憂鬱
ここの所、皇宮での催しが多い。
今夜は友好国の来賓を饗す夜会だそうだ。その国の王女らしき人物が、高い階段の上で異国の貴族たちを見下ろしていた。
しかしステラは、やはり機嫌が良いとは言えなかった。
今日はルイセントが、非番だからと言ってステラのエスコートを名乗り出た。貴重な休みなのだから、家で趣味のカードゲームにでも興じていればいいものを、全く殊勝な男だ。
ステラは、最低限の挨拶を終えた頃に、それとなく傍を離れたものの、この間の事件を思い出すとやはり外に出る気にはならない。彼女は何もすることがなく、大広間の隅でたった一人、味気ないミックスナッツを摘んでいた。退屈である。
この間のことがあったので、ステラは事前に用意したメモを、こっそりルイセントの襟の後ろに仕込んできた。
『お兄さまへ。お城の中におります。そんなに遠くへは行きませんので、ご安心なさいませ』と丁寧な字で書いて、可愛らしいサインまでつけた自信作だ。これなら、文句はあるまい。
壁沿いにちょこんと置かれたシングルソファに腰掛け、ステラは何とは無しに貴族の会話に聞き耳を立てる。
『アレクシス殿下、本当にこのままご側室を持たれる気はないそうよ。ローレンス伯爵のご令嬢が、そう言って振られたのですって』
『いやはや殿下のご成人を待って退位とは、陛下は引き際までお美しい。まさに、名君ではないか。アーサー殿下も、きっと喜んでおられる』
『そういえば、第二皇子殿下はお幾つになられたかご存知?そもそも、ご存命なのかさえ──』
最後の女性の声は、何者かが鋭く遮った。それはそうだ。本人が居ないとはいえ、事もあろうにこの皇宮で、皇族の生死を勘ぐるとはなかなかに度胸がある。
アーサーというのは、第一皇子であった。アレクシスが十三の頃、皇帝の後継者が決まる直前の『急病』でこの世を去った。実の兄弟であったアレクシスと大層仲が良く、微笑ましい姿が貴族を虜にしたものだ。
第一皇子にして正妃の息子。当然、皇位継承権は第一位であったし、彼が立太子することに誰も文句などないように思えた。
だと言うのに、この結果。一体どこで何が狂ったというのか、ステラたち貴族にはわかりようもない。噂が憶測を呼ぶ。彼の死は、様々な人の心に深い傷を刻んだ。
『命など、紙一枚よりも──』
先日の怪しい男の言葉が、脳を掠めていった。
第二皇子は、謎に包まれた人物である。
名前も容姿も、詳しい事は一切わからない。正確に解っているのは、確かに皇家に生まれているということ、継承権を早くに放棄しているということだけ。確か十八になる筈だが、これ迄一度も社交の場に姿を表しておらず、政治にも手を出さない。
もちろん、表向きには存命である。しかし、皇子というには余りにも情報が少なすぎる。皇帝すら、彼については何も語らない。だから実の所、その生死が怪しいというのは本当のことであった。
彼は最早、お喋り好きな令嬢たちの『皇宮にまつわる不気味な噂』としてしか存在していない。ましてや貴族の権力争いの場では、もう居ないものも同然であった。
だから、アーサーの死で宙に浮いてしまった皇太子の座は──
「やあ、ステラ嬢。ご機嫌ななめかな?」
──この男に回ってきた、という訳だ。
アレクシスは、皇帝譲りの青い瞳を優雅に細め、和やかに声を掛けてきた。勿論、傍らには着飾ったローゼを伴っている。彼女は豪奢な赤いドレスを揺らし、ご機嫌ようと言った。
ステラは、隅っこだからどうせ目立たなかろうと、少々お行儀悪くなりかけていたのを慌てて正し、立ち上がった。
「これは、アレクシス殿下にローゼ様。失礼致しました、少々考え事をしておりまして」
「そうなのかい?もしすることがないのなら、東の客間に向かっては如何かなと、勧めようと思っていたのだが」
「……東の……あの一階の客間ですの?」
怪訝そうな顔をして、ステラは聞き返した。アレクシスは笑顔のまま頷く。
ステラは何回か、父親の用事にくっついてきた際に通してもらったことがある。
「そちらに、一体何が?」
「宰相殿がいるはずだ。先程私も挨拶をしてきたよ。今日は早いうちに帰宅すると言っていたから、そろそろ戻るのではないかな……なに、此処から程近い客間で話せるような内容しかない。心配することは無い」
「まぁ、そうですの。お父さまが……」
どうして、そのようなことを言うのだろう。アレクシスは、何故か楽しそうな顔である。
「いや、折角なら一緒に戻った方が良いだろうと言うだけさ。それに、その廊下なら中庭を安全に見渡しながら歩ける。守衛も立っているしね。……兄上には、私から言っておこう」
アレクシスが、ウィンクをしながら言った。……ルイセントだろうか、余計なことを話したのは。ステラは苦笑いを隠しきれないまま、しかし首を縦に振った。
「ええ、ではそうさせて頂きますわ」
東の客間へ繋がる廊下は、重要な会議室などのある棟に繋がる。それもあってか、足を踏み入れるのは、皇宮に呼ばれる貴族の中でも高位の者が中心だ。談笑する初老の紳士や、イブニングドレスの女性たちが声をかけてくるのを無難に躱しながら、ステラはカーペットの上を歩いた。
廊下は明るく、陽の落ちた中庭の暗さが際立つ。相変わらず、噴水の音が聞こえていた。ステラは、『散歩なら最初からここにすればよかったでは無いか』、と些か思った。
近づいた客間から、男性の賑やかな声が聞こえる。確かに、父も居るようだ。他のものより一段落ち着いた声が、何かを言った。
「レディ、お入りになられますか?」
扉の前に立っていた守衛の騎士が、ステラを見て丁寧に言った。ステラの顔は、宰相の娘として既に有名だから、きっと知っていたのだろう。
「……いえ、まだお話中のようですし、私はこちらで外でも眺めて待ちますわ。お邪魔をしてはいけませんもの。ほら、お仕事の話もあるでしょう」
ステラは、少し考えてそう返事をした。すると守衛は、人の疎らな廊下に女性が一人という状況を思ってか、一瞬考えるような仕草をしたが、やがて畏まりましたと言った。
「ステラ=ベイリー様で御座いますね」
ステラは、客間の中から聞こえる会話などに一切興味もなく、結局手持ち無沙汰に外を眺めるしかなかった。そうして何分経っただろうか、いよいよ限界が来そうな頃、爽やかな青年の声がステラの名を呼んだ。
会場の方から歩いてきたのは、背の高い好青年だった。緑がかった灰の髪に深い翠眼をもち、すらりとした身体に、夜会の招待客と言うには地味な服を纏っている。
何度か、見ている顔のような気がする。しかし名前が出てこない。ステラはぐるぐると記憶を辿りながらも、ブルーグレーのドレスの裾を摘んだ。
「今晩は、ミスター。ええと……」
何処で会ったのだったか。よく誰かと一緒にいたような姿が、ぼんやりと浮かぶ。そう、あの、やたらと爽やかな細い茶髪と青い瞳の──。
「……失礼。もしかして、アレクシス殿下のお付の?」
「覚えていてくださったとは、光栄です。エドワード、と申します」
エドワードは、胸に手を当ててにこやかに一礼した。完璧な紳士である。皇族ともなると、侍従の育ちもかなり良いのだな、とステラは当たり前のことを思った。
「まぁ、御丁寧に。ええ、わたくしは如何にもステラ=ベイリーですわ。何か御用だったかしら、エドワード様」
「主人が、貴女を此処へ行くよう勧めた、とお聞き致しまして。もしや、ご不便をお掛けしているのではと思い、慌てて参った次第でございます」
あの方は、全くもってそういった気が利きませんので。そう小声で言って、エドワードは肩を竦めた。
「案の定、廊下にお一人でいらっしゃる。隣の客間が空いていますので、ご用意させております。どうぞ、此方へ」
「まぁ……なんだか、ご迷惑をお掛けしてしまいましたわね」
そう言いつつ、ステラは正直、助かったと思った。静かにしていると、先日の物騒な出来事ばかり思い出されて、少々肌寒い。折角の申し出を断るのも不粋なので、とステラは素直にエドワードに着いていくことにした。
通された客間は、明るく整えられていた。絶妙なタイミングで、どこからとも無く侍女が軽食と飲み物を持ってきた。これまた御丁寧に、毒味は済んでおりますと言って、彼女はそそくさと出ていった。ステラなど、殺した所で何も出ないのは判りきっているので、別に良いのだが。
「外に守衛を置いております。御用があれば、その者にお申し付けください。お父上には、既に伝えさせておりますので、御安心を。……簡単ではございますが、どうぞお寛ぎください」
エドワードは、そう言い残して戻って行った。広い部屋に、ぽつんとちっぽけなステラだけが残される。
流石にしばらく緊張していたが、徐々にステラはそれも意味が無いと気づいて、背に入った力を抜いた。グラスに入った淡い黄色のレモネードを、ひとくち啜る。小腹がすいていたし、食べるくらいしかすることが無いので、ステラは有難くフォークを取った。
二十分ほど経った頃である。ステラは、皇宮お抱えの料理人が作ったローストビーフを頬張って、すっかりご満悦だった。
そうして二枚目の肉を飲み込もうとしたステラの耳に、窓がやや乱雑にあけられる音が響いた。
吃驚してそちらを見るのと、喉の奥に肉がストンと入り込むのが同時だった。
視線の先で、顔まで黒ずくめのあの男が、窓のサンに足をかけたまま固まっていた。
「ロニー兄上、ステラを見なかったか?」
「またか…。いや、見てない。…おい、襟に何か仕込まれてるぞ、ルイス。最近モテるのか?」
「え」
『お兄さまへ──』
「…」
「…ああ…可愛い奴だよ、あいつは」