困惑
『好き』と、伝えたかった。幼かった日、拙かったお喋りを熱心に聞いてくれたあの人。十年経って、悲しい表情に切ない言葉で、細い爪痕を残すように別れを仄めかしていった人。ずっと好きだった。再会を果たして、その仮面の下を見てからというもの、会えない時間が苦しかった。
無力な娘の身を案じてくれたのに、絶対にもう一度会いたかったのだという我儘を許してくれた。たとえ偶然であっても、叶えてくれた。だから、自分を見るその美しい瞳に、今夜こそ伝えるのだ──
「──ええっと、ま……まだまだ暗いですわね!わたくしったら、まただいぶ遠くに来てしまったみたいですわ!……あーっと、えー、良い天気ですわね!いえ、夜ですから暗いのですけど、そう、だいぶ暖かくなって参りましたわ!これくらいなら、日が落ちたあとのお散歩も、悪くありませんわね!そう思われませんこと?……あー、なんと申し上げましょうか、ここはもう少し灯りが欲しいところですけれど」
無理であった。
窓から廊下を脱出しようとして転落しかけた所を抱き止められるという、恋愛小説よろしくの珍事件で出鼻を挫かれた。そのあと、この世のものとは思えぬ美貌に親愛の滲んだ瞳で見つめられ、心臓を握りつぶされて、ステラ=ベイリーはもうずっとこんな調子である。これで、何が愛の告白か。ロマンスも跣で逃げるような、見事なテンパりっぷりである。
「そうだな」
ネイトは、十年前戯れに話していたことよりもさらにどうでもいいような話に、静かに耳を傾けて相槌まで打っている。素っ気なくも聞こえる短いそれは、しかし少し躊躇いがちで、どこまでも優しく鼓膜を撫でる。その度に僅かに細まる赤い双眼に、魂が持っていかれそうになってしまう。
その色気は、本当に今必要だろうか。男性の割には長すぎる睫毛を伏せがちにして、仄かな光を湛えた赤眼がとろりとほんの微かに綻ぶその表情は、どう考えても、こんな会話かどうかも怪しいやり取りでするべきそれではない。
彼は十年前もそれはそれは美しい少年であったので、きっと美青年になっただろうとは思っていたが、一体誰がここまでを予想できるだろうか。何気ない一挙一動に、これでもかと言うほどの艶がある。恐怖心など露ほども無くなった心が、もろにそれを浴びてしまってもう大変である。
「えー、その、今夜も星がなかなか──いえそれよりも……ええと、もう素顔で歩いても宜しいので?」
緊張しすぎて気持ちの整理がつかず、今だけ一分でも仮面をつけていてくれないかしら、と思った。その意を半分込めたら、やっと訊きたいことがひとつ訊けた。ステラは、心の中で自分を仕切りに褒めた。
「ああ、問題ない。……立場的には」
一瞬、彼が表情を蔭らせた気がした。含みのある言い方が、少しだけ引っかかる。
「ごめんなさい、訊いては不味かったかしら?」
気分を害したくはなくて、直ぐに小声で謝った。すると、我に返ったようにステラの顔を見返して、緩やかに首を振った。
「いや、そうじゃない。決して、君のせいではないんだ」
「そうですの……。ともあれ、堂々と歩けるのは良いことですわ!」
ステラは素直にそう受けとって、それ以上の追求を辞めた。彼の立場が複雑なものなのだということくらい、察することは出来る。しかしきっと、何かが変わったのだろう。心臓は痛いが、素顔で会えたのは悪いことでは無いのだと思う。ステラは、笑顔でうんうんと頷いた。
「──そうだな」
「ウ」
とはいえ、やはり心臓には悪かった。
『まあ、ベイリー家のお嬢様ですわ』
それからも常識外れの美貌に当てられながら、ステラはどうしようも無いことばかりを何とか絞り出していた。段々と灯りが増え、人の姿も徐々に目に入り出した頃だ。何処かで、貴族の娘が話す声が聞こえる。
ステラは社交界ではそこそこ名の知れた娘なので、自分の名前が出たくらいでは大して気にならなかったが、彼女たちの目を引いたのはステラ本人よりも、その隣を歩く男だった。
何せステラはいつも兄に横を固められていて、婚約者のいない令嬢という段階においては売れ残りなのである。それが、見たことも無い美貌の青年に伴われて、皇宮の夜会に現れたのだ。目を引くのは、自然な事である。
『まあ本当!最近、縁談が沢山来ているとお聞きしましたけれど、ついに……』
『あの殿方、とても美しい方ね。だけれど、存じ上げない方ですわ』
『私もよ。一体どこのお家の方かしら?確かにお綺麗だけれど、ちょっと不気味ね──黒髪にあんな色の眼なんて、見たことないもの』
それまで黙っていたステラだが、思わず振り返った。すると若い娘が三人、気まずそうに顔を背けるのが見えた。
全く貴族の娘というのは、歯に衣を着せられない生き物だ。殊更、誰かの婚約やら恋愛事情の噂、悪口なんかが好きである。立場上、茶会などで付き合わされることもあるのだが、ステラはいつもうんざりしてしまう。毎回、適当な相槌で誤魔化している。
しかし、それが彼に向いてしまったのならば、無視は出来なかった。婚約者と勘違いされてしまった所までは仕方が無いが、見たことも無ければ家の格も分からない人間を悪く言うなんて、人としてどうなのだ。
足を止めて一点を睨むステラの肩に、細い指が躊躇いがちに触れた。見上げると、また少し困ったような表情で、ネイトがステラを見下ろしていた。
「構わない。昔から、よく言われる」
もう慣れたと呟くように言って、彼はステラの背中を軽く押した。
「そんな……」
「気にしてない」
さらりとした声だった。まるで、丸ごと受け入れているというような。きっと、本当なのだろうと思った。しかし、何故だかステラにはそれが余計に悲しく思える。ステラだったら、恐らく噛み付くかと言うほど憤慨している。そういう、性分だからだろうか。
「……そうですの。なら、良いですわ」
ネイトは、黙って頷いた。
それから、また何かしら話題を探しながら歩こうとしたが、どうにも心に靄がかかって晴れない。本人が良いというのなら、良いのだろうとは思う。だが、ステラはすっきりしなくて、居てもたってもいられなくなった。
なにか言おうにも、心無い娘の言葉と彼の反応のことしか考えられなくて、困る。
「……そんなこと、ありませんわよ」
「?」
すこし俯いて、徐にそう言ったステラの顔を、ネイトの赤い眼が不思議そうに見た。そのふたつのルビーを見上げ、ステラは言った。意味の無い気休めだと思われても、言いたかった。
「確かに、ちょっと前の貴方はとても冷たい目をしていて、見ていて悲しく思うような気もしましたわ。だけどごめんあそばせ、それすら誤りでしたわ。ちゃんと、優しい顔ができるのですもの。皆、知らないだけですの。少なくともわたくしは、瞳の色そのものが不気味だなんて、思ったことありませんわ──とっても、綺麗ですもの。周りがどう言っても、わたくしはそう思いますわ」
ステラは確りと、その顔を見て言った。ネイトの目が、見開かれていた。分かった様な口をきいた自覚はあった。怒らせてしまったかもしれないという不安が、今更襲ってくる。
「……君は、本当に変わらないな」
しばらく、目を見開いたまま何も言わなかったネイトが、ようやく静かな声でそう言った。
「怒ったかしら」
「まさか。何故?」
怪訝そうに、彼が尋ねる。質問に質問を重ねるなんて。ステラは思わず、少し笑った。
「十年前も、そう言ってくれた」
「あ」
そう言えば、そうだ。初めて会った日、名乗って早々に不躾にも顔を覗き込み、綺麗だと零してしまった。そんなことを躊躇いもなく言えてしまう五歳児は恐ろしいなと、我ながら思う。
「じゃあ、やっぱり今更ですわね」
ステラの苦笑いを、ネイトが変わらぬ赤い瞳で見ていた。その顔は僅かに、しかし確かに優しさを湛えていて、ステラはまた胸が切なくなった。
先程よりもほんの少しだけ落ち着いた気持ちで、ステラは彼の横に並んで歩いた。
「……ひとつ、お願いがありますの」
近づく宴会の灯りを眺めながら、ステラが言った。返事の代わりに、ネイトが立ち止まって首を傾げた。だから、そういう仕草が……とつい文句が出そうになったのを、ステラは飲み込んだ。
「もう、黙って居なくならないで欲しいんですの」
「……」
ネイトは、また少しだけ驚いてから、赤い眼を蕩けさせた。
「ああ、わかった」
◆
「あ」
程なくして、中庭から大広間に続く階段が見えてきた。その中段に、ステラは父親の姿を見つけた。三兄弟も一緒だ。全く、妹の事ばかり気にしてないで、早く妻候補くらい連れてきて欲しいものである。
ステラは、隣を歩くネイトに少し待っていてと頼み、家族に駆け寄った。
「お父さま、お兄さま!」
ステラは、大きな声で呼びながら手を振る。
「ステラ!また散歩かい?あまり遠くへは行っていないだろうね」
「というか、随分元気だな……」
家を出る前まで仕切りに何か考え込んでいたというのに、この数時間である程度まで回復してしまったらしい妹を見て、ウィルバートとルイセントは面食らった。ロベルトは冷静に、走るなと末娘を軽く諌めた。
「ええ、もうすっかり!ご心配をお掛けしましたわ。ごめんなさいウィルお兄さま、ほんの少しだけ。でも、ロニーお兄さまには置き手紙を残してきましたわ」
「置き手紙って、アレか?」
ルイセントは、苦笑いしながらロナルドに訊いた。ロナルドはそれまで、叱りにくそうに妹を睨んでいたが、苦々しげにああと返事をした。
「調子が戻ったようで何よりだな、ステラ。その扇は、無くしたと言っていたが」
ロベルトが、凛とした声のままステラの手元を指さした。するとステラは一層表情を明るくして、よくぞ聞いたとばかりにそうですの、と嬉しそうに声を上げた。
「とっても親切な方が、届けて下さったのですわ!そちらで待って頂いていますの。ほら」
男三人の視線が、ネイトに向かった。瞬間、父親の聡明そうな瞳が見開かれる。ステラは、それが少し気になった。知り合いだろうか。
「あれ……まずい、誰だかわからない。ウィル兄上、わかります?」
「いや、実は僕も……必死に思い出してはいるんだけど、心当たりが……ルイスは?」
「バカ言わないで下さいよ、嫡男が知らない人をなんで俺が知ってるんですか。というかあんな目立つ人、そうそう忘れないでしょ……」
父親が目を見開いて固まる間、兄弟は末妹が男を連れてきたという事実の処理をそこそこにして、必死に頭を捻っていた。
その間も周囲の目線がチラチラと、一家とその男を行き来している。
「丸聞こえですわよ……」
ステラは、呆れて言った。
「じゃあおまえが教えてくれよ」
「わたくしもよくわかりませんの」
「はあ?」
ロナルドは、訳が分からないと言った表情で末妹の顔を見た。そのうちわかると仰ってましたわ、とあっけらかんと言うその様子に、いよいよ溜息を着いた。
「──十年ぶりに、お目にかかります」
兄弟が仕切りにうんうん唸っていると、父親が丁寧に頭を下げた。その様子に、兄妹は固まった。ステラは、いつかみたいにポカンとしてネイトと父を見比べた。三人の兄たちも、父親を見て固まっていた。
「当時は、ご挨拶も申し上げず失礼致しました」
「……いや、宰相殿。あれはこちらが悪いのであって……」
気まずそうに、ネイトが父を宥めている。彼はここに来てから、ずっとなんだかそわそわしていた。
父親のこんな姿を見るのは、皇族に挨拶している時くらいだ。何せ、宰相である。宰相より上の立場にいる貴族など、ステラは知らない。
混乱する頭がやっとそこまで考えて、うん?と思った時だった。階段の上から、陽気な青年の声が降ってきた。
「──おや、宰相殿!」
ステラたちが見上げると、そこにはやはり皇太子アレクシスが笑顔で立っていた。その隣には、もちろん艶やかに着飾ったローゼがいる。彼女は興味深そうに、見慣れぬ男の様子を見ていた。
ネイトが、いよいよ顔を顰めて下を向いた。近寄って、体調が悪いのかと聞こうとしたが、やはり手だけで優しく宥められる。
「それに御一家も。ステラ嬢、是非あのお手紙は真似させて下さい──おや、彼まで連れてきて下さったとは!あんまり遅いので、まさか迷ったのかと心配していたのだよ。さあ、どうぞ中へ」
いえ、どちらかと言うとわたくしが連れてきていただいたのですけど。そんなステラの間抜けな言葉は、幸いにして言う前に、鈴の鳴るような娘の声が掻き消してくれた。
「まあ、一体どなたですの、殿下?」
ローゼは、珍しくその吊り目をきらきらと輝かせていた。
状況の処理が仕切らぬうちに現れてしまった美男美女が、あっさりとその場を支配してしまった。圧倒的な存在感に、兄三人も呆けている。宰相の子が兄妹四人、揃って阿呆面である。
「もう少しお楽しみだよ、ローゼ。特別なゲストの名前を、そう簡単に明かしてはつまらないだろう?」
「あら、意地悪!」
「……」
ネイトは、完全に他所の方向を向いていた。
「……んん?」
いつも以上に楽しそうなアレクシスの様子を見て、何となく、とんでもない人に連れられてきてしまったような予感がした。
次話の更新は近日中に行います。
暫くお待ちください。




