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皇太子の陰は金星の夢を見るか  作者: 袋小路 どうして
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三度目の正直


 ステラは、東の廊下をひた走っていた。紳士淑女の信用ならぬ笑顔をぎりぎりの微笑みで振り切り、次第に静かになるのを肌で感じながら足を動かした。

 時々、足を止めて周囲を見回す。もし、すれ違っていたら?それでもう、会えなくなってしまったら?振り返る度、弱気な思考が浮かぶのを奮い立たせて、周りに誰もいないのを確認するとまた前を向いた。

 『皇宮をうろつかない』という想い人との約束と、『一人で遠くに行かない』という兄との約束を同時に破ることに、罪悪感を感じないことも無い。だからロナルドには、いつかルイセントにそうしたように置き手紙を残してきた。今頃気づいて呆れている頃だろうか。ネイトには、謝る気でいた。だから余計に、会わなければいけない。

 ここに来た根拠など、殆どない。ただ、彼と出くわした場所が両方こちらの方向だったと言うだけだ。手掛かりなど、何も無い。でもまだ、諦める気は無い。

 無限かと思うほど長い廊下が、もどかしい。視線の先には何も無い。窓の外、中庭はすっかり夜の闇に包まれている。疎らな街灯の明かりが、ステラの記憶を煽った。のっぽの街灯の光から外れた場所で、僅かな音を立てて揺れていた黒い布。あの日、ステラを無視しなかったのは何故だったのだろう。

 暗い闇に呼ばれたかのように、ステラは窓に近付いた。あの日はあんなに怯えて居たのに、ステラにはもう恐怖などなかった。誘われるまま、ステラはいつかのように窓のサンに足をかけた。長いイブニングドレスの裾が邪魔で、はしたなくも思いっきり持ち上げた。もう、お淑やかになど振舞っていられない。

 十年前よりも成長した身体で、窓枠に登るのは簡単だった。ぼんやりとした温かさの夜の空気が、頬を撫でる。あの時は少し肌寒いくらいだったのに、もうそんなに時間が経ってしまったのかとステラは思った。着地する時の足の裏の痛みを想像してから、覚悟を決めて飛び降りた──と思ったが、ヒールが窓枠に引っかかった。

 顔面から転落する。一瞬の間にそう予想して、それがもう防げないということも悟った。死ぬほどの高さではないが、いつかのロナルドのお小言が走馬灯のように頭を掠めていく。そして、次に来るであろう痛みに固く目を閉じた。


 「……」

 衝撃が、いつまで経ってもやってこない。しかし、確かにどこかに着地する感覚があった。痛みは全くなく、何かに包まれているような心地がする。ドレスの開いた背中から、僅かに温かさを感じる。

 恐る恐る、目を開ける。闇に同化してしまいそうな黒いジャケットが、廊下から洩れる光を受けて辛うじてその輪郭を認識させた。薄い唇がふうと息を吐くのを、ステラは何も言えずにただ眺めるしか無かった。

「──君は……相変わらずだな」

低く、鼓膜を撫ぜるような声とともに、伏せられた長いまつ毛が緩やかに開く。

 ステラの視線の先で、憂いを帯びた昏い赤眼が困った様に揺れていた。


 「あっ?…………ええっ?」

 訳がわからず、ステラは間抜けな声を出した。『相変わらず』とはつまり呆れられたという意味だろうかとか、仮面はもういいのかとか、そもそもいつからそこにいたのかとか、色々知りたいことはあったけれども、ステラの脳はとりあえず客観的に状況を分析することにした。

 背中と膝の後ろに、暖かく細い腕の感触があって、胴を堅い膝が支えている──初恋の男に、抱き抱えられている。その事実を認識した途端、ステラは自ら発した熱で顔が火傷するかと言うほど赤面した。

「し、し、失礼!重くありませんこと!?」

「いや……問題ない」

大ありである。ステラは完全に混乱した。

「着地に間に合って良かったが……怪我はないか」

美しすぎる顔が、心配そうにステラを覗き込む。その男──ネイトの声はやはり静かで、うるさい心臓の音で聞こえなくなってしまいそうだ。

 前回もそうだったが、やむを得ぬ事情があったとはいえ、この男は女性の身体に触れることに躊躇いが無さすぎるのではないか。ステラは、自分を棚に上げてそう思った。

 しかし何よりも凄いのは、満更でもないとどこかで感じた自分であった。変態だろうか。これでは、事故を装って大人しい娘に不貞を働こうとする不届き者と、そう変わらないではないか!

「いえ全く!」

お陰様で!と元気よくステラは言った。すると安心したように男はほんの僅かに表情を緩め、優しくステラの体を起こしながら自分も立った。目立たぬ様にだろうか、廊下の窓から少し離れたところまでそのまま導かれる。ひんやりと冷たいベンチに腰掛けるまで、手が触れていた。その優しさに胸がぎゅうと唸るのを、ステラは混乱した頭のどこかで感じた。


 「あ、あの、助けていただいてありがとう……」

ステラは、恥ずかしさに目も合わせられないまま、俯いて礼を言った。まだほんの少し届く光で、真っ赤であろう顔が見えてしまったらどうしようと、ステラはどうにもならないことを考えた。

 会いたいとは思っていたが、まさか、こんなタイミングで実現してしまうなんて。心の準備なんて、全然できていなかった。もし、片足を窓枠にかけて豪快にドレスを持ち上げたのが見られていたら?そう思うと、ステラは倒れそうになった。どれだけ淑女らしさを捨てようが、一応、十五の乙女である。

 会ったらすぐに思いの丈をぶちまけるつもりだったのが、なんという失態だ。震えた声でお礼を言うのがやっとだった。彼に、また優しいまま有無を言わせぬ別れを突き付けられるのが怖いから、先に全部喋ってしまおうとしていたのに。

 「いや」

ネイトが、短くそう返事をした。

 視線を、俯いたつむじにじりじりと感じる。心臓がこのまま一生分の鼓動を終えて、そのまま死んでしまうのではないかというほどうるさい。色々と伝えたいことがある。どれから話そうと思っていたんだったかと、思考をあちこちさまよわせていると、ネイトが白く細長い包みを差し出すように一歩、近付いた。

「まずは、これを返したい」

「えっ?」

ステラは、思わず我に返って顔を上げた。

 返す?前回会った客間に、なにか忘れたのだろうか。予想外の言葉に、記憶の糸をたどった。なくしたものといえば、家族に貰ったあの扇くらいしか心当たりがないが──と、考え込んでいるうちに彼の細い指が白い布を開いた。

「あ、あら?……これを、どうして貴方が?」

 その掌の上にあったのは、唯一なくしたその扇だった。ネイトは途端に言葉を濁し、ああという呻きのような声を小さく漏らした。苦い顔だ。

 予想もしていなかったことばかりが続いて、ステラは赤面するのをすっかり忘れていた。この扇は、父と長兄が領地経営の関係でよその地方を訪れた時に、土産として選んできてくれたものだ。ステラの、一番のお気に入りだった。それを彼が渡してくれたという事が、異常なほど嬉しくて簡単に浮かれてしまいそうになった。

 さっきまでの不安が、吹っ飛んでしまいそうだ。まだ、どうなるかは分からないのに。何も伝えられてはいないというのに。

「その……身内に、預かった。君に届けてくれと」

「ま、まあ、そうでしたの!ありがとう。これは大事にしていたから、なくしたのを少々悲しく思っていましたの──という事はやはり、わたくしとあなたが知り合いだと、ご存知の方がいらっしゃるのね?」

「……」

微妙な顔のまま、ネイトは頷いた。ステラは、前回皇宮で開かれた夜会のことを思い出していた。その人物が、仕組んだのだろうか。

 まだばつの悪そうなネイトを見て、やはり言葉の少ない人なのだと思った。声の節々に感じるたどたどしさが、なんだか可愛らしくて心が擽られるような心地がした。緩みそうになる頬を、受け取った扇を広げて隠す。その様子を、揺れる赤い赤眼が見ていた。僅かに、まぶたが見開かれたような気がする。

「わたくし、これを……ええと……クラーク侯爵家のお茶会の日に落としたのですけれど、もしかして貴方はそのご家族かご親戚なのかしら?」

 苦い記憶が蘇ってしまって、思わず変な顔をしてしまったかもしれない。彼に血縁があったとて、それは何も関係がないのに。勿論、彼に文句を言うつもりもない。ステラはなるべく優しい声色で言ったが、ネイトの表情が一層翳ってしまった。ステラは、しまったと思った。

「いや、違う」

 それは、堅い否定だった。大きな声ではなかったが、確固たる、ゆるぎない声だった。

「……そ、そう……」

気分を害してしまっただろうかと謝ろうとするステラを、はっとしたように一瞬見ると、ネイトは弁明するように言った。

「済まない。君が悪い訳では、ないんだ」

その言葉は、段々と尻すぼみになっていく。自信なさげなその顔を、ステラは眺めていた。本当は不器用な人なのかもしれない、と思いながら。

「……ここは暗いな」

「あっ、ええ、そうですわね。そう言えば、最初の再会はこんな寂しいところでしたわ。あの時の貴方ったら、本当に怖かったんですのよ」

 しばらくの間があってから、絞り出すように男がそう言ったので、ステラは出来るだけ明るくそう返事をした。冗談めかして言った言葉に、ネイトはほんの少し眉を下げて、もう一度済まなかったと言った。

「広間へ、戻らないか。……人気のないところは、あまり良くない。俺一人ならまだマシだが……君は」

「あっ」

ステラは、ネイトの言葉にはっとした。ステラは、以前ネイトから受けた忠告を破ってここに来ていたのだ。そのことを、言っているのだろう。

「あの、約束を破ってごめんなさい。でも、どうしても貴方に会いたくて……居てもたってもいられなくて、探しに来ましたの」

「……」

ネイトが、音もなく目を見開いた。迷惑だっただろうか。彼は、何を言うだろう。

「いや……良いんだ。責めているつもりは無い」

彼はそう言いつつ、視線を泳がせて口元を抑えていた。何を言うのが正解なのか、ステラにはさっぱり分からない。できるだけ長く、一緒にいたいと思うのに。

「一緒に行って下さるの?」

「ああ……早く戻ろう。そこで、俺の事も分かるだろう。失礼と承知だが、今はまだ──」

ステラは、その言葉にどきりとした。この男の、ネイトのことが分かる。すてらは、緊張の走る肩から無理やり力を抜いて、苦笑いをした。

「ええ、気にしませんわ。今更ですもの」

「案内する」

 ネイトは、そう言ってゆるりと立ち上がった。そうして、正装をしている彼の全身を、漸くまともに見た。華美でないシンプルなものだが、所々の銀の刺繍が美しい。やはり歳の割に細い身体を、引き締まったシルエットの黒が包んでいる。呼吸を忘れる程の美貌を、僅かな光が妖艶な雰囲気を伴って照らしていた。細長い脚には、気を抜いたら音もなく闇に飲まれていってしまいそうな儚さがあった。

 ステラは一瞬気を取られてしまったが、ようやく差し出された手を認識した。頬がまた暖かくなるのを感じながら、ステラはおずおずとそこに自分の手を重ねた。柔らかい冷たさの後に、じんわりと体温を感じる。火照る頬を揶揄うように撫ぜていく温い風が、もどかしい。

 エスコート。婚約者が居ないのだから、父や兄に何度もしてもらった事がある。しかし家族以外の異性によるそれは、初めてだった。

 思えば十年前のあの日は、ステラが彼の手を引っ張って走り回っていたというのに、すっかり逆である。長すぎる時間が、体以外のものまで変えてしまったのだろうか。

 十五になったステラの手は随分頼りなくて、細く見えるネイトのそれがとても固く感じられた。優しいが、それでいて確かな性差を感じる力で引き寄せられる。全身を一本の糸で操られているかのように、ステラの身体が勝手に立ち上がった。

 少し上にある赤い眼から目を逸らせなくて、ステラはそのままあの、と口を開いた。彼の形の良い眉が、返事の代わりに少しだけ動いた。

「話したいことが、沢山ありますの。聞いてくださる?」

意を決して、そう訊いた。思ったよりも、真剣な声が出た。憎らしいほど長い睫毛のついた瞼が、静かに見開かれる。それから、赤い宝石が徐々に溶けて細まっていく。

「……ああ」

 その様子に、ステラは思わず息を呑む。あの夜、城の客間でこの瞳を見て、何故冷たい血のようだなどと思ってしまったのだろう。その愛おしさを、なんと比喩するべきか。赤い果実のジャムがスプーンを滑る瞬間のような、両手で隠したルビーをこっそり覗き込んだ時の仄かな輝きのような。

 ステラはとにかく、心臓をきゅうと両手で包まれたような感覚を覚えた。苦しいが、幸せな気もする。数拍遅れて、その心臓がまたばくばくと脈打って動けなくなる。

 固まってしまったステラの顔を、ネイトが躊躇いがちに覗き込んだ。全く自覚がないらしいその純粋な仕草すら、最早暴力的なまでに美しく、寡黙な大型の黒犬にも似た愛らしささえある。危うく、意識が遠のいた。

 緩やかな拒否を突きつけられたら、不快に思われたら、という不安はとうにその瞳が否定していた。このたった数十秒の間に、ステラはもう限界というほどそれを感じて、もう充分ですわと叫びそうになった。


 (……死ぬ!)

 彼には二度も命の危機を味わわされて来たが、そのどちらとも性質の違うそれを感じて、ステラは震えた。

 前回は十年溜め込んだ感情を殆ど伝えられずに別れてしまったから、今回こそはひとつ残らず聞いてもらうつもりだったというのに、ステラの三度目の正直は早くも雲行きが怪しかった。


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