルトは、城の客間で馴染みの知り合いとの雑談に花を咲かせていた。退屈していたステラは、皇太子の提案で彼を迎えに来てくれていたそうだ。隣の客間を用意され、ステラはそこでロベルトを待っていた。
その間に何かあったのだろうかと、ロベルトはずっと考えていた。あの時、お帰りなさいませと言ったぎこちない笑顔が、何度も頭を過った。何故か、その足元にフォークが落ちていて、窓が開いたまま冷たい夜風が流れ込んでいた。
遅くなった父に憤る様子もなければ、怪我もなんの乱れもない。素直に何かあったのかと訊いても、ちょっと疲れただけだという。結局ロベルトはそれ以上追求することを避け、残りの挨拶もそこそこに帰宅を選んだ。帰りの馬車の中でも彼女はじっと押し黙っていて、息子らも何か言いたげだった。
あれからずっと、娘の調子が戻らない。
茶会や夜会があれば黙って行き、日常茶飯事の脱走騒ぎも一切なく、食卓ですらひたすら沈黙である。静かすぎる邸に、一家だけでなく使用人までもが調子を狂わせていた。
相談に乗ろうにも、なんとか気丈にふるまおうとする彼女の気持ちを踏み躙るのも気が引けて、ロベルトも兄弟たちも何も出来ずにいた。結局、とりあえずはそっとしておこうという事になったが、それももう一週間も前のことである。
家族にも打ち明けられぬ悩みに苛まれる彼女を、ただ見守りながらロベルトは考える。こんな状態でいる娘に、更に苦痛を強いる必要があるかと。このまま婚約が決まったとして、それは本当にあの子が望む選択だろうかと。
ステラの破天荒さがなりを潜めた途端に、これ幸いと寄越された縁談。態度を改めたという勘違いか、それとも、婚約者を宛がうことで、このまま無理やり大人しくしてしまおうという意図か。何れにせよ、娘が幸せになれる話かと言われれば、ロベルトは首を振るしかない。
一方で、ステラにもう時間がないのは確かなことだ。本人は気にもしていないだろうが、もう既にちらほらと、彼女は行き遅れてしまいそうだというような話を小耳に挟んでいる。ロベルトがそれを耐えられないのは、貴族の誇りがどうとかいうよりも、父親としての純粋な気持ちだ。
結局ロベルトは今日も結論を出すことができず、便箋を畳んで机の端に寄せたのだった。
◆
ベイリー一家には、とある習慣があった。
夕食の後、すぐに席を立たずしばらく茶を飲むのである。大体、当主であるロベルトの好みに合わせて淹れられた紅茶が出る。これも、夕食の時間内にステラのお喋りが終わらなかったことが発端で、それに度々付き合ううちにいつの間にか定着したのであった。
しかし、今日ここにいるのは男四人であった。一輪の華もなければ言葉もなく、男たちはただ重苦しい空気の中、時々誤魔化すようにティーカップを傾けていた。早番で帰ってきたルイセントが、思うところありげに隣の空席を一瞬見遣った。今日は誰が沈黙を破るか、兄弟はそわそわしていた。
この異様な空気が、もう一週間以上、毎晩続いている。原因は、やはり末娘のステラである。ここ数日、彼女はすっかり沈んでしまっていて、夕食を無言で終えるとそそくさと部屋に戻ってしまうのである。
発端の妹がいないのだから、解散すればいいものを、一晩も欠かさず食卓に残って重い空気の中茶を啜っているのだから、全く律儀な男たちである。
もう幾度となく、ステラの悩みについては意見を交わした。というより、それくらいしか話すことがないのである。この家では常に、口を開くのも口を開かせるのもステラの役割であったし、それでよかったのだ。『彼女のおかげで家族仲がいいのだ』と言っても過言ではないかもしれないとさえ、ロベルトは思っていた。
毎夜毎夜、『思えば、発端は皇太子殿下の生誕祭なような気がする』とか、『ロナルドが厳しすぎたか』とか散々言っていたが、それもいよいよ進展がなくなってきた。最早ここに居る理由など、行き場のない違和感を落ち着ける為という以外は、無くなっていた。
「話がある」
見かねて口を開いたのは、ロベルトだった。
いつもは大体三兄弟のうちの誰かだったので、彼らは驚いたが、皆神妙な顔をして父の方を見る。息子たちの顔を順番に見て、父は続けた。
「ステラに何件か縁談が来ている。うちに向こうから寄越すくらいだ、どの家も力がある。だが、今の状況であの子に勧めて良いものか──おまえたちの意見が聞きたい」
兄弟は、顔を見合わせた。皆が皆眉根を寄せていたが、長兄のウィルバートは一等苦い顔をした。彼は静かな上階を一瞬、心配そうに見遣る。
時々、ステラが侍女に向かって何かを熱弁する声がここまで聞こえるのだが、最近はめっきりだ。
「薄々、気づいてはいましたが……今ですか」
ウィルバートは、嫡男である。立場上、父の書斎に入ることも多い。何か、察する切掛けがあったとしても不思議ではなかった。
「只でさえ、今は見ているだけで痛ましい状態です。何も、余計に疲れさせるようなことをしなくても……。すぐに断るかはさておいても、暫く答えを待って頂いては」
可愛くて仕方がない妹を手放したくないという思いを、ほんの少々だけ載せて、彼は言った。
「気持ちはわかりますよ、兄上。いや、一理ある」
宥めるようにそう言ったのは、三男のルイセントだった。彼は兄二人と違って政治の道には進まなかったが、その割に思考は柔軟であった。
「だけど、あの子ももう幼い子供じゃない。いや、俺たちにとっちゃ、そりゃいつまでもちびで生意気なステラでしょうが、端から見たらもう立派なレディですよ。縁談が来たって、そういう事でしょう」
血の気の多い男ばかりの士官学校を出ているからか、彼は父と兄に比べて少々言葉が粗雑であった。しかし、それももう十二の時からなので、今更誰も気にしない。
「ちょっと可哀想かもしれないけど、本人に聞いてみるのが良いのでは?嫌だって言ったら、その通りにしてやりゃいいじゃないですか」
「しかし、ルイス──」
その後も、二人はあくまで慎重に、二言三言と言葉を交わしていた。次男のロナルドが、その様子を押し黙ったまま見ていた。ロベルトは、声の主が変わるたびに視線をそちらに移動していたが、視線の端でしっかりと彼の顔を捉えていた。
兄と弟のやりとりは、あれやこれやと要領を得ない。やがて意を決したように、ロナルドが口を開いた。ロベルトの眼は、その時にはもう次男の顔を真直ぐ見据えていた。
「……いや、もう断ってしまった方がいいかと」
ロナルドは、父の眼を見返してはっきりと言った。ウィルバートもルイセントも、ぎょっとして次男の顔を見ている。兄弟の中で一番ステラに厳しく、婚約者探しにも協力的であった男だ。その反応は、当然のものだ。
「どうした、ロニー兄上」
呆然と、ルイセントが訊いた。しかし、出来るだけこともなげな調子で、ロナルドは別にと言った。
「ルイス。確かに、自分のことを自分で決めるのは、女の子と言えども、必要なことかもしれない。でもそれは、迷う余地があるときだ。……弱ってる時を狙って来るような相手を、あいつが気に入る可能性なんか、ほんの少しでもあるか?」
ルイセントは、諦めたような顔で空席を睨み、確かにと言った。
「……ロニー、それだけじゃないんだろう?」
ウィルバートが、丁寧に先を促した。ロナルドは背もたれに背を預けて、せわしなく家族の顔を見ながら話し始めた。
「まあ、ステラはもう十五だし、いくら調子が悪そうだと言ったって、あとがないのは確かだ。保留という選択肢は、賢い。……だが考えてみてくれ、兄上。抑え込むつもりか、勘違いか知らないが、向こうはもうずっとステラが大人しいままだと思って、話を持ってきた訳だろう?だが、あいつが本当にあのままだと思うか?僕は一年……いや三月と持たないと思うね。吹っ切れる切掛けくらい、あいつなら自分で見つけられる」
ロナルドは、きっぱりと言ってのけた。三人は、黙ってそれを聞いていた。
「そうなったとき、相手が変わらない態度でいてくれる保証なんてあるか?第一、凹んで復活したときのステラはもう、凄いぞ。……お分りでしょう、父上?」
ロベルトは、うなずく代わりに一瞬、苦笑した。次男はきっと、十年前の話をしている。
その日、ステラは初めてできた『お友達』の名前を聞き忘れたと、いたく落ち込んでいた。しかし、父の励ましでなんとか元気になったステラは、食事のあとどころか、ベッドに入って眠りにつく直前まで喋り続けていたくらいであった。
「それを見て、露骨に突き放されたりしたら──」
一瞬だけ、ロナルドは俯いた。そして、口に手をやって数拍黙ってから、言った。
「──可哀想なのは、あの子です」
◆
翌朝。
末娘の縁談をどうするかという問題は、ロベルトの中ではもう半分以上解決したが、最後にもう一度だけ、彼はこの話を蒸し返そうとしていた。ロベルトは、庭師に明るい色の花束を用意させると、馬車に乗り込み、病院へと向かった。
最愛の妻ルーナは、夫を変わらぬ笑顔で迎え入れた。細く柔らかい金の髪と、丸い同色の瞳が、娘と同じだ。
昨日の出来事を、ロベルトは一つ一つ話して聞かせる。それを、彼女はしきりに相槌を打ちながら、楽しげに聞いていた。
「まあ、ロニーは優しい子に育ちましたわね。本当に、あの子の言う通りですわ」
「そうだな。少々、素直じゃないが」
ルーナは夫がくれた花束を、子どもの代わりとばかりに何度も撫でている。
「ステラは、強い子ですわ。きっと、自分の幸せは自分で選び取るでしょう。止めたって、聞く子ではないわ。わたくしは、どんな結果になったとしても、あの子を産んだことを後悔などしませんよ。……大丈夫ですわ、宰相閣下の娘ですもの。どんなに迷っても、最後にはきっと最高の選択をします」
彼女は、ステラの出産を機に体を弱らせた。以来、この病院に長いこと入院していて、公爵夫人というには、不自由な生活をしていた。それでも母として、娘を恨むことをしなかった。ロベルトはつくづく、彼女に頭が上がらない。
もう一度そうだなと言った夫に、ルーナは突如大真面目な声を出した。
「先を急いてはいけませんよ、あなた。……あの子の悩みが恋煩いだったら、どうなさるおつもりでしたの?」
想定していなかった言葉に固まってしまった夫を見て、彼女は耐え切れず噴き出したのだった。