寛解
クラーク侯爵家の茶会で散々な目にあって、社交界に出る気もあまり無くなってしまった。ステラ=ベイリーは昨日、丸一日食事以外の時間を自室に籠って過ごしていた。
一昨日、クラーク邸から帰ったステラを迎えたのはロナルドだった。それからウィルバートと侍女長が飛んできて、あれよという間に濡れた服を剥ぎ取られ、湯に身体を沈められた。風呂場に拐われていくステラを見送るウィルバートが、心配そうな顔をしていた。
全身を念入りに揉みこまれて、やっと上がったと思ったら、ホットミルクが居間に用意されていた。既にウィルバートとロナルド、そして定例の議会招集を終えた父ロベルトが座って、同じカップを傾けていた。
思い悩むステラを心配し、いつもは勧める縁談を断っていた父。年頃の貴族令嬢に縁談が入るのを、理解できないステラではない。それでも、ほんの少しでも無理をさせまいとしてくれていた。
その過保護ぶりが可笑しくて嬉しくて、笑ったはずが涙が出たのだ。父の顔を見た途端に泣き出した末娘を、三人はぎょっとして見ていたが、何も言わずに座らせてくれた。
それから、三人の話に少しずつ返事をしながらルイセントの帰りを待った。ロナルドに、夕食の後の茶には付き合えと仕切りに言われた。異様な空気だったそうである。
家族の優しさに向き合って、漸く少しだけ気が軽くなった気がしていた。それなのに何故か、翌日は疲れで全身重くて動けなかった。
本当は、今日もどこかしらで茶会だのなんだのやっているのだろうが、朝食の席で行きたくないと漏らしてしまった。そうしたら、ウィルバートがすかさず休んでいなさいと言った。彼は、ステラが侯爵家に出向くのを止められなかった事を、悔やんでいたようだった。
いつも素直じゃないロナルドでさえ、それが良いと同意した。父も三男も、当然のように留守番を頼むと言って、出掛けて行った。
政治家の卵たちも、今日は学校だ。政治法律の専門知識を教える学校は六年制で、一般的な大学校よりも課程が長い。今年漸く卒業生になるウィルバートは、最終論文をもう書き進めているらしい。午後のティータイムには帰ると言って、二人で馬車に乗り込んだ。
そうして、屋敷には使用人の他には自分しか居なくなった。ステラは自室で、手持ち無沙汰に紅茶を啜る。親しい侍女見習いが淹れる紅茶は、侍女長のそれには及ばないが、嫌いではなかった。
ステラにはまだ、侍女を捕まえてあれこれ熱弁するほどの元気は無い。しかし、もう同じ事にずっと悩んでいるのにも辟易している。
何度考えても同じ所に戻ってきて、結論の出ない恋煩い。そうして心と頭を悩ませ続け、口を閉ざし続けていたら、不本意な好意を寄せられて、仕舞いにはお気に入りの扇まで無くしてしまった。
やはり、汐らしく沈んでいたってろくな結果を帰結しない。ステラは、そう自嘲した。
望むものは、自分で追いかけたい性分だった筈だ。それでも思い通りに動けない事もあると、知ってしまった。
本当は、もう悩みたくなんてない。今すぐにでも皇宮を嗅ぎ回って、あの男の背中を探したい。見つけたら、ずきずきする胸の痛みも、右手に残る熱も、この数日間巡った思考の全てを頭から浴びせてやりたい。
そう思うのに、躊躇わせるのは愛しいその人の言葉だった。『皇宮を歩き回るな』と、ステラのその身を案じる言葉が、また蘇って気分を陰鬱とさせる。
あんな悲しい顔をしてまで、『もう会えなくても』なんて言わないで欲しかった。まるで、再会を望みながら突き放してきたのだと、そう言っているみたいだった。最後に残された優しさが、ステラの胸を灼き続けている。
「お嬢様、その……招待状が何枚か、届いているそうです。……確認されますか?」
紅茶が程よく冷めた頃、席を外していた侍女見習いが戻ってきて、気まずそうにそう聞いた。ステラ以外に誰かしらいれば、取り立てて重要でない郵便物は、兄が確認することもある。しかし今はステラしかいないから、彼女に聞く他はない。
ステラは、なるべく事も無げに頷いた。そうすると少々不安そうに、彼女が封筒をまとめて差し出した。きっと侍女たちにも、心配をかけていることだろう。ステラは大丈夫ですわと言って、それを受け取った。
あまり名を聞かない辺境伯、帝国騎士団長の侯爵家、近頃力をつけている伯爵家などから来たものに交じって、一際目立つ金の蝋印が目に入った。
「……皇宮だわ」
蝋印に刻まれた、皇家の紋章。カレンダーを確認すると、もうすぐ社交期の盛であると思い出した。毎年この時期になると、初めに皇宮で大規模な夜会が開かれる。招待状がなくてもわかる、恒例のものだ。開催は、二週間後。
封を切るとやはり、その夜会に招待する旨を簡潔に記された紙が、綺麗に納められていた。
悩みに気を取られて忘れていたが、丁度良い。もう、じっとしているのも疲れてしまった。この日に賭けよう。自分の足で、探しに行くのだ。忠告を無視して、皇宮を嗅ぎ回ったことを怒られても構わない。それを受け入れて謝ったら、その時こそ、この感情をぶちまけてしまおう。
そして、この日にどうしても会えなかったなら、もう終わりだ。そうなったら、縁談を真剣に選ぶ事にしよう。どれだけ泣いて、引き摺ることになったとしても、これ以上父の手を煩わせる訳には行かない。どんなに逃げたところで、ステラは十五歳の公爵令嬢なのだから──無論、やる前から諦める気などないが。
「……あの、お嬢様?」
急に目に闘志を滾らせ始めたステラの顔を、見習いが恐る恐る覗き込んだ。
午後のティータイムが近づいて、ウィルバートとロナルドが帰宅すると、ステラはすぐさま金の蝋印の封筒を持って階段を降りていったのだった。
◆
「本当に出るのか」
黄色いイブニングドレスを着た妹が馬車から降りるのを支えながら、ロナルド=ベイリーが確かめるように訊ねた。何事か塞ぎ込んでいた末妹のステラが、皇宮から来た封筒を握り締めて、『この夜会にだけは出ますわ!』と力強く言ってきたのが二週間前。今日この時──つまりその夜会当日の夜まで、次男のロナルドだけでなく長兄も三男も、何度も同じ質問をしている。
「ええ、お兄さま」
ステラは、やはりそう答えた。一度も、その答えが変わったことは無かった。その金色の眼が、まだ何処か不安を滲ませながらも、真っ直ぐに皇宮の大広間を見詰めている。ロナルドはその様子を見て、ただ、そうと返事をした。彼は妹に対していつも素直でないが、彼なりに心配をしていた。
ステラ=ベイリーはこの三週間程、元来の性格からは有り得ないほど大人しくしていた。
なにか、重大な悩み事があったらしい。大人しく社交界に出ていったと思ったら、挨拶を無難に済ませて二時間ほどで帰ってくる。兄が着いていこうが逃走もせず、それ所か一人で行っても静からしく、一家はわけもわからず頭を掻いていた。部屋に籠り、頻繁に溜息をつき、食事中に涙ぐんでいる時すらあった。明らかに、落ち込んでいた。
とくに、クラークとか言う家の茶会に出たあとは酷くて、帰ってきたと思ったら髪は跳ねているわ濡れているわ、極めつけに泣きべそまでかいていた。その場にへたりこんでしまった妹を見たウィルバートなど、もう大変だった。
なんでも、そのクラーク侯爵家というのが断った縁談相手のひとつだったらしい。ウィルバートはそれを知っていたので、力ずくでも止めるべきだったと酷く悔やんでいたのだ。立場の強化を狙う貴族なら、宰相の娘相手にそんなに失礼な事はしなかろうと、そう思っていたらしい。無理もない、それが普通の思考である。
何があったのかと聞いたが、もう大丈夫と言い張るステラに、それ以上追求することは出来なかった。ただ、碌でもないことなのは確かだ。
そんな状態だったから、男たちの間には暫くは家に居させようという無言の合意があった。ステラも、恐らくそれに対して文句はなかったように思う。実際、『この日以外は行かなくていい』と半ば言いつけのように言ったウィルバートに、素直にそうしますわと頷いていた。
招待状が来てからの二週間、ステラの意思は固かった。何かしら目的が出来たのであろうと思って、男たちもそれ以上止めなかった。しかしやはり気掛かりで、つい同じ質問ばかりが口をついて出た。
この一家の人間は、この末娘が可愛くて仕方がないのだ。彼女が調子を崩すと、たちまち支えを失ったかのように、落ち着きを保っていられなくなる。生真面目なロナルドには、宰相の家がこれでいいのかと言う気持ちがなくも無いが、今更どうにもならない。
「ウィルお兄さまたちは?」
空いた手でドレスを摘み、皇宮の広間に繋がる階段を上りながら、ステラが訊いた。
「後で来る。今日は早番だから、ルイスも来ると言ってたよ」
「そうですの」
わかりましたわ、と言ってステラはそれきり黙った。難しそうな顔をして宙を睨むその横顔は、まだ本調子ではなさそうだ。
ロナルドは、困ったように頬を軽く掻いた。平常時なら、この妹とは言い合いが尽きない。全く言うことを聞かないお陰で、コミュニケーションに事欠かないのである。彼女はもう言葉を覚えた時からそうだから、落ち込んで汐らしくしている時になんと言ったらいいかなど、分かりようもない。
それに、兄弟はいつも以上にステラに構おうとするから、ロナルドは出来る限りいつも通りに振舞おうとしていた。どうしてもそわそわしてしまうのを、隠せているとは思わないが。
「これだけいれば、気に入る相手が見つかるんじゃないか」
ロナルドは、煌びやかな大広間を軽く見渡して言った。いつもの嫌味のつもりだった。
「…………どうかしら…………」
地雷だった。
ステラは、怒りもせず俯いてしまった。いつもなら、『そういう所が無神経だからモテないんですのよ。二十歳で公爵子息と言ったら、普通はそれはもう凄いのに。お兄さまこそ、いつまでも妹にくっついてる場合ではなくてよ。宰相の息子が結婚できないのは妹の所為だなんて噂になったら、いくらわたくしでも流石に心が折れますわ』くらいは平気で言う。一言一句想像出来てしまうのが、可笑しい。
「悪かったよ……」
気まずそうに謝った次男を、ステラは怪訝そうな顔で見た。そのあとで、気にしておりませんわと言った。全く、上手くいかない。兄のそんな様子を見てか、ステラは苦笑いをしていた。
ロナルドはステラを伴って、挨拶回りをしていた。そうして何組目かに、ローゼを伴ったアレクシスと向かい合った時だった。
「殿下、お誕生日以来で御座います。レディも、お変わりないようで」
「ご機嫌よう、ミスター」
「ああ、ロナルド殿。今夜はお独りで?」
「えっ」
ロナルドは、思わず珍妙な顔をして隣を見たが、既にそこには誰もいなかった。今かよ、と頭を抱えそうになりながら、それを堪えていいえと返事を絞り出した。ここ数日の様子にあてられて、完全に油断していた。憎たらしい妹である。
「妹と来ていまして。ですが……逃げたようです」
苦い顔でそう言うと、アレクシスが爽やかに声を上げて笑った。
「おやおや、漸く立ち直ってきたかな?ステラ嬢に元気がないので、知る者は皆心配していたのだが、もう安心だね」
「ええ、そのようです。全く、どこへ行ったやら」
「案ずることはないさ、ロナルド殿。お見かけしたら、伝えよう」
「いえ、殿下のお手を煩わせる訳には……」
ロベルトは慌てて断ったが、アレクシスは何処吹く風でそれを宥めた。
「まあまあ、堅いことはいいだろう?私も、彼女にはご挨拶を申し上げたくてね──ときに、ロナルド殿。襟に何か挟まっていますよ」
ロナルドは、目を点にした。アレクシスが指で指した辺りを軽くまさぐると、小さく折り畳まれた黄色いメモが出てきた。いつの間に、こんなものを。確かに油断はしていたが、そんなにぼうっとしていただろうか。
アレクシスは、とても楽しそうに笑っていた。
「宰相殿の次男をお望みとは、お目が高いご令嬢が居らっしゃる。一体、どちらのお嬢さんかな?」
アレクシスが、誰もが振り返るような笑顔で言ったが、ロナルドは同様の状況に心当たりがあった。ローゼは、まあ!とロマンスへの期待に目を輝かせている。ロナルドは、なんとも言えない気持ちで、彼女から目を逸らした。
「さあ……それはどうでしょうか……」
「?」
微妙な顔でそう言ったロナルドを、アレクシスが一瞬キョトンとした顔で見た。ロナルドは、見られるのも構わずにメモを開いた。
『お兄さまへ。お散歩に出ます。何処まで行くかはわかりませんが、また迷子にだけはならない様に気をつけます。あまりご心配なさらぬよう。それから、お説教はどうか控えめにしてくださいませ。──ステラ』
「…………」
「…………フッ」
アレクシスが、いよいよ堪えかねて吹き出した。




