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皇太子の陰は金星の夢を見るか  作者: 袋小路 どうして
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暗闇の邂逅


 ここは何処だろう。


 ステラは、皇宮の外のとても暗い場所に立っていた。

 懐かしい思い出に耽って、一体どこまで来てしまったのだろう。気づけばもう街灯の光すら殆ど無く、ただ重い程の静寂がそこにあった。ステラはすっかり迷子であった。

 まばらな明かりは、見渡せども戻る道を教えてはくれない。来た道を戻ろうにも、ぼうっと歩いていたせいで記憶が曖昧だ。

 宵闇に黒く染まる広い庭園は、無闇に動けば動くほど、帰る道を隠してしまいそうな不気味さがあった。


 ぽつんと立ったのっぽの街灯の下で、ステラはどうしようもなく星々を見上げては、その視線を足元に落とす。

 仄かな光が彼女の立つ所だけを照らして、暗いその外側とを区切っていた。ステラはただじっとして、胸の中に心細さが広がっていくのを味わっている。

 退屈な夜会を抜け出して、鼻歌でも歌いながら広い城の庭を散策しようと思っていたのに、まさかこんな気持ちになるなんて想像もしていなかった。


 夜に庭園を歩くのは初めてではなかった。これまでも、貴族たちの思惑が蠢く広場を幾度となく抜け出してはここに来た。

 だけどもきっと、こんなに奥まで来たことは無かったのだと思う。何せここは帝国で一番広い城だから、しばしば訪れるステラにも知らない場所があるのは、驚くほどの事でもないのかもしれない。

 (お兄さま達、今頃呆れているかしら)

 べったりと耳に張り付くような静寂に当てられてか、先程まで傍にいた二人の兄の顔が浮かぶ。

 じっとしているのは、苦手だ。ましてやこんなに暗い場所では、ロナルドの憎まれ口すら恋しく思えてくる。

 どうせ誰もいないのだから、大声を出したら少しは気が紛れるだろうか。もう、到底鼻歌など歌える気分ではなかったが。


 落ち着かない気持ちで、寂しさを押し殺すようにあれこれ考えていると、ふと風が吹いた。ざわり、と何処かで木の枝が囁く音がする。

 ステラはその中に、僅かに布がはためく様な音を聞いた。ルイセント──騎士のマントが、風に煽られてたてるような音だ。重たい静けさに、耳が音を拾おうと必死になっていたのだろうか。

 音のした方向を見ると、視線の先で黒い何かが揺れている。街灯の明かりの名残が、確かにその存在をステラに知らせていた。

 真黒い布きれのようなマントと、仮面で身体を隠して、それは棒のように立っている。僅かに、一瞬だけ覗いた華奢な首だけが、男だろうかと思わせた。視線の気配だけで、目が合ったのを察した。

 (……怪しすぎるわ……)

 ここまで、『怪しい』という言葉がそのまま具現化したような男が居るものか。ステラは絶句していた。


 呆れか恐怖か分からないが、何か言わないとと思ったのに喉がつかえた。男が、こちらを見据えている気がする。

「……あ」

 声が出しにくくて、何度か開いたり閉じたりしていたからか、やっと出たと思ったそれは意味の無い擬音だった。ぴくり、と男の肩が反応しただろうか。

 ステラは、どうなってしまうのだろうと数分後の自分の身を案じる。

 目の前の人間は、明らかに普通ではない。皇族の暮らす城にこんなに解りやすい不審者を入れるほどの穴があったとは驚きだが、今のステラにはそんな事を考える程の余裕が無い。

 いつもはよく回る思考を、恐怖がじわりと侵していく。


 「……こ、今晩は」

 やっとの思いで、そう言った。黙って逃げる方が良かっただろうか。権威ある父によって守られた場所で育ってきたステラには、何が正解か分からない。

「あの、わたくし、道に迷ってしまいまして。大広間に戻る道を、ご存知ないかしら──!」

 言い終えるか終えないかのところで、男が動いた。体を覆う布を揺らし、足早に近づいてくる。

 数拍ののち、降りかかるのは暴力か殺意か。

 身体が石のように固まって、逃げなければという脳の指示に従えない。闇そのものであるかのように黒い布から男の骨張った腕が伸びるのを、ステラは情けなくもただ見ていることしか出来ない。オオカミに追い詰められた哀れな子羊のように、彼女の体は震えていた。

 目の前に、細い指が迫る。ステラは必死の祈りとともに、固く瞼を閉じた。



 薄い手袋に覆われた男の指は、怯える少女の口許を塞いでいた。

 男はそのまま、ステラを街灯の明かりの外に押し出した。それ程の力は込められていないのに、勝手に身体がそれに従う。恐怖に支配された頭が、そうさせた。

 もう僅かにしか光の届かない闇の中で、男がもう片方の手で短剣のようなものの柄を握っているのが一瞬、見えた。ステラは、息を呑んだ。

「──大声を上げるな。こちらの質問にだけ答えろ」

 男が低い声でそう言った。唸るようなそれに、ステラはただ頷くしかない。いいな、と念を押してから男の手は離れて行った。


 男がその顎を話した瞬間、ステラはまるで乱暴に突き放されたようによろけてしまった。心臓を手で抑え、肩で息をする。まだ生きている。

 地面に座り込みそうになるのを必死に堪え、恐る恐る男の顔を見る。仮面の影になって、瞳の色すらよく見えない。

 この男は、何者なのだろう。何処から来て、此処で何をしようと言うのだろう。何となく、それを知ってはいけない気がした。

 短剣の柄を握った方の肘が布を持ち上げて、男の身なりを覗かせていた。呆れたことに男は中にも黒い服を着ていたが、外側の布よりもずっと上質なものに見える。


「お前は、誰だ」

 男が声色を変えずにそう訊いた。名乗れ、と言うのだろう。

 ステラは、躊躇った。こんな怪しい人間に、名前など教えて良いものだろうか。しかしそれも、その腰の短剣が握られる様にすぐに消えた。

 有力貴族の名に一縷の望みをかけて、ステラは口を開いた。

「……ステラ=ベイリーと申しますわ」

「……」

 は、という呼吸の音が聞こえた。張り詰めた視線が揺らぐ気配がする。

 大きな権力を持つ帝国宰相と同じ苗字と気付いたからだろうか。男は何も言わずに、腰の短剣に遣っていた手を、音もなくすとんと落とした。

 ステラはそれを見て、今度こそ力が抜けて地面にへたりこんだ。


「迷ったと言ったな」

 ステラは、黙って頷いた。男の言葉に、無事に帰れるだろうかと不安になる。家族の顔が、切なく頭を掠めて行った。

「それならその辺の騎士でもなんでも呼んで、直ぐに戻れ。此処で俺に会ったことは、誰にも漏らすな」

 男は、冷たい声でそう言った。

 ステラは男の腰の辺りを呆然と見詰めていたが、その言葉にはっとして顔を上げた。仮面に穴がついているはずなのに、その向こうは影になっていてやはり見えない。

「帰して、頂けますの?」

「……喋るな」

 思わず尋ねてしまって、一瞬のうちに猛烈な後悔に襲われた。これが男の逆鱗に触れたらと戦々恐々としかかったが、男はそう咎めたきり動こうとしない。

「見逃してやる、と言っている」

 冷たい声で、男が言った。

 お前の命は自分が握っていると、そう言外に語るような言葉だった。態度次第では殺すという男の意図が、痛いほどに伝わった。

 男が、この名前にたじろいだのだと勘違いしていた。男にとっては宰相の身内が死のうが、別に困りはしないのだ。どうとでもなる。それだけの、力を持っている。

「皇宮だから安全と鷹を括らない事だ。皇族ですらない人間の命など、此処では紙一枚よりも軽い。……わかったら、早く行け」

 殺しなどしたくはない。言外に、そう言ったような気がしたのはきっと気の所為だろう。ほんの僅かに感じ取った懇願するような声色を、ステラは胸の奥へと仕舞い込んだ。

 力の抜けた四肢に鞭打って、ステラはやっと立ち上がる。

 どんな顔をして、踵を返せば良いのだろう。ステラは、男の視線を避けるようにして身体の向きを変えた。顔を見返してしまったら、その仮面の向こうを想像してしまったら、もう戻っては来れないと心臓か脳か分からない部分が告げていた。

 汚れてしまったかもしれないドレスの裾を気にもせずに、何も言わずに走り出した。


 街灯から街灯へと、闇を縫うように彼女は進んで行く。その背中に視線を感じていても、振り返ることは出来なかった。



 走り去る女の背中を、男は見えなくなるまで見送っていた。

 それが彼女の行動を最後まで監視するためであったのか、それとも違う意味を持った行為だったのか、仮面に覆われたその表情から読み取ることは出来ない。

 その男には言葉もなく、感情もわからない。ただ、背中に街灯の明かりを受けながらまるで黒い棒のように立ち尽くしたまま、クリーム色のドレスの裾が揺れる様をぼんやりと眺めていた。

 腰の短剣を隠すように、男は布を羽織り直した。

 意のままに動かすために、罪のない者の命を握る醜い方法。彼女がステラ=ベイリーと名乗らなければ、男はこの凶器を使って相手を脅すということを辞めはしなかっただろう。今更胸に蘇る嫌悪感を抑え込み、男はやっと歩き出した。


 どこか現実味のないその足取りを止めるものは、もう誰もいなかった。


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