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皇太子の陰は金星の夢を見るか  作者: 袋小路 どうして
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接触


 ステラは、食事もそこそこにして広間の中央を見詰めていた。玉座の下で、先程までここに居た男が跪いている。その皇子ナサニエルが、どんな表情をしているかは分からなかった。

 皇帝が、十年ぶりだと感慨深そうに言った。十年、という数字に、ステラの肩が自然と反応する。あの日のこととは限らないが、ステラはもしかしてと思った。あの日、少年だった彼が皇帝を見上げて酷く驚いていたのを思い出す。

 十年もの間、一度も顔を合わせずに離れていた親子。どんな事情であれ、その再会がどのような心地を伴うかなど、ステラには想像のしようもない。

 ナサニエルは、ある離宮で閉ざされた生活を送っていたらしい。皇帝の口振りからして、彼の母親である側妃は、後宮でとても肩身の狭い思いをしていたのだろう。ナサニエルの母親は、他の妃たちと身分が違ったという噂もあった。

 皇帝は母子を守るために離宮へと移したが、それも意味をなさなかったと語っていた。幼い皇子を遺し、その母は亡くなってしまった。それがどのような死だったか、ステラは知らない。

 ただ、自分を産むと引き換えに死ぬかもしれなかった母を思い出してしまった。それを彼に重ねようなどと自分勝手なことを考えては居ないが、ステラはつい俯きそうになってしまった。

 それを耐えて、彼を見る。離宮に、幸福な思い出があるという。そう語る彼の口調は静かで単調だったが、仄かに切ない穏やかさが滲んでいた。ステラはそれに対して、何も語る言葉は持たない。それでもただ、これから先の彼が幸福であって欲しいと思った。傲慢とどこかで分かっていても、出来ればその隣に自分が居られたらと、そう願うのをどうしても辞められない。

 ステラは、やがて人の波へと消えていったナサニエルを心配しながらも、再び椅子に腰かけようとバルコニーの入口を離れた。


 「今晩は、レディ・ステラ」

 それは、ナサニエルとは違う男の声だった。瞬間、ステラは背筋を這い上がる悪寒に身を震わせた。この声は、知っている。ここ最近で一番思い出したくない出来事の記憶が、強制的に引っぱり出される。ステラは座ろうと入口に背を向けていたが、恐る恐る振り返って──やはり、後悔した。

 「……クラーク公爵の」

 そこに立っていたのは、ナサニエルに対するそれとは対局の感情で忘れられない男だった。その切れ長の目が、粘着質な熱を灯してステラを見る様を、思い出しただけで恐ろしい。

「リアムです」

聞いてもいないのに、クラークはファーストネームを名乗った。ステラは出来るだけ平静を装って、そうと言った。

「何か御用かしら?忘れ物なら、親切な方が届けて下さいましたけれど。この通りに」

ステラは、手元の扇を見せるように軽く掲げる。

「驚きましたよ、レディ。まさか貴女が、見知らぬ男に連れられて此処へ来るなんて。随分と和やかなご様子でしたね」

しかし、クラークはステラを無視して全く違うことを話し出した。ステラは、恐怖の中に僅かに苛立ちを覚えた。

 その男の声は、有力貴族らしい自信ありげなそれであったが、どこか切羽詰まったような印象を受ける。ステラは今日までの間に、クラーク侯爵家と言うのが最近名を挙げた学者の家だったと思い出していた。ステラは、返事をせずに次の言葉を待った。

「しかもお会いしたことがない方だと思ったら、あの第二王子殿下だと言うではありませんか。婚約の話でも有るのですか?」

「いいえ。あの方が皇子殿下だと知ったのは、わたくしも今日が初めてですわ」

クラークは、切れ長の目をさらに細めてステラを見た。

「しかし周りが驚きにどよめいても、貴女は静かでしたね」

「信じないなら、それでも結構ですわ」

ステラは、些か言葉尻に苛立ちを滲ませた。相変わらず、回りくどい言い方をする。結局何が言いたいのだ、この男は。

 クラークが苦笑したように、小さく息を吐いた。

「信じますとも。では、貴女は彼の事が好きなのですか?」

「……そのようなこと、貴方になにか関係が?婚約の件は、父がお断りしている筈ですけれど」

「おや、否定しないのですか。妬けますね」

「……」

ステラは、いよいよ顔を顰めた。

 一体なんだと言うのだ、全然話が通じないではないか。ステラはさっきから、暗に話すことは無いと言っているのだ。態々言葉を濁してやっているのに、直接的な表現で言わないと分からないのだろうか。

「僕は未だに、こんなにも貴女を想っているというのに。貴女は他の男の手を取って、すっかり立ち直ってしまうだなんて」

クラークが一歩、近付く。勿論、ステラは後退った。だが、背後にあるのは椅子と、落下を防ぐ手摺だけである。

「でも婚約がないのなら、まだ良かった。……レディ、どうか僕の所へ来ると言ってくれませんか。僕を愛していなくとも構いません。僕は貴女を愛しているのですから、貴族の結婚などそれだけで充分です。そうでしょう?何ひとつ不自由のない生活を、お約束しましょう。夫人としての社交など、行わなくてもいい。冷えきっていると噂されようが、どうでも良い」

クラークは、矢継ぎ早に言った。

 余りにも、苦しい話だ。彼自身、もうステラ自信に頷かせる以外に自分の願望が叶う方法はないと、理解しているのだろう。だから必死になって、ステラにとって都合の良さそうな条件を提示する。

 しかし、何を言われたところで当然ステラに頷く気は毛頭なかった。女が凹んでいる姿に惹かれるなどと、そんな特殊な趣味に付き合う程人生を諦めてはいない。そもそも、相手の性格に歩み寄ろうともせずに、無理やり奪おうとするその傲慢さが気に食わない。

 「お言葉ですが、わたくしは貴方が望まれるような女ではありませんわ」

「いいえ、望んでいるのですよ。……ねえ、レディ。想像してください」

「……何を?」

訳が分からないことを言い出す男に、ステラはもうお手上げだった。何を言っても、想定通りの言葉が帰ってこない。

「例えば、貴女が想いを遂げて皇子との結婚が決まったとしましょう?皇子の妃と言うからには、たくさんの教育が必要だ。貴方は元々皇族の婚約者では無いのだから、婚約期間でそれを詰め込む事になる。きっと、大変でしょうね。貴女は、そういうのは得意ではないでしょう?結婚してからだって、窮屈だ。皇族に、貴女を幸せに出来る人間はいない。違いますか?」

「…………」

ステラは、声が出なくなった。怪しく光る切れ長の瞳と、何かに酔いしれたような笑みを浮かべる口元。それを見て、ステラは体が震えるほど強烈な──怒りを覚えた。

 ステラとて、皇族に嫁ぐのに特殊な教育を必要とする事くらい知っている。ステラがそれを全て投げ出すのを懸念して、父が年下の庶子の皇子との婚約の話を遠慮したくらいである。そんな話で気が変わると思われているならば、宰相の娘も随分と舐められたものだ。

 だがその無意味な例え話に付き合うならば、文句を言わずにどんな授業でも受けよう。確かにステラは淑女教育など苦手だが、自分で選んだ将来のための準備を面倒がって捨てる程愚かではない。

「ましてやあのように慎ましい方では、貴女の心を満たすことは出来まい」

無言の肯定と受け取ったか、そのようなことをクラークは言った。


 「言いたいことは、それだけですの?」

それきりクラークが黙ったので、ステラは漸くその口を開いた。

 ステラは、感じたことの無い憤りを感じていた。三男に寝顔を揶揄われたときでさえ、こんなに怒りはしなかった。

 目の前のこの男は、異常だ。女が思い通りにならないからと言って、たかが貴族の小娘一人のために、この皇宮の催しに参加しながら皇族を貶めるなど、正気の沙汰ではない。

 しかも、先程からチラチラと貴族の視線も煩い。しかし、それもそうである。つい先刻まで幻の第二皇子に手を引かれていた、変わり者と名高い女が今度は有力貴族の子息と二人きりで居るのだから、仕方がない。全く、粘着質に追いかけ回された上、厄介な勘違いまで引き起こされてはたまったものではない。それで不利益を被るのはステラだけでなく、優しいナサニエルまで巻き込むことになる。

 そんな事になるくらいならば、とステラはいよいよ息を吸い込んだ。今更、自分にどんな悪評がつこうが大した変化はない。

「皇太子殿下のお叱りを無視して、よくもまあのこのこと現れたものですわね。あまつさえこの神聖な皇宮で、皇族の方々を貶めるとはいい度胸ですわ。クラーク侯爵家の方々は、学者の家系で皆様聡明とお聞きしておりますけれど、出鱈目だったかしら」

クラークは、無表情でステラの言葉を聞いている。

 なんだなんだと、貴族が徐々に集まってくる。だんだんと、感情に制御が効かなくなってきていた。この男の、最後の言葉が思い出される。堪忍袋の緒が、切れた。ステラは、もう既にかなりの声量で喋っていたが、さらに声を荒らげた。

「……ナサニエル殿下の事が好きか、ですって?ええ、お慕いしておりますわ!実は、ずっと恋煩いをしておりましたのよ」

周りがどよめく音が、した気がした。

「あの方に自分が相応しいなどと思い上がってはおりませんが、貴方に文句を付けられるとは思いませんでしたわ。クラーク殿、貴方が殿下の何をご存知で?相手の気持ちを鑑みもせず、何時までもネチネチと付きまとう貴方とは、比べるのも烏滸がましい程お優しいな殿方ですわ!そもそも貴方は、やり口が汚い!卑怯な、小心者の典型ですわ。人が弱ってるところに漬け込んで──」

「ステラ!」

 違う男の声が、尚も言い募るステラを遮った。はっとして入口の方を見ると、ナサニエル=モーリス=アインアデルが、鮮やかな赤眼を困惑に見開いて立っていた。



 ステラは、味のしないレモネードを啜りながら宙を眺めていた。大声で公開大告白をしたあたりから、完全に感情が自分の手を離れていて、最後はもうただの悪口になっていた気がする。

 一体、何処から聞かれていたのだろう。向かいに座って、なにか考え込むようにしているナサニエルの顔を伺う。先程のステラは、かなり早口で捲し立てていたので、最も恥ずかしい部分も聞かれていたかも知れない。

 大規模な夜会で、プライドの高い貴族の息子を怒鳴りつける女と言うだけでも大問題だ。だと言うのにステラと来たら、名指しで好きな男への好意までぶちまけてしまった。本人なら、どう思うか。ドン引きである。しかも、相手は高貴どころではない皇子様である。『お友達』どころか縁切り、絶交である。

 そこそこお目出度い頭をしていると自負してはいたが、ここまで馬鹿だったとは。ステラは、せっかく掴んだチャンスを自らの手で粉々に砕いた。

(さようなら、わたくしの初恋!)

ステラはこんな時になって、先程彼が初めてステラの名を呼んでくれたと気がついた。今度こそ、テーブルに突っ伏して泣き出しそうだった。


 「落ち着いたか?」

黙って宙を見つめたまま、絶望に身を委ねていたステラだったが、不意に優しい声に鼓膜を揺さぶられて我に返った。声のした方を見ると、心配そうに赤眼が揺れていた。

「で、殿下……」

尚も優しい彼に、ステラはもう死にそうになった。

 結局、リアム=クラークを立ち去らせたのはナサニエルだった。彼は急に現れた想い人に硬直しているステラを座らせ、クラークに二度と関わらないよう約束させて退出を命じた。その鮮やかな皇族ぶりを、ステラどころか周りの貴族も呆気に取られて眺めていた。スマート過ぎて、最後のクラークがどんな様子だったかすら、覚えていない。

 「どうお礼を申し上げていいか、分かりませんわ……。お見苦しい所をお見せして、お恥ずかしい限りですわ」

本当に、心の底からお恥ずかしい限りであった。ステラは声を震わせて、なんとか礼を言った。

 折角、侍女たちとあれこれ言いながら、お気に入りのドレスでめかしこんで来たが、今日に限ってまともな顔を見られていない。いっそ、顔を隠したい。

 「君が気にすることは無い。俺がもっと早く戻れていたら、こんな事には……。君には、嫌な思いをさせてばかりだ──本当に、済まない」

「そ、そのようなことは御座いません!」

ステラは慌てて宥めながらも、彼の言葉に戸惑った。目の前の女に嫌悪に似た感情があれば、幾ら気を遣って取り繕っても、そんな悲壮な言葉が出てくるとは思えない。とても嘘には思えぬ程申し訳なさそうな彼を見て、ステラは内心、ひとつの希望的観測を持った。もしかして、聞かれていないのでは──まだ、諦める時では無いのでは?

 「殿下には、深く感謝しております。わたくし、もう数え切れないほど御迷惑をお掛けしてしまいましたのに、それでもこのようにお優しく接して下さるなんて、身に余る幸福ですわ。もし兄がここに居たら、とっくに大目玉を喰らっております」

素直に、ステラは本心を語った。ナサニエルは、伏せがちにしていた赤い瞳を僅かに大きくして、ステラを見詰めている。

「ですから、これ以上のお願いは心苦しいのですが……一つだけ、宜しいでしょうか」

「……ああ、それは勿論」

あっさりと、ナサニエルは頷いた。

「ありがとうございます、殿下」

ステラは頭を下げると、誘うように言った。


 「その、お散歩に出ませんこと?」

大広間の中から、まだ貴族たちが二人を仕切りに伺っていた。



 大広間での騒ぎがあったからか、中庭の人影は疎らだった。思い出深い中央の木の下まで来ると、もう貸し切りだ。ステラはそれが嬉しくて、僅かに残っていた微妙な気持ちもすっかりなくなった。夕暮れ時とは風情が違うが、ここはあちこちで可愛らしいランプが点っていて、とても明るい。ステラは機嫌がよくて、つい皇子の腕を引くようにして前に出た。

「殿下!覚えておいでで?幼い頃、ここで色々お話しましたわ」

お話していたのはステラだけであるが、しかしそれに気を悪くする所か、とても穏やかな声でナサニエルはああと返事をした。

 ステラは、これが最後の好機だと思った。最悪の告白を聞かれていないのなら、幸運だ。彼に直接、伝え直すことが出来るでは無いか。

「殿下。あの、快くお願いを聞いて下さったこと、感謝致しますわ。……ありがとうございます」

これから愛を囁こうと言うのに、ステラは既に少々まごついていた。

「いや、俺もまたここに来れてよかった」

大きな木の下で立ち止まり、ナサニエルが真正面からステラを見下ろした。ほんの僅かに綻んだ美しい顔が、暖かな色のランプの光に照らされる。その色気にやはりステラの心臓が危うくなる。

 目を奪われて何も言えなくなったステラの両肩を、彼の手が優しく包んだ。ステラは、その感触に息を呑む。

 黙りこくったステラを、ジャムのように蕩けた赤眼で見詰めて、ナサニエルは再び口を開いた。躊躇いがちに、しかし意を決したような声だった。


 「ステラ。その……君が俺を好いてくれているというのは、本当だろうか……」

ステラは、本当に石のように固まった。


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