告白
「済まない……大丈夫か」
「……だ……だ、だ、大丈夫ですわ…………」
ステラは、涙目でふるふる震えたままかろうじて答えた。今度こそ、本当に涙が出ていた。よろけた身体を支える手がやたらと優しくて、ステラの心臓はいよいよ限界だ。顔が熱いどころの話ではなかった。
(……死ぬ……!)
彼がステラの感情を知っているということは、最も聞かれたくなかった部分を聞かれていたという事で。色々な意味の恥ずかしさが混ざりあって、もう頭が爆発しそうである。
ナサニエルは、へなへなのステラの身体を支えたまま芝生の上にハンカチを敷き、そこに座らせた。ステラは有難うございますとまたお礼を言って、彼の手が離れたその間に、心臓の辺りに手を当てて鎮まれと念じた。
皇子に嘘をつくことは出来ない。隣に腰掛けたナサニエルを盗み見ると、彼はまたなにか考え込むようにして下を向いていた。ステラはあと五分待って欲しかったのを三十秒に短縮して、背筋を伸ばした。
「殿下」
夜の庭は、人払いをしたかのように静かである。だからだろうか、ステラの声は存外に大きく聞こえた。ナサニエルが、返事の代わりにステラの顔を覗き込んだ。
「……その……」
不安を僅かに混ぜたその表情をまともに見てしまって、ステラはやはり一分は取ればよかったと後悔した。
「ほ……ほんとうです……」
喉を通って出た声は、本当に自分の声かと疑うほどか細くて情けなかった。決して表情の多くないナサニエルの目が、今迄で一番大きく見開いていくのを、ステラは視線を逸らすこともままならず見届けた。
本当はもっと、はっきり告げるつもりだった。だが余りにも色んな事が続いて、ステラも疲れてしまったのかもしれない。いちいち固まって、次の言葉までに時間がかかってしまう理由を、心中でそう決めつけた。
彼が呆然と、唇の形だけでステラの名を読んだ。ふと左の手首が暖かくなって見下ろすと、彼の、細く少し骨ばった手がそこを握っていた。もう大分間が空いてしまってから、ステラは律儀にはいと応えた。
「で、殿下」
ナサニエルの肩が、一瞬揺れて反応する。もう二人の間にはテーブルも何も無くて、至近距離からそれがよくわかった。
ステラは、もう後に引けなかった。縋るように握られた、手首の温度を信じた。変わらず頼りない声しか出てこないが、ステラはなにかを耐えるように俯いていた彼を見た。
「……わたくしはずっと、ナサニエル殿下をお慕いしております」
その瞬間、手首を握る手の力が強まったのを感じた。
彼は、何も言わない。ただ、ステラの手首を握ったまま何かに耐えていた。逃げも隠れもできないステラは、どくどくと脈打つ心臓を落ち着けながら、ゆっくりと言葉を選んだ。
「幼い頃、ここでお会いしたでしょう?その時から、ずっと」
二人の間に籠る熱を逃がそうとして目を閉じている間に、ふたつの赤い宝石がステラを捉えていた。また頬が熱くなるのをぐっと堪えて、ステラはそれをじっと見返した。
名前を聞けなかったことを、ずっと悔やんでいた。初めて大人になった顔を見た夜、拒絶されたと思ってとても悲しかった。苦しい程に会いたくて、恋しくて泣いた。そのひとつひとつを思い出しながら、ステラは語った。彼と、音もなく瞬く星だけがそれを聞いている。
「この扇を貴方が渡して下さった時、本当に嬉しく思いましたわ。大事なものですから」
ステラは、右手で畳まれた扇を握り直した。
「今夜が最後だと、決めておりましたわ。だから、お会い出来て本当によかった」
最後は、やっと自然に笑えた気がする。最初の想像とは違ったが、全て話し終えたらなんだか許せる気がした。二人で、またここに来れたのだから。
◆
夜風に、細い金糸が揺れている。それがランプの光を拾って輝くのを見ながら、ステラがぽつぽつと話すのをナサニエルは聞いていた。年を重ねるにつれて拗れ、醜い欲に塗れて重くなっていった初恋のその彼女が、自分のすぐ隣で甘い言葉を紡ぎ続けている。
男の手は無意識に彼女の細い手首を掴み、今にも攫って帰ってしまおうと主張していた。彼女が言葉を発する度に、浅ましい欲望が腹の奥で疼く。ナサニエルは穢れた己を憎み、ただただ黙って耐えた。
貴族連中を押しのけてバルコニーに戻ろうとした時、ステラがナサニエルの名前を出した。そう思ったら、手前にいた見知らぬ男を怒鳴りつけるようにして、自分への好意を叫んでいた。
どんな都合の良い夢かと、ナサニエルは思った。このたった一時間の間に、すでに目眩がする程の幸福を感じていたというのに、ここまで来るともはや現実とは思えない。
自らの正気を疑っている間にも、彼女は可愛らしい顔を怒りに歪め、大声で怒鳴っていた。その一言一言が、ナサニエルの歓喜を煽った。
彼女に怒りをぶちまけられて能面のような顔をしていた男は、やはりクラーク侯爵の息子だったらしい。ステラは、ナサニエルの中にあるどうしようもない嫉妬さえ、いとも簡単に掬いとってしまう。直ぐにでも愛していると叫んで連れ去りたいのを抑え、精一杯皇子ぶって忌々しかった男を追い払った後には、もうステラのことしか考えていなかった。
テーブルを挟んだ向かい側に座る彼女が、特別に美しく見えた。開いた胸元で瞬くイエロートパーズが、いまも否応なしに視線を誘う。二言三言と話すと表情を和らげる彼女に、ナサニエルは猛烈に胸を灼かれる感覚を覚えた。
クラークが現れなければ、ステラの愛らしい憤慨を聞くこともなかっただろうが、自分の不在の間に不快にさせたのは事実だ。だと言うのに彼女はそれを簡単に許して礼まで述べ、こうして人気のない場所までナサニエルを導いた。忘れもしない、中庭の木の下だった。
自分では、彼女を不幸にする。ナサニエルはずっとそう信じて、閉じ篭ってきた。しかしその彼女自身が、自分のことが好きだと言う。許すというのか、穢れたこの身で傍に立つことを。名ばかりの立場と、寂れた宮一つの他には何も持たず、人の目を盗み悪意と殺意の間を行き来してきた、この身体で。
そんな心優しい少女を、欲のまま自分の城に閉じ込めてしまえと、今も頭の中で自分の罪深い部分が言っている。その細い手首を、二度と逃がすまいと握らせて。欲に従ってしまえば、彼女はもう笑ってはくれないと、理解をしているのだ。彼女には、よき家族がいる。こんな簡単なことで迷ってしまうほど、ナサニエルの気は触れていた。
どんなに理性を総動員しても、彼女の心は既に自分のもの。会えて良かったと言って笑う少女の笑顔が、幼い記憶を呼び起こす。それに少しも応えずに去れるほど、ナサニエルは出来た皇子ではなかった。
「……ご不快でしょうか……」
黙りこくって虚ろな目を手元にやっていたナサニエルに、恐る恐ると言った口調でステラが声をかけた。潤んだ丸い金の瞳が、恐ろしい狂人の如き欲とせめぎ合う男を見ていた。
「でしたら、一思いに振って下さいませ……」
「違う」
彼女が今にも泣き出しそうな声で言ったのを、弾かれたように否定した。ステラは数拍、ぱちぱちと瞬きをして呆気に取られていた。
「違うんだ」
くるくると変わる表情も、その声も、滑らかな肌も、彼女の全てがナサニエルの気を狂わせる。不快だなどと、どうして思える?今も、息が出来なくなりそうな程の歓喜に、身を焼かれていると言うのに。
愛しているから、幸せでいて欲しい。しかし愛しているからこそ、この手で連れ去ってしまいたい。理性と欲望の境すら、もう分からなくなってしまいそうだ。愛しい者を前にどうするのが正解かなど、知らないまま育った。
「俺の方こそ、狂ってしまう程、君に恋焦がれて来たのだから」
息を呑んだステラの喉が、動いた。そんな些細な動きすら、弱く醜いその男の恋情を撫でるように刺激していく。
濡れた金星が輝いて、朱い花が綻ぶようにその頬が再び上気した。
「こ──光栄ですわ、ナサニエル殿下……」
桃色の唇が、その名前を象る度に思考回路が蕩けてしまいそうになる。もう何度も、彼女に名を呼ばれる想像で己の孤独を温めて来た。
ステラは、もう数え切れないほどの願いを叶えてくれた。尚も、この浅ましい男の言葉を聞いてくれると言うのならば、どうか。そんな縋り付くような感情を乗せて、風の囁きの如き小さな声で男は愛を乞うた。
「……愛してる」
「…………」
ステラは、茹でた蛸のように顔を赤くしていた。何故か頬を膨らませ、ぷるぷる震えていた。そんな表情すら愛らしくて、つい手が伸びそうになるのを堪えた。
「……怒ったか?」
尋ねると、ステラは首を勢いよく横に振った。
「は、恥ずかしいだけですわ!それに力を抜いたらきっと、とってもだらしない顔になってしまいますもの」
そう言って、一瞬黙った。自らを落ち着かせるように視線を泳がせ、それから再びナサニエルを見ると、はにかんで口を開いた。
「──わたくしも愛しておりますわ、殿下」
頬を染め、内緒話のように紡がれたその言葉に、ナサニエルは遂に耐え切れなくなってしまった。ずっと手首を握っていた手が勝手に動いたと思ったら、気づくとその柔い肢体が腕の中にあった。
花のような、蜂蜜のような甘い香りがする。その元を探るように、髪を巻き込んだまま肩口に顔を埋めた。腰と後頭部をきつく抱くその腕を、もう緩めることが出来ない。
「……あ……えっ?で、殿下!?」
数拍あって、ステラが混乱した声と共に身を硬直させた。
長い時間を掛けて効く毒のような恋慕にすっかり身を侵され、熱病に掛かったような心地のまま、小さな耳朶がさらに赤くなるのを男は眺めた。済まないと一言、うわ言のように中身のない謝罪をし、腰に遣った手で金色の毛先を弄ぶ。
「本当は、このまま連れ帰ってしまいたいんだ」
ほんの少しだけ残った理性が、声をか細くした。ステラの肩がぴくりと震えて、次の言葉を待つように力が抜ける。
「ずっと、それを望んでいた。俺は、昔の父と同じ欲深い男だ。だからきっと君を不幸にすると、そう思って生きてきた。関わってはいけないと、そう自分を戒めていたんだ。触れたら、一生手放せなくなる」
でんか、と少女の声が微かに聞こえた。
「でも君が──君からそんな風に言われてしまったら、もう抑えられない。傷つけたい訳ではない、拐っていく様なことは出来ないと分かっている。分かっているんだ」
噛み締めた歯の間から、勝手に感情が洩れていく。抱きしめる手に力を込めて数秒、そろりと背中を暖かい何かが撫でた。
「殿下」
背中に、柔らかい掌の感触が伝わっている。
全く、酷い女性だ。彼女が優しく受け入れる度に、ナサニエルは自分の中の欲望を押さえつけるのが苦しくなると言うのに。男は鼻腔を侵す甘い香りの中で、歯軋りをした。
「確かに、わたくしは今すぐ貴方様の下へは参れませんわ」
「……」
「だって、まだ十五になったばかりですもの」
ステラは、当たり前のように言った。それは、どういう意味だろう。仮に──あくまで仮にだが、彼女が結婚が許される歳ではないという意味で、その数字を持ち出したのならば、それは。
確かに、一生手放せなくなると言った。それは、もちろん彼女を妻にしたいという意味を孕むもので間違いなかろう。実際に、ナサニエルはもう幾度となくそれを望んでは、身を割くような人肌恋しさを持て余してきたのだ。それをも彼女は──いや、まさか。
反射的に顔を上げると、ステラはまだ頬をほんのりと朱くしたまま、ナサニエルの目を見た。
「……わたくし、何かおかしい事を申し上げたでしょうか?」
ナサニエルが、急に黙りこんでその顔を見つめたので、ステラはまた不安げにそう訊いた。
「いや……だがステラ、それは一体」
呆然と、ナサニエルは聞き返した。ステラは、不思議そうに首を傾げる。
「だって、十六にならないとお嫁には行けないでしょう?あと一年は、必要ですわ」
ナサニエルはその瞬間にもう我を失って、先程の比でない程きつくその身を抱きしめた。一生愛しいその身を傍に置きたいと、そうさせてくれと乞う事さえ、許そうと言うのか。
もう、手放すことは出来ない。再び彼女の香りに満たされる思考の何処かで、そう感じた。逃がさぬよう、捕まえるように流れる金糸ごと腕の中に閉じ込める。
「で、殿下!くるしいですわ……」
そう言われて、ナサニエルはやっと少し腕を緩めた。可愛い手が、宥めるように男の背中を撫でる。
「あまり、先を急がないでくださいな」
愛おしい声が、鼓膜を撫でていく。ナサニエルは、首筋に頭を預けたまま、聞き入るように目を閉じた。
「ナサニエル殿下が望んで下さるなら、わたくしはお傍に居ります。わたくしだって、そう望んでおりましたもの。……お許し下さるなら、お会いしに参りますわ。だから、ご安心なさいませ」
ステラの掌が動きを止めたのを合図に、ゆるりと少しだけ身体を解く。愛くるしい金の瞳が、男の赤いそれを捉えてはにかんだ。それに吸い込まれるように、顔を寄せる。
弱く脆い男の唇を、ステラは瞼を閉じて受け入れた。




