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皇太子の陰は金星の夢を見るか  作者: 袋小路 どうして
7/23

金星と紅玉


 「…………!?」


 人間は、心の底から本当に驚くと声が出ない。ステラはそれを、その身を以て知った。

 口に入れていたローストビーフが喉につかえて思わず咳き込む。咄嗟にレモネードを流し込み、事なきを得た。ステラが動き出したのを見て、男は窓のサンから飛び降りるようにして部屋の中に入ってくる。

(いや、何故!?)

 女性が一人でいる部屋と分かったら、普通出て行かないだろうか。相変わらず何の柄も無い仮面に表情が覆われていて、何を考えているのか分からない。成程、常識が通じなそうな相手ではあった。

 レモネードの後味を楽しむことも出来ぬまま、ステラはようやく状況を分析し始めた。

 目の前には、不審者。その反対側、ステラの背後には扉があり、恐らく守衛が一人か二人いる。ステラは、なんの力も持たない貴族の娘。この状況を、一人で解決するのは今度こそ難しいだろう。男は人目に触れると不味いらしい。前回大きな声を出すなと脅されたが、頼れる人間がいるならば、頼るべきだろうか。

 男は、じっとこちらを見ている。確かに、視線を感じる。男が立つその場所だけ、ぽっかりと黒い穴が空いているようだった。

(守衛を呼ぶのが正解だわ)

 ステラはそう結論づけて、振り返っていよいよ息を吸った。


 ──カラン、と握ったままのフォークが床に落ちる音だけが響いた。

 ステラの口を、薄い手袋に包まれた手がまた覆っている。それ程力は強くないが、ステラはやはり、体が硬直して動けなくなった。すぐ背後から、男の呼吸が僅かに聞こえる。

「君のような人畜無害な人間を、殺すような趣味は無い」

男が、逃れようもない至近距離で言う。低い声に、ステラはぞくりと背中が凍る心地がした。背に触れる体温にすら、意識が向かない。

 二度目の、命の危機。ステラの脳裏に、隣の部屋にいるであろう父親の顔が浮かぶ。

(御免なさい、お父さま!今度こそ、帰れないかもしれませんわ……)

父がこの部屋に来た時、悲惨な状態で倒れていたらどうしよう?ステラは思わずそんな想像をして、蒼白な顔をさらに青くした。

 「出来るなら、拘束も避けたい。……大人しくしていろ」

それは、僅かに頼み込むような言い方だった。声色は冷たいが、嘘では無いと思って、ステラは無言で頷いた。

 「……お嬢様、どうかなさいましたか?」

フォークが落ちた音か、それとも僅かな物音かに反応して、守衛らしき男の声が聞こえる。上手く誤魔化してくれ、と小声のまま男が言って、ゆるりとその手が離れていった。

 ステラは、迷った。だが、守衛を呼んだとして、彼が来るより、男が持つ短剣がステラの身体を裂く方が早い可能性だってある。

「──な、なんでもありませんわ!ちょっと、手が滑っただけですの」

 やっとの思いでそう言うと、守衛は左様でございますか、と言って再び黙った。肩の力が抜ける。

 ステラは、恐る恐る男の方を見た。


 男は、二人掛けのソファーに乗り上げ、膝を立てて座っていた。部屋が明るく照らされているお陰で、前に会った時よりも、その様子がよく見える。ステラは何も言わず、まじまじと男を観察した。

 羽織っているマントは、もうあちこち擦り切れてボロ布のように草臥れているが、中に着ている服はやはり上等なもののようだ。のりのよく効いた黒いシャツに、細身で同色のスラックスを穿き、やはり腰に鈍い金色の短剣を挿していた。

 年齢は成人したばかりか、それより少し若いかといった所だろうか。しかし、その割に布から覗くその体型は、華奢そのものであった。もちろん顔は見えないが、やや長い前髪までもが、仮面に同化してしまうくらい深い黒だ。

 男もまた、じっとステラのことを見ているようだ。男はステラに何をするつもりなのだろう。殺す気は無い、と言ったか。命の危機でないとすれば──『貞操の危機』と言う奴か。

 と言っても、具体的に何をされるのかはいまいち知らない。巷で流行っていた小説の該当シーンを指さして家庭教師に訊いても、頑なに教えてはくれなかった。しかし、『男女のアレソレ』であるらしい。

 ……とすると、これまで真面目に婚約者探しをしてこなかった報いだろうか。ステラは今まで何回も、見合いの席をぶち壊しにしてきた。『あとはお若いおふたりで……』などと言われてしまっては逃げにくくなるので、その前に尽く脱出を図ったのである。

 どうせ純潔を失うならば、せめて同意できる状況くらい欲しかったと、ステラは虚空を見つめて涙した。十年も前の幼い恋心など、捨ててしまうのが正解だったのだろうか。

 「……何が目的か存じませんけれど、命さえ助かるのなら、この際構いませんわ」

ステラは小声のまま、やけくそになってそう言った。

「さあ、煮るなり焼くなりお好きに──……」

そう言って、無抵抗に手を広げようとしたその時だった。

 急に話し出したステラに反応してか、男が顔を上げた。明るい部屋の照明の光を、黒い仮面が拾って反射する。その瞬間、ステラは絶句した。

 その光が一瞬暴いた、その仮面の向こうの赤眼を、彼女は確かに見たのだった。


 「……赤い、瞳」

「!」

男はビクリと肩を震わせた。ステラはそれきり言葉を失って、金色の瞳で穴が開くかと言うほど仮面を凝視している。二人の間に、それまでと違う緊張が走った。

「……何の話だ」

 男は、明らかに狼狽していた。この部屋には二人しかいないというのに、自分の瞳の色くらいわかっている筈なのに、そんな的はずれな事を訊いてしまうくらいに。

「貴方の話に決まってますわ」

ステラは無慈悲に、そう言った。

「……お顔を、見せて頂いても?確かめなければならないことがありますの。その代わり、わたくしの身はどうとでもすればよろしいですわ」

 ステラはもう、余計なことを考えている余裕がなかった。困惑と郷愁で、自分の命のことすら忘れてしまっている。この部屋にいる二人にはもう、正気などなかった。

 「……やめろ、それ以上喋るな」

冷たい、否定の言葉。短いその言葉が、僅かに震えていた。視線が、仮面の向こうで泳いでいる。

「いいえ」

「君が知るべきことなど、何も無い」

「ありますわ」

「……何を……」

「さあ?でも、そのように油断をしていると──こうなりますわよ!」

 ステラは、終わりの無さそうな応酬を自ら断ち切って男に飛び掛った。肘置きに後頭部を打ってか、う、と男が小さく唸った。

 薄い腹の上にのしかかって動きを封じ、腰の短剣を鞘ごと無心で取り上げ、反対側のソファーに投げる。金色の鞘が、生々しく輝いた。

 すると男は、存外に大人しくなった。封じ切れなかった手が、だらりと床に垂れている。

「意外と暴れませんわね」

「……手際よく、武器を取られてはな」

忌々しげに、男は言った。ふうん、とステラは返事をして、態と数拍置いてから、手早くその顔から仮面を奪った。


 光の元に晒された男の顔が、眩しさからかくしゃりと歪んでいた。やがて、長い睫毛が徐々に開いて、赤い瞳が顕になる。

 憂いを帯びた、真紅の瞳孔。鮮血をこぼしたような虹彩を絶望に歪ませ、男はステラを見た。仮面を握るステラの手に、幼い少年の体温が蘇る。

「……お久しぶりですわね」

 ステラは、絞り出すように言った。

「会いたかったわ」

男が、緩やかに眼を瞠った。


 その男の顔は、余りにも現実離れした美しさを持っていた。人知れず日陰で育てられてきたかのような、病的なまでに白い肌に、黒曜の髪と長い睫毛、その間の昏いルビーが何処までもよく映える。相変わらず、歳不相応な隈がくっきりと下瞼に刻まれていた。

 見まごう筈もない。幼いあの日、名前も聞けなかった初恋の少年が、美貌の青年になってそこに居た。

「忘れてしまわれたかしら。……出会ったのは、もう随分前のことですものね」

 何も言わない彼に、ステラが寂しさを堪えて言った。声が詰まりそうになるのを、耐えきれただろうか。

 眉を歪め、目を逸らせぬまま青年は緩やかにかぶりを振った。今度は、ステラの方が目を大きく見開く番であった。

「いや……よく覚えている」

ぽそりと呟くような小さな声だったが、ステラの耳は確かにそれを聞いた。頬が、仄かに熱を持つのがわかった。

「だからこそ、関わってはいけなかった」

青年は、深く眉根を寄せて言った。

 痛い程の後悔が滲むその言葉が、深く深く、ステラの胸に突き刺さる。こんなに心が痛んだことは、これまで無かったかもしれない。再会を願っていたのは、自分だけだった。その事実が、ずしりと音を立てて肩に伸し掛る。

 このまま、この薄い胸に突っ伏して泣き喚いてしまいたい。そう思うのを、ステラは必死に抑え込んだ。

 ステラは、出来るだけ無表情を貫きながら、青年の腹を降りた。彼は漸く上半身を起こし、ひとつ息をつく。その横顔を、ステラは遠くを見るように見つめているしかない。


「……ならば、早く殺してしまえば良いですわ」

 冷えきった、声が出た。十年もの間、ステラの心を温かく支えてきた希望を失ってしまった。一瞬で空っぽになってしまった心が、必死に温もりを求めて喘いでいる。

 諦め切れるだろうか。まっさらな瞼が開いた瞬間、その血のように赤い瞳に、吸い込まれてしまいたいと確かに願った。ステラはきっと、もう忘れることは出来ない。

 青年が、困惑してステラを見た。

「……いや……俺は、最初からそのつもりは無い」

彼が、赤い瞳を揺らしてどこか宥めるように言う。どうして、そんな声を出すのだろう。もう、優しくしなくてもいいのに。

 今からでも、その声で会いたかったと言って欲しい。心が、醜くそう叫んだ。ステラは、弱い。

 次から次へと湧いてくる身勝手な願いを、ぐっと飲み込んで黒い仮面を返した。それを受け取った手が僅かに触れて、ステラはいよいよ堪えきれなくなってしまう。

「なら、あとひとつだけ、聞いて下さる?」

「……」

彼は、先を促すように押し黙った。その瞳で、俯くステラの頬を探るように見ながら。

「お名前を、聞きたいの。……絶対に誰にも言わないから。わたくしだけの、秘密にするから」

 それは、ずっと胸に抱え続けた苦い後悔。どうせ忘れられないのなら、この恋心を、もっと深く胸に刻んでしまいたかった。どんどん声が小さくなって、お願い、と言った声は殆ど吐息のようだった。


 彼の目が迷うように泳いだのと、隣の部屋から大きな笑い声が響くのが同時だった。彼は肩を硬直させて壁を見てから、意を決して口早に言った。

 柔い力で、ステラの右手首を取って。

「声には出せない。出来るだけ丁寧にするが、一度だけしか書かない」

 全身の意識が、手首に向かっていた。薄い手袋一枚を挟んで、じんわりとその熱がステラに入り込む。はち切れそうになる思考を必死に保ち、ステラは何とか頷いた。

 それを見届けてから、細い親指がステラの掌を滑った。肩が、震える。たった四文字、なぞる時間が何十分にも思えた。ステラは、そっと離れた手の体温を閉じ込めるように、胸の前で右手を握った。


 『──それでは、宰相殿。大分長く話し込んでしまったが、今宵はこの辺りで。さぞ、お嬢様も待ちくたびれておりましょう。可哀想な事をしてしまいましたね』

 がちゃり、という扉の音と共に廊下から大きな声が聞こえた。二人は思わず、扉の外を振り返る。

「ステラ」

 焦がれたその声が、迷いがちに名前を呼んだ。とても小さな声だった。ステラは、焦りを募らす二つのルビーを弾かれたように見た。

 「今の皇宮を、あまり歩き回るな。いつにも増して、数え切れない程の思惑が渦巻いている。……わかるだろう」

例の噂のことを、言っているのだろう。ステラは頷いた。

 廊下では、まだ話し声が聞こえる。羨ましい限りです、うちの娘など──と、大袈裟な男の声が聞こえた。

「何処で誰が、何を話しているかわからない。耳にしただけで、命を失うような事も有り得る」

ステラは、先を急くように矢継ぎ早なその言葉を、黙って聞いているしか無かった。

「……たとえ、もう会えなくてもだ」

「……え?」

 思わず、声が洩れた。どうして、そんなことを言うのだ。今頃、別れを惜しむような言葉を。

 それ以上、何も言わずに彼の身体が離れていく。

『この部屋に娘がいると聞いているので、私はここで。……静かなところを見ると、うたた寝でもしているかも知れませんな』

 父の声が聞こえた。

 それでも、もう少しだけ、と思った。最後の、寂しい言葉の意味を知りたかった。しかし、まってと言った囁きは小さすぎて、もう彼に届かない。

 短剣を腰に挿し直し、仮面を再び顔に当てながら、『ネイト』は瞬きの間に部屋を出ていってしまった。


 「待たせたな、ステラ──寒くないのか?」

 守衛がドアを開ける音がして、部屋に入ってきた父親が言った。ステラの視線の先で、白いカーテンが虚空に揺れている。

「……いいえ、お父さま」

 ステラは父親を振り返り、精一杯の笑顔を取り繕って、おかえりなさいませと言った。


 足元に落ちたままのフォークだけが、はっきりと異常を訴えていたが、それが意味を成すことは無かった。


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