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皇太子の陰は金星の夢を見るか  作者: 袋小路 どうして
20/23

精算


 遠くで不気味だなんだと囁く声を気にもとめず、黒髪に赤眼の妖しい美貌のその男は、足早に人の間を縫った。バルコニーに愛しい女性を一人遺してきた事が、男の後ろ髪を引く。それを振り切り、厄介事を早く片付けて戻らなければと足を早めた。

 隅の方で何かを囁く者よりも、胡散臭い笑顔を貼り付けて寄ってくる者の方が何倍も厄介である。数歩ごとに、知らぬ顔の貴族が急ぐ男を引き止めた。

 あの異母弟ならもっと上手くやるのだろうが、なんとか真顔を保つのが限界だ。にこりともしないまま声だけは不躾に聞こえないように気をつけて、次から次へと着飾った娘なんかを紹介しようとする貴族をあしらいながら、男──ナサニエル=モーリス=アインアデルは歩を進めた。


 漸く異母弟アレクシスの背中に追いついた時には、ナサニエルはもうげっそりとした表情を隠せていなかった。そんな様子を見て、アレクシスは態とらしく肩を竦めた。

 この男は、本当に人の感情というものを汲み取らない。ナサニエルにはもう叱責する気力もなく、その整った童顔をじっとりと睨んだ。

 ナサニエルがベイリー公爵一家とまごつくのをいつから見ていたのか知らないが、絶妙なタイミングで割り込んできて、彼が離宮へと踵を返すのを阻んだ。長い懸想の相手を前にして、そう決断するのにどれ程の努力が必要だったか。

 おまけに、ナサニエルが目立ちたくないのを知っている癖に、会場中に通るほど大声でナサニエルを紹介してくれた。お陰で、そう遠くないバルコニーからここまで一人で来るのに、随分と絡まれた。

 彼らは立場が揺らぎかけた高位貴族か、最近になって力を持ち始めた末端貴族か、兎に角立場を確かなものにしようと必死な者たちだ。高官らしき者たちは、流石に空気が読めるのか殆どいなかった。

 兎に角、引き篭りの根性が骨の髄まで染み付いたナサニエルにとって、権力に貪欲な貴族の相手をするのは何よりも苦行に思われた。

 「……陛下か」

苛立ちを隠そうともしない顔のまま、ナサニエルは声を潜めて言った。するとアレクシスは頷いてから、会話を聞かれないよう顔を近づけた。何処からか、若い娘のまあというような声が聞こえたような気がしたが、無視した。

「そろそろ限界だ。……安心しろ、万が一にも文句を言われたら俺が取り持つさ」

 ちらりと、玉座の方を見やる。それからナサニエルは解ったと言って、前に出た。その後ろを、アレクシスが着いてくる。


 「久しくお目にかかります、皇帝陛下」

 広間の中央奥から伸びる、玉座へ続く階段。その前で、ナサニエルは膝を付いた。皇太子は、その横で息子らしく気軽な会釈をした。

「ナサニエルか」

玉座に座る皇帝──即ちナサニエルの父は、ゆっくりとその口を開いた。あくまで落ち着いた響きに、その庶子の皇子ははいと重々しく返事をした。

「面を上げなさい。……十年ぶりだな、息子よ」

「は、父上」

息子と呼ばれたことへの返事として、ナサニエルはそう呼んだ。顔を上げても、彼は堅苦しい態度のままだった。

「父上の許可なくこの場に脚を踏み入れたことを、お詫び申し上げたく──」

「よいとも」

ナサニエルの謝罪を、父は遮った。

 「おまえたちには、閉ざされた生活を強いた──許されるとも、許せとも思っては居らんよ」

その『おまえたち』というのが、ナサニエルとその母を指すという事を、彼はすぐに理解した。高い塀の内側で、時折空を見上げる母の姿を思い出した。彼女は、外に出たかったのだろうか。

「私は自分の感情に溺れ、彼女の人生を狂わせた。そして、最後には幼いおまえだけを遺して彼女は死んだ。私の傲慢さが、帰結した結果だ」

声のトーンを変えず、分析するかの様な口調で皇帝は言った。ナサニエルは何も言わずに、遠い目をする父の顔を見た。

 「おまえたち母子を離宮に移したのは、後宮で虐げられるのを防ぐ為だと思っていた。だが、なんの意味も為さなかった。今、自分の過ちの証を隠したいだけと言われても、私は否定する言葉を持たない。目を背けていただけだったと、何よりもこの結果が示しているのだから──ナサニエル」

「は」

気付けば、聡明そうな明るい青の瞳が、真っ直ぐにナサニエルの赤眼を見ていた。

 「遺されたおまえからさえも、私は逃げ続けていたのだ。そうするうちに、別の息子の方が先に痺れを切らしてしまった」

「本当ですよ、父上。この点だけは、帝国を治める者として相応しくない行動と申し上げざるを得ませんね」

「……皇太子殿下。そのような事を」

漸く口を開いたアレクシスの、その遠慮のない物言いをナサニエルは目線で咎めた。波風を立てるな、と。しかし、やはりアレクシスは何処吹く風である。この状況でも飄々としていられる異母弟に、彼はいっそ感動さえした。

「ああ、その通りだ」

しかし、皇帝は頷いた。

「それに彼は公務においても優秀ですから、もっと仕事をさせるべきですよ」

「それも良かろう」

さらりと重用を進言され、ナサニエルはついに胃が痛くなった。何も言えないのをいい事に、好き勝手をしてくれる。ナサニエルは、刺すような視線で異母弟を睨んだ。

 「ナサニエルよ。私は、おまえをこれ以上縛る権利を持たない。社交をするが良い。皇族としては、むしろ必要な事だ。もう、あの宮も出るか」

「……感謝致します、父上。しかしどうか、この先もあの宮で生活する事をお許し頂きたいのです。あの場所で育った事が正しかったのかは、私にはなんとも申し上げられません。しかしあの宮には、私にとっては幸福な思い出も多く、離れ難いのです」

赤眼を僅かに揺らしながら、その皇子は言った。父親が、それを見詰めたままゆっくりと頷いた。

「よいとも。おまえから、母の思い出をも奪おうなどと何故言えよう。変わらず、あの宮の管理はおまえに全て委ねる」

「……感謝を、父上」

ナサニエルが深く頭を下げるのを、皇帝は確りと見届けてからもう一度頷いた。

「宜しい。今宵は楽しみなさい」

父はそれ以上、何も言わなかった。



 「良かったな、異母兄上」

 玉座の下を離れると、アレクシスは機嫌良さげにナサニエルの背中を叩いた。

「……おまえの態度には胃が痛くなったが」

「親子なんだから、あんな物だろう。異母兄上も、もっと気軽で良かったくらいだよ」

「冗談はよせ。俺とおまえでは、立場がまるで違うだろうが」

 この世のものとは思えぬ程美しい顔立ちを、ナサニエルは疲労で台無しにしていた。尚もその様子を興味深げに観察する貴族達の視線に、いい加減辟易する。今か今かと機会を伺うようなそれに、ナサニエルは顔を顰めた。

「まあでも、皇族としての正念場はこれからという訳だ」

「……」

アレクシスは、ちらりとバルコニーの方を見た。

「──男としてもな」

「……どういう意味だ」

「おっと、いい加減ローゼが拗ねてしまう。では異母兄上、また後程」

睨む異母兄を無視して、アレクシスは足取りも軽く去っていった。本当に、余計なことを言う。

 苦々しげにその背中を睨んでいたが、夜風に晒したままの想い人をこれ以上一人にしたくはないと思い直して、男は大理石の床を一歩踏んだ。


 社交界に始めて出る皇子の顔から疲労を読み取れないのか、それとも無視をしているのか知らないが、権力に貪欲な貴族というのは本当に厄介だ。此方は急いでいるというのに、容赦なく道を塞いで行く手を阻む。愛しいステラ=ベイリーが詫びた可愛い『無礼』などより、彼らの方が余程ナサニエルの苛立ちを煽った。

 花柄の刺繍を散りばめた黄色いドレスに身を包む彼女は、思わず拐って隠したくなる程愛らしく、動く度ナサニエルの視線を奪う。そんな彼女が、一人のうちにまた妙な男に絡まれたりしたらと思うと、どうしようもなく気が急いた。醜い独占欲と分かっているが、抑えきれない。顔も知らないのに、嫌な意味で忘れられないクラークという名前が浮かんで、ナサニエルをさらに苦しめた。

 次から次へと足止めを喰らうせいで、大したことのない距離を進むのに、異常に時間が掛かる。『済まないがまた後程』と、もう何度言ったか分からない。そろそろ、眉間に皺が寄るのを抑えるのも限界である。

 これ迄は大抵、限られた人間だけを置いて引き篭っているか、仮面で顔を覆っているか、そうでなくとも眼鏡か帽子で目を隠して、善良な民の振りをしているかの何れかを繰り返す生活を送っていた。元々表情が豊かな方でなく、優秀故に笑顔を貼り付けて何かを話す機会などもう殆どなかった。だから、ナサニエルが長く表情を取り繕うことが出来ないのも、仕方がない事である。他人の振りは得意だが、愛想のよい皇子にはなりきれない。

 話し掛けてくる者の中には、夫妻の他に年頃の娘を連れた中年の男も多い。稀に、気の強そうな若い令嬢もいる。大方皇家との婚姻関係と、皇子の恋人という立場に付随する甘い汁を狙ったものだと言うことくらいは、ナサニエルにもわかる。

 どんな娘を紹介されようが、十年の初恋を拗れに拗らせた男には無意味である。ナサニエルは、もうどんな娘が居たか殆ど覚えていなかった。それどころか、見知らぬ娘がはにかんでお辞儀をするのを眺める度、辛いとすら思った。


 最早もつれそうになる脚に鞭打ち、なんとかバルコニーの入口が人の間に見えてきた頃だった。そして僅かに覗いたステラ=ベイリーの顔を見て、ナサニエルは群がる貴族にいちいち返事をしていたことを酷く悔やんだ。

 彼女は、斜め上を呆然と見上げて顔を青ざめさせていた。恐怖と怒りと驚愕とが混じったように眉を歪め、肩を震わせている。決して社交的とは言えぬ表情の彼女の手前には、見知らぬ男の背中があった。

 力の限りに内蔵を握り潰されたかような苦痛の後、何も考えられずに人の波をもがき潜った。そうして、やっとステラの名を呼ぼうとしたその時、ステラの方が先に口を開いた。


 その口から発せられた叫びに、ナサニエルは耳と自分の正気を疑った。


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