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皇太子の陰は金星の夢を見るか  作者: 袋小路 どうして
19/23

正体


 ステラは、去る麗人の背中を、惚けた顔で見送っていた。

 父が、ネイトに向かって一礼してその場を去るのに慌てて着いていこうとしたが、彼は『連れて来て頂きなさい』と言って娘を置いて行ってしまった。ルイセントが何か言いたげなウィルバートの首根っこを引っ張っていくのを、引き止めきれずにステラは間抜けな体勢のまま固まっていた。

 ステラは我に返るとネイトの方を見て、困惑がちながらに丁寧に頭を下げた。

「申し訳ありません、父は普段ならあのような事は言わないのですが……」

構わないと言った赤眼の男の顔を、ステラはちらりと見た。ステラの頭の中では、彼がとても高貴な身分の人間──皇族であるという仮説が、いよいよ現実味を持っていた。

 ステラの父は、宰相である。皇帝の側近のうち、政においてその右腕となる者。彼よりも立場の高い貴族など、知らないと言うよりもほぼいないと言ってよい。その父親が頭を垂れる相手なら、皇家の血を引く者と考えるのが普通だ。

「畏まる必要はない。──手を」

縮こまるステラに、彼はぎこちなくも礼儀正しい動作で、その手を差し出した。その様子に、ステラはまた魅入ってしまう。ステラはやはり目を逸らせぬまま、再びその白い手を取った。



 (……視線が痛い!)

 広間にいる大勢の紳士淑女の目線が、ステラとその隣の男を見比べていた。とある伯爵家の夫人がこちらを見て、紫色の扇で口元を隠して連れになにか言っている。会場は静まり返っていたが、耳を澄ますといくつもひそひそという囁きが聞こえる。

 ステラは、元々半分悪い意味で名の知れた令嬢なので、多少の耐性はあるつもりでいたが、この広い会場中の注目を集めていると思うと、流石に堪えた。その余りのお転婆ぶりで、婚約者候補がこぞって顔を青くすると評判のステラ=ベイリーが、どの貴族も見た事がないという麗しい青年に手を引かれて現れたのだ。それも当然の反応だと理解はできるが、居心地が悪い。

 ステラはいつかのようにネイトを誘拐してでも逃げたいと思ったが、彼が少なくとも皇家の血筋の者であると理解してしまった今となっては不可能だ。ステラは五歳児だった自分のおめでたさを、心の底から羨ましく思った。知らなかったとはいえ、恐ろしい子供である。

 隣にいるネイトをちらりと伺うと、彼は貴人らしく真顔でぴんと背筋を張っていた。しかしその横顔は先程よりも白く、堅く見える。

「あの、差し出がましいことを申しますが、御気分が優れないのでは?」

控えめに問うと、彼は目だけで一瞬周囲を見渡してから、僅かに眉を歪めた。

「……少しばかり。だが心配ない。君の方こそ、大丈夫か」

ステラを気遣うような声で、ネイトが聞き返した。ステラは遠慮がちに苦笑し、わたくしもですわと答える。すると彼は前にいるアレクシスを一瞥し、小さな溜息を吐いた。

「……済まないな。呉々も君を巻き込むことだけはないようにと、よく言っておいたのだが」

「……?いいえ、そのような」

彼の言葉の意味がよく分からなくて首を捻ると、その様子を見てかアレクシスが朗らかな笑みを浮かべて近づいてきた。隣にはお決まりのようにローゼがいて、如何にも興味津々といった表情で二人を見ている。ネイトが、じっとりとした目でアレクシスを睨んでいる。

 ローゼと共に簡単な挨拶を述べると、その皇太子はステラの方を真っ直ぐに見た。ネイトにそうなるのとは違う意味で、ステラは目が逸らせなくなった。柔らかでありながら、その言葉に強制力を産む彼のカリスマは、もはや恐ろしい。ステラは頭を垂れ、許しを得てから顔を上げた。

「改めてお礼を言おう。彼をここまで連れて来てくれて、大変助かった。有難う」

アレクシスが、程よく幼い印象を残す垂れ目を細めてそう言った。その言葉に、ステラは慌てて首を横に振る。

「いいえ、殿下!わたくしが、この御方に連れてきて頂いたのです。御礼を申し上げるのは、こちらなのですわ」

「はは、そうでも無いのだよ。彼は俺の腹心だが、釣れない性格でね。それなりの理由がないと出て来てくれないんだ。……ところで、落し物は無事に届いたようで、安心したよ」

「へ?」

ステラは思わず間の抜けた声を出して、手元に確りと握った扇を見た。

「まさか、殿下がこれを?」

「ああ。あの時は、助けが間に合わず済まなかったね。気がかりだったのだが、大事は無かったかい?クラーク侯爵の子息には、俺からよく言っておいたよ」

声を潜めてそう言うアレクシスに、ステラは震えた。

 ステラは、クラーク家の息子に迫られた時にこの扇を落としていた。恐らく、不快感に耐えきれず傘を払いのけて逃げた拍子だ。あんな見苦しいところを、皇太子に見られていたなんて。意識が遠のくような心地がして、若干よろけてしまった。

 それを横からネイトが急に支えたので、ステラは心臓が口から飛び出るかと思った。ばくばく鳴る胸を押え、お礼を言うと彼は心配そうな顔でゆるりとその首を振った。何故か、ローゼが更に目を輝かせた気がした。本当に居心地が悪い。

 「で、殿下……感謝致しますわ。あの、お見苦しい所を……」

「何を言う。君は何も悪くないさ」

事も無げにアレクシスは言ったが、ステラはまだ震えていた。

 その一方で、ステラはやはりネイトはのっぴきならない血筋の御方だなと確信した。この扇を手渡す時、彼は身内に預かったと言っていた。

 「しかし、『この御方』か。君、さてはまだ名乗ってないな?」

「……どうせ、おまえが余計な事をすると思ったからな」

ステラ達にしか聞こえないような小声で、漸く口を開いた彼のその親しい口調に、ローゼとステラは目を丸くした。

「目立ちたくないと何度も言っただろう。彼女への事情の説明なら、ローゼ殿も同伴の上で適当な別室を──」

「とんだ失礼をしましたね、ステラ嬢。彼は少し事情があって、社交というものに不慣れでして」

ネイトが苦言を呈するのを、皇太子は華麗に無視をした。通常は有り得ないタイミングで掛けられた言葉に、ステラはつい驚いて肩を跳ねさせた。

 ネイトは、顔を顰めてアレクシスを睨んでいる。皇太子相手に親しい口調で話せる身分の人間など、かなり限られる。広く見積っても、兄弟くらいのものではないか──待て。

「では彼に代わって、俺が皆に紹介しよう」

 追いつきかけた思考を、楽しそうに笑みを深めたアレクシスのやや大きな声がプツリと切った。待ってましたとばかりに、周囲の貴族が目を光らせる気配がした。

「アレクシス、やめろ」

元々白い顔をいよいよ蒼白にしてネイトが止めたが、やはりアレクシスはそれを無視した。そして次の瞬間、よく通る爽やかな声が広間中に響き渡った。

「お待たせ致しました、紳士淑女の皆様。……産まれてから十八年間の間一度も姿を明かさず、顔も名前も伏せられた皇子様の噂を、お聞きしたことがお有りでしょう」

アレクシスはそこまで言って、珍妙な顔で固まるステラを一瞥した。

「──彼こそその第二皇子にして我が腹心の異母兄、ナサニエル=モーリス=アインアデルです。どうぞ、お見知り置きを」


 会場が一瞬、静まり返った。今度はひそひそ話も聞こえない、本物の静寂だった。ローゼも周りの貴族も、いつも澄ました瞳を驚愕に見開いている。それは、いつかどこかの画家が描いた絵画のような一瞬だった。

 そのすぐ後に、爆発したかのように饒舌になる貴族たちの声の中で、ステラはギギギと軋む絡繰人形の如き動きで、隣に立つその皇子を見た。彼は、もう負の感情を隠そうともしない顔で異母弟を睨んでいたが、ステラの視線に気づくと、気まずそうに美しすぎる赤眼を揺らした。

「隠していて、済まなかった」

「…………ひえ…………」

ステラ自身は、いいえと言ったつもりである。

 やはり、本当に驚くと声が出なくなる。ステラはいま自分がどんな顔をしているかを気にする余裕も無く、そもそも表情筋が言う事を聞かなかった。餌を乞う魚のように口をはくはく動かすだけの、公爵令嬢と言うには余りに間抜けな様子のステラを、皇子──ナサニエルは不適切な程整った顔を不安げに歪めて見詰めている。

 何も言えず震えているステラを見て、怒ったと勘違いしたのか、ナサニエルは悲愴な顔で縋るようにもう一度、済まないと言った。ステラはやっとの思いで、首を取れるかと言うほど横に振ったが、前の方から誰かが吹き出すような音がした。

 その時、『宰相閣下のお嬢様が、何故殿下のお隣に』と彼の向こうにいた男が言った。口調は丁寧だが、どこか気に入らなそうな声だった。大方、横に従えた娘を紹介するのに邪魔だと言いたいのだろう。

 ステラにとっては驚愕の余韻も然る事乍ら、これから貴族に絡まれまくるであろう彼の身を心配したり、彼に纏わる噂話を思い出したり、自分の不敬の数を数えてどうお詫びをしたものか考えたりする方が余程大事で、そんなものは直ぐに記憶の彼方へ蹴り飛ばしてしまえた。しかしナサニエルは、不快そうに娘を連れたその男を一瞥すると、場所を変えようと言ってステラの手を引いた。



 ステラは、ナサニエルに仕切りに気遣われながら、導かれるままにバルコニーに出た。彼は給仕に指示してテーブルと椅子、それから冷たい飲み物を用意させるとステラを座らせてから自分も漸く腰を落ち着けた。

「気分が優れないか」

ナサニエルは、優しくそう尋ねた。声に、不安と心配がありありと滲んでいた。

「……いいえ、ええと……殿下」

少し落ち着いてから、ステラは皇子をそう呼んだ。それが正しいと思ったのだが、彼が寂しそうにまた少し瞳を揺らしたので、また動揺しそうになってしまう。

「本当に済まなかった」

「ど、どうかもうおやめくださいませ!……殿下に事情がおありだったことは、承知しておりますわ。先程は、驚いて声が出なかったというだけですわ。……わたくしの方こそ、数々の……数え切れないほどの御無礼を働きました。なんと、お詫び申し上げるべきか……」

ステラは、立ち上がり深々と頭を下げた。絶望的な気分だ。

 五歳にして皇子を誘拐した挙句、十五になったと思ったら、その御身に馬乗りになって顔を無理やり暴く娘など、居てたまるかと言う話である。明らかに、知らなかったで住む程度の不敬ではない。ステラは、自らの悪行の数々に寒気がした。

 しかしナサニエルは僅かに見開いた目でそれを数秒見詰め、それから少し慌てたように宥めた。

「顔を上げてくれ。俺がそもそも身分を隠していたのだから、君が謝ることは何も無い。無礼だなどと、君を前にして考えたことは一度もない」

「しかし、殿下……」

「皇子などと言っても、俺の立場はあってないようなものだ。それに俺は、君が明るく接してくれることが何よりも嬉しいのだから」

ステラは、思わず顔を上げた。その視線の先で、僅かに青年の顔が緩む。

「だから気に病まず、気軽に接して欲しい。……座るといい」

穏やかな声で、その皇子は言った。

 どこまで本当か分からないが、彼は側室の子だと聞いたことがある。無論、ステラにとって見ればそのような事は問題でないが、兎に角、彼には複雑な事情があるのだろう。

 それにしても少々寛大すぎやしないかと思ったが、彼の言葉は溜め込んだ恋情を煽るには充分で、ステラは温かくなる頬を誤魔化すようにすとんと椅子に腰を落とした。皇子がここまで言うのに、それを固辞するのも却って失礼だろうかと都合のいいことを考える。

「ナサニエル殿下が、そうお望みなのでしたら」

そう言ってステラは笑ったつもりだったが、彼はまた目を見開いた。まだ、変な顔をしているだろうか。


 それからステラは、暫くナサニエルの顔をちらちらと見ながらレモネードを啜った。先程よりも顔色が良くなっていて、安心する。

 結局、まだナサニエルに何も伝えられていない。意外にも自分が異性に対して意気地無しだったことを知って、ステラは悩んだ。いっそダンスにでも誘うか。しかし令嬢の方から男性、それも皇子を誘うなんてがめついと思われるだろうか。ただでさえ、今夜は彼と踊りたい娘が相手しきれないほど居ようというのに。それを思うと、ステラの胸の奥が曇った。何となく、嫌だと思った。

「殿下は、ご挨拶回りなどは宜しいのですか?」

迷ったが、ステラは訊いた。

 そう言えば、先程未婚の皇子に娘を通して取り入ろうと機会をうかがっていた貴族に対して、彼がありありと不快感を示した時、ステラは何を思っただろう。なんだか少し、嬉しく思ってしまった気がする。何だかそれはとても浅ましい感情な気がして、ステラは不可解な罪悪感を抱いた。

 「ああ。俺は貴族の知り合いなど、殆ど居ない。宰相殿くらいだ。皇宮勤めの高官たちも、名前はともかく顔を知らない。アレクシスを頼るか、向こうから来てもらうしかない」

「まあ、そうでしたの」

ナサニエルは、頷いた。

「俺は殆ど離宮に篭って生活をしているし、社交界に出るのはこれが初めてだからな。……しかし分かってはいたが、話し掛けてくる者は多いな」

彼は、辟易とした様子で言う。彼は、あまり人付き合いが得意な方では無さそうだ。口には出せないが、ひとつ彼のことがわかった気がして、ステラは少し嬉しくなってしまった。

「まあ殿下、仕方がありませんわ。皆、殿下のことが気になるのですよ。……でも、先程はお顔の色が優れないご様子でしたわ。ご無理だけは、なさらないでくださいませ」

ステラは、純粋に心配だった。ステラでさえ、先の全方位からの視線の雨には堪えたのだから、社交に慣れていないナサニエルなら、更に辛かったのではないか。

 皇子相手に差し出がましいことを言ったかもしれないと思ったが、ナサニエルはふっと表情を和らげた。その様子がまた心臓に悪くて、ステラはもう白旗を振りたい気分だ。

「ああ、そうしよう」

 そう頷いてから、ナサニエルはふと視線を広間の中に戻した。その先には、アレクシスがいて何かをローゼに言い含めている。機嫌でも損ねたのだろうかとぼんやり思っていると、ナサニエルが静かに立ち上がって申し訳なさそうに言った。

「済まない。アレクシスに呼ばれているようだ。恐らく、父上の事だろう。……少し席を外すが、ここで待っていてくれるだろうか。退屈だとは思うが……」

成程、きっと大事な用なのだろう。ステラは、快く頷いた。退屈は、食事でもして誤魔化せば良い。

 彼が一人でと思うと、お節介にも少々心配になってしまうが、邪魔をしてはいけないだろう。

「勿論ですわ、ナサニエル殿下。行ってらっしゃいませ」

ステラは、立ち上がって頭を下げた。

「……ああ」

ナサニエルは、何故か数刻ぶりにその瞳が優しく溶けるあの表情を見せ、鼓膜を撫で上げるような声で返事をした。そうして、足早に踵を返して広間に戻っていく。


 爆弾を残されたステラは、薄暗いバルコニーで一人阿呆のように悶えていた。


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