金色の懐古
ステラ=ベイリーは、脱走という行為に関してはもう達人である。皇宮騎士見習いである三男のルイセントが、『逮捕だけはされるなよ、見張りが可哀想だ』などと言うくらいに。
ステラに言わせれば脱走のコツは、ひとえに躊躇わないことである。見張りが自分から目を逸らしたその隙を見つけたら、音を立てないように一定の距離を取り、あとは全力でダッシュする。単純なようで、これが意外と難しい。
ヒールを履いている時も静かに移動するには練習が必要だし、見つからないようになるべく早く敵の視界から外れる技術もいる。ステラは、年齢を重ねる毎にそれが上手くなっていた。悪知恵の働かせ方が成長するのである。
そうして鍛えに鍛えた技を駆使して、ステラは今日も無事退屈な夜会を抜け出すことに成功していた。夜会など、婚約者探しという目的さえ無ければ、嫡子が挨拶に出れば充分である。
ステラは、人々の陰に隠れ広間の壁を伝うようにして中庭に出てきて、星々と花を交互に見ながら当てどなく散歩をしている。広間の周りの庭は、そこそこ人が居た。それでも中より幾分静かなのは、皆賑やかな宴に疲れて夜風に当たっているからだろうか。
『ちゃんとしていれば、皇家にだって──』
次第に遠ざかっていく宴の音と自分の足音を同時に聴きながら、先程ロナルドが言いかけた言葉を思い出していた。
ステラは離れた位置からそれを聞いていたが、冗談じゃないと思わず顔を顰めた。要するに、名の知れた公爵家の令嬢なのだから、お淑やかにしていれば皇家に嫁ぐのだって不可能ではなかっただろうと言いたいのだ。
そんな事になっていたら現状の比にもならない量の勉強で、大好きな領民の子どもたちと遊んだり、可愛い馬と戯れたりする時間はずっと少なくなっていただろう。
そもそも、皇族の婚約者など幼いうちにあてがわれるに決まっているのだから、もう十五の妹に言っても無意味である。ステラは、既に婚約者の決まっている皇太子を見ながらそれを言う度胸だけを評価した。
ステラは暫く次男の無神経な言葉に腹を立てていたが、その間にだいぶ遠くまで来てしまったことに気づく。もうずっと遠くに、わずかに広間から洩れる光が見えている。どうしてもそこに帰ろうとは思えなくて、ステラはもう少し、と歩を進めた。
◆
ステラが外に出た時にはもうとっぷりと日が暮れていた。星の他に、広い中庭を照らすものはぽつりぽつりと立った街灯しかない。
もうパーティーの喧騒は耳に届かなくなっていた。人気も、もう疎らだ。煌びやかな宴から離れれば離れるほど、まるでそこから切り離された別の世界のようで、頼りない灯が少し寂しげに見えた。
窮屈な貴族の宴を出てきたはいいものの、今度は話す人間もいなくて何もすることがないのであった。かといってまだ戻る気にもならないが、今が昼間だったら良かったのに、とステラは思った。
ステラは、初めて皇宮に来た時からこの中庭を愛してやまない。
入り組んだ小道を挟んで、隙間なく植えられた色とりどりの花々。よく晴れた日には、それらが陽に照らされて輝かんばかりに映える。まるで可愛らしい迷路のようで、思わず隠れんぼでもしたくなるような、美しくも楽しい気分にさせてくれる場所。
この庭をしばらく歩いていると、いつも思い出してしまう。もう何年も前の、名前も知らない少年の顔。何処までも黒い夜空が、彼の黒髪に似ている。
あの日はあんなに暖かかったのにと思うのは、夜のひんやりとした空気が人恋しさを煽るからだろうか。
幼い頃、ステラはここで一人の少年に出会った。
そろそろ切り時だろうかという長さの漆黒の髪に、吸い込まれそうな憂いが滲んだ赤い瞳を持った、美しい顔立ちの少年だった。幼いステラは見たこともないその容姿に釘付けになり、その日初めて会った彼の手を無理やり引っ張って、庭中を連れ回した。疲れたら、垣根の小脇に座って際限なくお喋りをする。
それは酷く一方的なものだったのに、少年が一生懸命に耳を傾けてくれていたのを覚えている。きっと、無口な性格だったのだろう。時々先を促すように身を乗り出すのが可愛らしかった。
その名も聞かず、再会の約束も結ばなかったことへの後悔が、ちくりと胸を指す。思い出す度に感じるこの痛みを、初恋と認識したのはいつ頃だったか。
彼は何処に行ってしまったのだろう。
小綺麗な身なりをしていたから、きっと貴族だろうと思っていた。皇宮に出入りするような貴族なら、また顔を合わせることもあるだろうと。他にない美しい見目をしているから、会えばきっとすぐわかるだろうと。しかし、何年経っても彼との再会は叶わない。
ステラの中にある大事な思い出は、十年近く経ってしまった今でも、何一つ新しくはならないままだ。
時々ここに来ては、あれは夢だったのではないかとさえ思う時がある。その度に、ステラは言葉にできない寂しさに襲われた。
彼と一緒にいられたのは、たった一時間か二時間にも満たぬ間だけだった。短い思い出は、それを美しいと思えば思うほど、再会への希望を強くする。
段々と街灯が少なくなるのに気付きもしないまま、ステラは大事な記憶の引き出しを開けていた。
◆
十年程前のある日、夕方に差し掛かった頃だった。
まだ五歳と幼かったステラは、父親のロベルト=ベイリー公爵に連れられて初めて皇宮を訪れていた。理由はきっと、留守番などさせては何をしでかすか分からない問題児を見兼ねて、と言った所だっただろう。
ステラは、父が廊下で部下らしき男と話しているのを見ていた。父が、何か紙の束を受け取るのに律儀に両手を使おうとしてステラの手を離した。ステラは、難しい顔をして紙の束を睨む父親からそっと距離を取った。部下も、こちらを見もしなかった。
素早く、ステラは来た道を戻った。その日はとてものどかな春の日で、通ってきた廊下の大きな窓のひとつが開いていたのを彼女はちゃんと覚えていた。
器用に柱を登り、窓のサンに手をかけ、丁度よく近くまで伸びた木の枝に移って外に出る。ステラが居たのは、天井の高い建物の二階であった。
桃色の花弁の中で振り返ると、曲がり角を挟んだ別の窓の向こうにまだ気づかない二人の男が見える。成程、よほど重要な仕事らしかった。ステラは、これ幸いと急いで地上を目指したのであった。
ステラは、素早く木をするすると降りていった。最後の枝にぶら下がり、手を離して見事に着地して前を見る。その先に、彼は居た。
黒い髪に黒い服を着てしゃがみ込む後ろ姿は、まるで黒い塊のように見えた。
真面目そうな大人ばかりとすれ違い、その度に代わり映えのしない挨拶をして辟易していたステラは、内心大喜びした。
そろり、と音をたてぬようにステラはその塊に近づいていく。決して気づかれないよう、呼吸にさえ気をつけながら歩みを進める。限界まで接近してから、ステラはついにその項垂れた背中を両手で叩いた。
「──ぅ、わっ!!」
「ひいいッ!?」
少年は、情けない声を出して前につんのめった。四つん這いの格好になってから、尻餅をついたような体勢で振り返ると、信じられないものを見るような顔をしていた。
困惑を隠しきれない視線がステラを上から下まで何往復もしている。声も出せずに動かしていた口がだれ、と言ったように見えた。
「ごきげんよう!わたくし、ステラ=ベイリーと申しますの。びっくりさせて、ごめんなさいね」
ステラは一頻り笑ってから、教わったばかりの『わたくし』を使って自己紹介をすると、少年の顔をじっと覗き込んで、綺麗ですわねと漏らした。遠い国から来たのかしら、と彼女は思った。
「──ステラッ!!」
すると突然、頭上から男の大きな声が聞こえた。今度は何だと言った具合に少年の肩がビクリと震えた。何が何だかわからないままの可哀想な彼の目には、涙さえ浮かんでいる。
先程ステラが大きな声を出したから、父親たちが異変に気づいたらしかった。
「どうして外にいるんだ!どうやって出た!?」
真っ青な顔をした父が、二階から彼女に向かって叫んでいる。男は如何にも狼狽した様子だったが、対するステラはあっけらかんと目の前の大きな木を指さした。父はそのまま紙にでもなってしまうのではという程、さらに顔を蒼白にしてふらついた。
「そんな、馬鹿な……おまえという子は……」
少年もきっと同じ気持ちであっただろう。可愛らしいドレスを着た、誰が見ても貴族とわかるような娘にそんなことが出来るものか。木登りを嗜む貴族令嬢など、余りにも常識を逸脱している。
「危ないことをするなといつも言っているだろう!怪我はないな!?良いか、絶対にそこを動くな──こら待て、待ちなさい、ステラ!」
公爵が言い終わるより先に、ステラは少年の手を取って走り出していた。一緒に来て!と弾むように言って、半ば無理やり少年を立ち上がらせ、引っ張っていく。
「なんという事だ……すまない伯爵、この埋め合わせは後日必ず!警備、手伝ってくれ!」
「は、宰相閣下!?」
父は慌ただしく、騎士を連れて廊下を進んで行った。こんな時にまで行儀よく玄関を使おうという大人たちが可笑しくて、ステラは笑う。
少年はちらちらと父の方を見ていたが、楽しそうなステラと目が合うと、それきり振り返らなくなった。
それから、ステラは少年を連れて庭のあちこちを駆け回った。
お喋りな彼女はその間に、あの花の色が好きだとか、家庭教師の授業がどうであるとか、取り留めのないことをずっと話していた。足が疲れたら丁度良い影に座り込み、時折、どこか悲しい色をした宝石のような少年の赤眼を見つめる。彼は何も言わないが、一言も聞き逃すまいという表情でステラの話を聞いている。言葉の切れ目に、確かに頷きながら。
ステラは、それが嬉しかった。幼心に、この時間がずっと続いて欲しいと思った。
そうして何度目か、庭の中央の辺りにある立派な木の下に座ってまた家族の話をしていた時だ。
不意に、幼いステラの身体が宙に浮いた。
驚いて見上げると、父よりも少々年上だろうか、穏やかな顔の男性が自分を抱き上げている。少年は、困惑して固まっていた。
「何やら庭が賑やかだったので散歩に来てみたら……君はもしや、ベイリー公爵の娘かな?」
ステラはその男性が父親の知り合いと分かると安心したのか、すぐに緊張を解いた。ぱっと顔を明るくして、そうですわ!と返事をする。
「ステラと申しますの」
彼はそれを聞くと満足気に頷いた。
斜め下で少年が何やら難しい顔でこちらを凝視している。ステラがその様子を不思議に思って、どなた?と自分を抱き抱える男に尋ねようとした時であった。
遠くから、息も絶え絶えに駆けてくる父親の姿が目に入った。
「お父さま!」
「はあ……ステラ!全く、やっと追いついた……こ、皇帝陛下!?」
父は慌ただしい様子でやってきて、思わず膝に手をつこうとしたが、目の前で娘を抱えるその男の姿を見て慌てて背を伸ばした。
皇帝と呼ばれた彼は、父を見て楽しげな顔をしている。ステラは目が点になった。少年の瞳がいよいよ見開かれていくのを、視界の隅で見ていた。
「おお、ロベルト。君の娘が大層お転婆だという話は聞いていたが、成程、これはなかなか手を焼くようだな。……さて、お迎えが来たよステラ。そろそろ駆けっこもお開きだ」
陛下と聞いてか、父親のいつもと違う様子を見てか、ポカンとして二人の大人の顔を見比べていたステラを、皇帝は優しく地面に降ろした。ロベルトと親しげに呼ばれた父が、一瞬呆れた顔を娘に向けてその手を取った。
「申し訳ございません、陛下。私が不注意だったばかりに、娘が陛下のお庭へ飛び出して行ってしまいまして……。娘が他にも何か、ご無礼を──」
「よい、何も無い。元気な良い子ではないか。信頼する君の娘だ。庭くらい、いつでも遊びに来るが良いとも。しかし、この辺りは騎士団の倉庫も近い。そういったものには充分気をつけたまえ。……では、私はそろそろ戻ろう」
「はっ、感謝致します陛下。ステラ、黙ってないでご挨拶をしなさい」
ステラはまだ皇帝を見上げて呆けていたが、父に軽く小突かれるとビクッとして柔らかなドレスの裾を摘んだ。
「ご、ごきげんよう、陛下!」
「うむ、二人ともまた会おう」
皇帝は、ステラのたどたどしい別れの挨拶を見届けると悠々と頷いて踵を返した。
皇帝の背中が見えなくなるまで頭を下げていた父親が、顔を上げていよいよお小言を言おうとしたが、ステラは興奮して耐えきれずにそれを遮った。
「逃げ出してごめんなさい、お父さま!でもお父さまたちのお話がわからなくて、困ってしまいましたの。それで、あそこの窓があいていて、おおきくて綺麗なお花が咲いた木があったでしょう?ためしに乗ってみたら、うまくいってしまったんですもの。……それでね、お父さま!ステラね、お友達ができましたの!ほら!……あら?」
父は、呆れたような毒気を抜かれたような、締まらぬ表情をしてステラが捲し立てるのを聞いていた。そんな父の服を引っ張って、指で指した方向を向くと……そこにはもう誰もいなかった。
先程まで近くに座っていた美しい少年は、音もなく忽然と消えていた。まるで、夜の気配とともに消えてしまったかのような不気味さだけが、微かに残っている気がする。大きな木の枝が、風に吹かれてざわりと鳴いた。
「帰っちゃったのかしら……さっきまでそこにいましたのに」
本当ですのよ、とステラは寂しそうに言った。
「ああ、見ていたとも」
その様子に叱る気をなくしたのか、公爵は今度こそ手を離すことがないように、元気の良すぎる娘を抱き上げた。彼の顔が少し複雑な表情を浮かべていたのが、まだ幼いステラには解らない。
「今日は流石に肝が冷えたな、ステラ。陛下がご寛大でなければ、どうなっていたか」
そう声を掛けても、ステラは一言ごめんなさいと繰り返しただけで、『お友達』の話を終えなかった。
「ねえお父さま、また会えるかしら?」
「……そうだな、おまえがいい子にしていたらきっと」
ステラは、力なくうんと言った。冷たい風がざわざわと木を揺らす。その向こう、暗くなっていく空で顔を出したばかりの金星が瞬いた。