宵の幕間
皇宮の隅にも近い、とある部屋だった。
地上から遠い三階のその部屋に、とある青年とその侍従が立っている。青年は襟に刺繍の着いたシャツに、洒落たジャケットを着ていた。胸元には、小さな金色のバッジが輝く。
もうすっかり夜だと言うのに、その青年は照明も点けずに、窓から下界を見下ろしていた。暗い部屋で、形のいい唇が楽しそうに弧を描いている。
視線の先には、顔まで黒ずくめの男と可憐な金色の乙女がいた。遥か下に小さく見える、珍妙な邂逅。走り去る彼女の背中を、男はいつまでも見送っている。その姿を、男は人の悪そうな笑顔で見届けた。
青い瞳を細め、何かを考えるような素振りをしながら、彼は歳の近い侍従に親しげに声を掛けた。
「面白いことになったな、エド。全く、運命の悪戯にはいつも驚かされる」
エド、と呼ばれた真面目そうな彼は、呆れたようにひとつ息をついた。深い緑の瞳で主人を軽く睨み、しかし、否定も肯定もなく聞き返した。
「どうなさるおつもりで?」
青年は、ふむと態とらしく悩む振りをした。右手で、髭など全くない顎の辺りを仕切りに撫でている。侍従はその様子を、冷めた目で見つめていた。
「さて、どうしようか。今回ばかりは慎重に動かねばな、エド。……彼にもいい加減、褒美が必要だ」
楽しみで仕方がないと言った様子で、青年はあれこれ案を口にしだした。どれも、少々意地の悪い計画だった。暗い部屋の中にもかかわらず、青い瞳が輝いている。
「……全く。普通に動けないのですか、貴方は」
「センスがないな、君は。こう言うのは、障壁を乗り越えてこそのハッピーエンドさ」
あっけらかんと言ってのける主に、侍従はやれやれとかぶりを振った。
「程々になさって下さいね──アレクシス殿下」
青年の胸元で、皇家の紋章を刻んだバッジが輝いた。
◆
「やあ、調子はどうだい」
「……仕事は順調です、殿下」
全身黒ずくめのその男は、目の前の青年のにやけ顔に冷たい目線を返しながら、硬い声で言った。
男は仮面を外していたが、変わらずフードを目深に被っていたので、その顔の上半分は見ることが出来ない。男にしては白い肌が、黒い服に浮いて見えて少々不気味だ。これでは、幽霊か何かと思われても仕方があるまい。
場にそぐわない上司──アインアデル帝国皇太子、アレクシスの笑顔は無視したまま、男は暫く仕事の報告をしていた。
この男は、皇族の部下という割には、常に少々冷たくて無礼だ。尤も、アレクシス本人ははそれを気に留める素振りすらなく、彼のことを特別気に入っていた。
彼は、アレクシスの見えざる手足である。身を潜め、貴族の欲望と罪が渦巻く闇の中を歩き、指示した情報を持ってくる。
「あの伯爵の金の出処は、あと二日もあれば判るでしょう」
「ご苦労。全く、君は仕事が出来るな」
アレクシスは上機嫌に言ったが、ふと、男の視線が泳いだ。
「……殿下。恐れながら、もうひとつ」
「恐れなくてもいいぞ、俺と君の仲だ。言ってみたまえ」
男は、口元を一文字に結んで黙った。何か言いたげにしていたが、それを飲み込むように数拍置いてから、漸く薄い唇を開いた。
「姿を見られました」
「ほう?」
アレクシスは、態とらしく執務机から身を乗り出した。整った顔に嵌った明るい青の宝石が、きらりと輝いた。男は一歩後退り、続けた。
「相手は?」
「……ステラ=ベイリーです。ロベルト=ベイリー宰相殿の娘です。散歩をしていたら迷った、などと言っていましたが」
真面目なその男は、一瞬の間の後にその名を口にした。僅かに肩が強ばったのを、アレクシスは密かに感じ取った。
「そりゃあいい!可愛らしいので、大変有名なお嬢さんだよ。……惚れたか?」
「……」
男はがいよいよ閉口したので、アレクシスはわかったわかったと宥め、真面目くさって顎に手をやった。
「ふむ。まぁ、父親の立場を考慮すれば、気にならないこともないが……」
陰の手足は、安易にその存在を認識されてはいけない。広く認知されてしまっては、仕事が成り立たなくなる上に、雇い主の立場まで危うくする可能性がある。
では、もしもの際はどうするか。簡単である。その者の口を塞いでしまうのが、一番手っ取り早い。
男が、息を吸う音が聞こえた。
「彼女はお転婆なことでも有名だが、決して馬鹿では無い。流石は宰相殿の娘、と言ったところか。世間知らずの公爵令嬢と嘲るには、少々ここの出来が良すぎる」
アレクシスは、ペンで自分の頭をつついた。
「……その様ですね」
「ああ。まあ、ただでさえこの時期だ。下手に動いて、バレでもしたら全て水の泡になる。あまり大胆な事はしない方がいいだろう──様子見だな」
「畏まりました。……俺の処分は、如何様にも」
それを聞くと、アレクシスは半分いつもの調子に戻って、まさか!と声を上げた。
「俺が、君をそんな簡単に捨てるとでも?」
「……寛大なお心に感謝します、殿下」
真面目だなあ、とアレクシスは笑った。そうして、堅苦しい話はお終いと言わんばかりに、席を立つ。
「さて、俺は広間に戻らねばな。ローゼに無理を言って抜けてきたんだ」
きっと大層拗ねているだろうな、と冗談めかしてアレクシスは言う。ローゼとは彼の婚約者だが、彼女は見た目も中身も、絵に描いたような貴族令嬢といった風情で、ステラとはまるで違う。
「では、俺はこれで」
男は、そう言うと一礼して下がって行った。肉体の疲れか精神疲労か、フラフラとした足取りを見送って、アレクシスは黙って立っていた侍従と目を見合わせた。
「どう思う?」
「相当お疲れしょうね、重症ですよ。貴方様の人遣いが荒いせいです。暇を差し上げては?」
「そうかなあ……ま、暇というなら、そのうち飛び切り長いのがあるだろうさ」
「……全く……」