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皇太子の陰は金星の夢を見るか  作者: 袋小路 どうして
8/23

闇夜の金星


 アレクシスが夜会から戻ると、執務室には既に先客がいた。

「どういうつもりだ、アレクシス」

「……うっわ……」

 暗闇に溶け込むようにして立っていたその男──『ネイト』は、アレクシスが机の上のランプを灯してやっとその姿を表した。いつもの、無愛想に取ってつけたような敬語もなく、彼の声は何処までも冷たい。

 明らかに不敬な態度を気にもせず、アレクシスはさすがに驚いたというふうに目を丸くして、どさりと椅子に腰を落とした。しかし、次の瞬間にはもういつもの微笑みを浮かべ、侍従に飲み物をと指示した。机に葡萄酒の瓶とグラスが置かれるのを見届け、目線だけで礼を言った。

 そうしてから、やたらと長い脚を組み、皇太子らしい貫禄たっぷりに部下に向き直る。


 黒ずくめのその男は、煩わしげに仮面を取り、乱雑にソファーの上に投げるとフードも取ってしまった。血のように赤く昏い眼が、呆れを滲ませて一瞬泳いでから、アレクシスを見る。たったそれだけで、アレクシスは珍しい事もあるものだと、興味深そうに眉を持ち上げた。

 アレクシスは、何の話かなと、取り敢えずはとぼけて見せた。男は何も言わずに眉を顰める。

 彼は、基本的に寡黙な男だ。こういう時は、相手が話し出すまで何も言わないで、ただその顔を睨むのである。人間離れした美しい顔が不快の色を灯し、誤魔化すなと言葉もなく語っている。

「気が立っているな。例のご令嬢に顔でも見られたかい?」

「……ああ」

 男は、数拍の間押し黙ってから曖昧に肯定を返した。アレクシスは、頬が緩みそうになるのを何とか隠し、成程と言った。

「俺の事はどうとでもしろ」

 アレクシスは、せっかく堪えた笑いを思わず零してしまった。そして、まるで世紀の大発見でも見るかのように若い男の顔を凝視した。

「随分、必死じゃないか。……やっぱり惚れたのか?」

「……無駄な死体を見たくないだけだ」

男が、喉の奥から唸るように言った。

「正反対な性格がいい方向に作用したな。そう思うだろ、エド」

今度は、エド──エドワードが目線だけで主人を諌めた。

「アレックス」

 黒い男が、低い声で鋭く言った。親しげな愛称に似つかわしくない、有無を言わさぬ声色だった。まるで、年上の家族がそうするかのような。

 「わかった、わかった。揶揄って悪かった」

アレクシスは、さほど悪く思ってなさそうに男を宥めた。その光景を、エドワードがやはり冷めた目で見ている。

 キイ、と微かな音を立ててアレクシスは深く座り直した。青い眼は、未だどこか楽しそうだ。

「処遇は前回の通りだ。いくらなんでも、時期が悪すぎる。彼女の賢さを信じるしかないな」


 現皇帝の退位と、皇太子の即位。まさに次期皇帝という立場が内定しているアレクシスが、今派手な行動──例えば、暗殺のような──を起こすのはリスクが高すぎる。それは、本当の事だった。

 二度も後継者の予定が変われば、今度こそ国が揺らぐ。アレクシスの下に、すぐに即位できるような皇子は居ない。

 同腹の兄、アーサー。彼の、より長く豊かで平和な帝国をという遺志を継ぐために、アレクシスは今、ここに立っている。


 「勿論君もだ。確かに顔はひとりに割れたが、仕事は確かだからな。この間もそうだっただろう?なにも、調査対象にバレたわけじゃあない」

『この間』、と言うのは自身の誕生日を祝う宴での事だろう。

「これまでの働きを鑑みれば、充分温情に値するな。俺は、すぐにどうこうするような事態とは思わないね」

「……本当に、それだけの理由か?」

 アレクシスは、眉を上げて当たり前のように首を振る。

「いや?そりゃ、今日のことは俺が仕組んだからな」

「…………」

 男は、閉口した。アレクシスはその様子を見て、くつくつと肩を揺らす。

「許せ。ただの戯れだ」

飄々と、アレクシスは言った。そしてそれ以上はない、という合図代わりに、漸く赤い葡萄酒をグラスに注いだ。

「飲むか?」

「要らん」

 確固たる否定に、アレクシスはしかし楽しげに笑った。この男は、何故か彼に酒を勧めるのが好きだ。一度も、彼が首を縦に振ったことは無いが。

「今日は大変だったな。異国の来賓を相手にするのもそうだが、ローレンス伯爵のご令嬢が中々に手強くてね。何度、父君の汚職の話を漏らしそうになったか分からないよ」

 アレクシスは、肩を竦めて取り留めのない話を始めた。

「下らない話しかないなら、もう帰るが──あの男、自分の領地経営でも不正をしている可能性がある。調査をするなら、早く行け」

 男は挨拶がわりとばかりに、矢継ぎ早にそう言った。恐ろしい程整った顔から表情を無くし、仮面を鷲掴みにして、足早に部屋を出ていこうとする背中に、アレクシスはなおも語りかけた。

「ああ、分かった。……やれやれ、本当に仕事が出来る男だな」


 彼の出ていった扉から視線を動かさぬまま、しかし、とアレクシスは侍従に話し掛けた。

「彼女は、思った以上の働きをしてくれたみたいだな。俺はただ、場を設けただけなのに」

 酔っている様子など全くないが、その声色は嬉しそうである。エドワードは、じとっとした目で主を見ると、溜息混じりに言った。

「部屋を用意したのは私ですがね。……全く、気が利かないにも程が有ります。どうせ、すぐになど終わらないと分かっていて、向かわせたのでしょう?」

アレクシスは、笑った。

「そういう気遣いはおまえの担当だろう、エド。俺はローゼだけで手一杯でね。気難しいんだ」

「この間は『貴族令嬢らしくて扱い易い』、と仰っておいででしたが」

 婚約者をつかまえて、酷い言いようであった。エドワードは、ほとほと呆れている。それを横目に見ながら、アレクシスは葡萄酒を煽った。

「……しかし、あともう一歩だな。まだ、浅い」

 飲み干したグラスを置き、彼は声のトーンをひとつ落とす。エドワードは、黙った。

「もっと深く──決定的な所に、踏み込んで貰わねばな」

「……あの方は、頑固ですからね」

 ずっと、主人に厳しい返事しかしなかった侍従が、初めて素直に同意した。



 既に暗くなった廊下を足早に進み、薄汚い物置部屋に入ると、男──数時間前、ネイトと名乗った──は黒いボロ布のような上着と仮面を、どこへともなく放った。

 皇太子に借りた古い物置。もう使われていない家具や、調度品なんかが押し込まれている。どれも古く、埃臭いものばかりだ。ベッドと机と棚だけを残して、それらを適当に壁に押しやり、そうして無理やり作った空間。『仕事』のある日、彼はそこで寝泊まりしていた。

 ベッドは、昨日のままだ。凹んだ枕と、薄い布切れのような毛布が丸まっていた。

 埃で表面が白くなった棚には、数冊の本と、無数の酒瓶が不規則に立っている。どれも、高級で珍しい銘柄だ。一見して酒好きのものに見えるそれらは、しかし殆ど中身が減っていない。一度も開けられていない物もある。

 しかし机の上には小さなショットグラスと、琥珀色の液体が半分ほど入った小瓶が、栓が開けっ放しで置いてある。角に鎮座した古いちっぽけなランプが、この部屋の唯一の光源だが、今は暗く沈んだままだ。

 男は内側から鍵をかけると、何かを蹴るのも構わず、暗い部屋を進む。乱雑に靴を脱ぎ、ベッドに倒れ込むように身を投げた。


 男の顔を真っ直ぐに見下ろした、あの金色の瞳が男の思考を離さない。十年前と変わらぬ、眩しすぎる二つの金星。濡れて揺れる様子が、何度も頭の中で繰り返される。

 『会いたかったわ』、と。小さな桃色の唇が、零すようにそう言ったのに、返事をすることが出来なかった。皇太子の手足という立場がそうさせたのか、意気地無しだったからなのか、彼自身にもわからない。

「……俺もだ、ステラ」

 もう誰にも届かない小さな返事が、闇の中に一瞬だけ浮いて、消えた。


 もうずっと、恋い焦がれ続けている。

 十年前、幼くして母親を亡くした時から、もう彼の両足は王侯貴族の闇の中に囚われている。二度と光の元に出ることは無いのだと、幼心に理解していた。

 そんな少年の冷たい心を、たとえほんの一時でも、いとも簡単に暖めてしまった女の子。それが、ステラ=ベイリーという娘であった。

 今でもまざまざと思い出される、幼い少女の姿。傾きかけの陽と、柔らかい髪と眩い瞳、目に映る全てが金色に輝いていた。

 どんなに時間が経っても、忘れることの出来ない記憶だ。今なお、思い出す度に、穢れた心が焼かれるかと言う程に痛む。人の悪意と欲望に触れ、日に日に深みに嵌っていくと同時に、愛しい人は遠くなる。彼の初恋は、もうこれ以上ない程に拗れてしまった。


 幾重にもなった布越しに、確かに触れていた彼女の下肢の感触が、まだ腹の上に残っている。それが余りにも柔らかくて暖かくて、彼は気が狂いそうになるのを必死に抑えつけていた。動ける筈もない。

 時が経って、幼かった少年は青年になり、少女は女になってしまった。その赤く昏い眼に、美しく成長したその姿を、映してしまった。

 身体のどこかから、熱が駆け上がるような感覚があった。まだ、劣情など湧く余裕がある脳を、彼は自嘲した。


 上体を起こし、彼は机の上の小瓶を手に取ると、零れるのも構わず乱暴な手つきで、ショットグラスに液体を注いだ。

 酒は、好きではない。眠れぬ夜を、強制的に終わらせる為にしか使わない。いわば、薬だ。棚の中の酒瓶は、アレクシスが戯れに押し付けたものばかりだ。

 男はそれを、湧いた熱を冷ますかのように一気に煽り、顔を顰めた。喉が焼けて、数拍のうちに、脳が揺すられるような不快感を覚える。


 最後に、年頃の女性になった彼女の、僅かに触れたその手の感触が脳を掠めていく。薄い唇で、音もなく彼女の名前をかたどって、男は泥沼のような睡眠に堕ちて行った。


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