兄妹(きょうだい)
「騎士さま……騎士さま〜……」
暗い皇宮の中庭。ステラは、ほとほと困り果てていた。
道に迷って怪しい男に出会い、命拾いして逃げてきたはいいものの、相変わらずここが何処なのか分からない。警備の騎士でも呼んで帰れと言うが、その騎士どころか人間が一人もいないではないか。
ここは皇宮ではなかったか。どうして誰もステラに気づいてくれないのだろう。
散々な目にあったステラは、もはや泣きべそをかいていた。未だかつて、脱走という行為をこれ程までに反省したことは無い。今のこの状態を、ロナルドに見せてやりたい。
一刻も早く、家族に会いたかった。
「何方か、何方かいらっしゃいませんか……」
そう呼びかけた声は、半ば諦めてしまったのか、もう殆ど呟きと呼んで偽りないか細いものであった。
濃い闇が、尚もステラの不安を煽る。
こんな暗いところにまだ一人でいて、再び妙な人間に絡まれたら?今度こそ、無事に帰れなくなったら?縁起でもないことを考えながら、ステラは戦々恐々とした。
あの男は一体なんだったのだろう。
『ここでは、ステラの命など紙より軽い』と、男は確かにそう言った。きっと、煌びやかな皇宮の裏側のことを言ったのだと思う。
ステラがどんなに嫌だと言ったとて、貴族社会に生まれた以上避けて通れない醜い噂の、その真実を知っているかのような言葉だ。そこまで言うような何かを、見てきたのだろうと思う。姿を見られないように徹底するのは、それなりの立場がある男だからこそだろうか。
権力というカーテンが隠している、皇宮の裏側。きっと多くの命が、涙と共に流れた事だろう。
不安な上に、陰鬱な気持ちで、もうステラはどんな表情をしていいのか分からない。
幾つ目か分からない街灯の下、夜会に来た公爵令嬢に有るまじき酷い顔で鼻を啜っていると、カシャンというような金属音がステラの耳に届いた。
「ヒッ」
心臓が口から出るかと言うほど驚いて、ステラは思わず悲鳴をあげた。
もうステラの脳はすっかり悪い想像に囚われてしまって、ああわたくしはまた不審者に目をつけられて今度こそ闇に葬られるんだわ、と絶望していた。
足音のようなテンポのよいそれはだんだん近くなって、暫くすると止まった。
街灯の光を磨かれた鎧で受け止めながら、闇の中から現れた男はその顔を歪めた。
「ステラ?なんでこんな所に一人でいるんだ?……ひっどい顔して」
男は小脇に外した兜を抱えて立っていた。
暗めの茶髪が、あちこち跳ねている。ステラは、まるで神を見るかのような視線で、目の前の騎士──ベイリー公爵家三男、ルイセントを見た。
「ルイスお兄さま……!ああ良かった、歩けど歩けど暗闇で、もう死んでしまうかと思っておりましたの」
「皇太子殿下の誕生会だってのに、また逃げ出してきたな?全く困った奴だよおまえは……。それで、調子に乗って散歩してたら迷子になって寂しくなったのか。どうせそんな所だろう?」
流石は身内、話のわかる男である。
ルイセントは自分の前髪を直そうともしないまま、妹のドレスの裾を払った。転んだか、と呆れた声で訊きながらもその態度は優しい兄そのものであった。
ステラは、思いがけず肉親が現れてこれ以上無いほど安堵した。笑顔になる筈が、箍が外れたように大粒の涙が零れる。ルイセントはますます目を丸くした。
父と兄の体力を吸収して取り込んでいるかのような、元気の塊。そんな妹が哀れな程に弱った姿をみて、彼は狼狽していた。
「一体どうしたんだ?もう泣くなよ」
「うっ……だ、大丈夫ですわ!」
「全然そうは見えないけど……。仕方がないな。大広間に戻るんだろう?俺はこれから休憩だし、お送りしますよお嬢様。その代わり、もう大人しくしてるんだぞ」
ステラは、ハンカチで顔を隠すように抑えたまま、素直に頷いた。白いそれは、もう涙と崩れたお粉で汚れに汚れている。
ルイセントはそんな妹を安心させるように、優しく背中を叩いた。
◆
「──ステラ!」
ルイセントに連れられて明るい広間の前まで戻ると、入口の階段の上で長兄のウィルバートが辺りを見渡していた。
彼は、疲れでぐったりした表情を繕いもしないステラと目が合うや否や、慌てて降りてきて上から下まで怪我がないか確かめた。
「遅かったじゃないか。心配したんだぞ。……元気がないな、何かあったのかい?」
ウィルバートは、妹の目の下が赤く腫れているのを見ると、心配そうな顔をした。
この男は、末妹に甘い。お小言は他の兄弟が言うので充分だろうとばかりに、いつも彼女を甘やかす。
「暗いとこで迷子になって、寂しかったんだとさ。随分遠くにいたよ」
ステラの代わりにルイセントが答えた。些か揶揄われたような気もしたが、ステラにはもう言い返す体力もない。ウィルバートは、そうかと言いながら目を細めた。
「それで、おまえが見つけて連れてきてくれたのか……。ありがとうな、ルイス。……ステラ、皇宮の中といえど、夜に一人であまり遠くまで行くな。無事でよかった」
夜道で出会ったあの男にも、同じような事を言われた気がする。
ステラの脳裏に、また黒い棒のような影が蘇った。兄のそれとは、似ても似つかぬ冷たい響き。
命の危険をこれでもかと言うほど感じて、逃げ仰せても不安で不安で仕方なかったということを、優しい兄に打ち明けてしまいたくなる。ステラはその思いを、じっと堪えた。
ごめんなさい、と言った声はステラ自身が驚く程に頼りなかった。まるで滅多に怒られない深窓の令嬢のようなそれが余計にウィルバートの心配を煽ったのか、彼は悲壮な顔で黙り込んでしまった。
「兄上!」
ウィルバートが妹に掛ける言葉を迷っているうちに、頭上から鋭く彼を呼ぶ声が聞こえた。見上げると、ロナルドが走ってこちらに向かってきていた。
「ああロニー、悪いが今日は……」
ロナルドは賢そうな顔に怒りを浮かべ、如何にもこれから説教をするんだろうなという表情をしている。
弱り切った妹を見て、余りにも可哀想に思って怒る次男を宥めようとしてくれたのだろう。ウィルバートが再び口を開いたが、ステラはそれを手だけで止めた。
「……ステラ。一体どこにいたんだ?いつも戻る頃合になっても一向に戻らない、いつもの中庭にも居ない。いま人を割いて貰えないか、父上か殿下に相談しようと思っていたんだぞ」
静かな声で、ロナルドは言った。彼は彼で、心配してくれていたのだろう。走り回っていたのか、息を整えるに肩がゆっくりと上下した。
その様子を見ていて、ステラはまた涙が出そうになった。
「ごめんなさい、ロニーお兄さま」
「……は?」
深い眉間の皺が、一気に解れた。いつもなら、ここで言い合いになるか、あっけらかんとしたお喋りで毒気を抜かれる。
ステラが馬鹿ではないのを、ロナルドはよく知っている。だから、今日の彼の真剣さが彼女にも伝わっているだろうということは解っていたが、少しの言い訳くらいはあるかと思っていたらしい。
弱々しい声で謝罪だけを述べて頭を垂れるその姿に、彼もまた言葉をなくした。
「ロニー。もう良いだろう」
ウィルバートが、固まった彼の肩に手を置いた。ステラはおずおずと顔を上げたものの、まだ項垂れていた。
「兄上の言うことは尤もだ。だけど、ステラもこの通り反省している。脱走はともかく、もう人目のつかないところにノコノコ行くような真似は辞めるだろう」
暫く兄妹の様子を見守っていたルイセントが、ようやく口を開く。
な、と彼に声を掛けられて、ステラは無言で頷いた。未だに俯く妹を見下ろし、ロナルドはため息をついて少し頭を掻いた。
「……散歩に出るなら、近くの中庭だけにしろ。言っておくが、勝手に逃げ出していいという意味じゃないぞ。……その顔じゃ、今から出たってしょうがない。もう帰ろう。父上も、あと一時間もしたら戻る」
ぶっきらぼうに言ったつもりだっただろうが、最後に滲んだ優しさをステラは聴き逃しはしなかった。踵を返そうとするその背中に、はいと返事をした。
「じゃ、俺は夜番だから持ち場に戻るよ。明日の朝一番で帰る。お休み」
なんてことない様子でルイセントは言い、また金属音を立てて去っていく。その背中をウィルバートとともに見送り、ステラもまた、帰路についた。
どこかから、まぁ殿下どちらに行かれていましたの、と不貞腐れたローゼの声が聞こえた。しかし、ウィルバートもロナルドも、もちろんステラも、もう反応しなかった。