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皇太子の陰は金星の夢を見るか  作者: 袋小路 どうして
15/23

怪物

※間違えて、前回と同じ内容を更新しておりました。

大変申し訳ありませんでした。


 異母弟が制止も聞かずに出ていった扉を睨み、ナサニエルはため息を着いた。腰を乱暴に落とすようにして椅子に座り直し、執務机の上を見る。苛立ちを抑えようとして、額に手を当てる。


 繊細な山吹色のレースでできた、可憐な扇がそこに置いてあった。十年に渡る懸想の相手、ステラ=ベイリーの私物だ。アレクシスが持つ姿は美的感覚の狂った成金宛らで気色が悪かったが、成程、彼女がこれでその口元を隠す様はさぞ可愛らしかろうなと、ナサニエルにもわかった。

 机に鎮座するそれを見ていると、どうしようもない愛おしさが込み上げる。それと同時に何故か、ステラへ向いたものでない嫌悪と苛立ちが胸を突いた。それに触発されてか、醜い欲望がまた顔を出す。彼女に会って想いの丈を述べ、自分のものにしてしまいたいという、獣のような罪深い欲だ。

「……」

 正体のわからぬ焦燥に灼かれ、恐る恐る手を伸ばす。持ち上げた瞬間、何処からともなく甘い香りがして、慌てて机の上に戻した。自分のような者が、触れてはいけないもののような気がした。


 ステラを想う度、父親の血と母から受け継いだこの髪と眼の色が、恐ろしくなる。

 鏡を見て、自分を美しいと思ったことなど一度もないが、まるで悪魔かなにかのようだとは何度も感じた。十年前に自分を『不気味な子』と言った誰かに、心の底から同意している。

 まだ五つだった彼女が、顔を覗き込んで綺麗だと言ってくれた姿が何度も頭に浮かぶ。それでも、この悪魔を彼女が望んでくれるなどとは、思わなかった。否、そう思い上がらぬようにしていた。過ぎた望みだと、自分を戒めていた。父親と同じ血が流れているのだから、と。

 彼女に対する望みを抱けば抱く程、自分の人格が父親譲りのものだと気付かされる。

 数週間前。二人きりの客間で『会いたかった』と言ってくれた彼女に、ならばと言わんばかりに腹の底から欲が這い上がるのが分かった。愛しさに侵された思考で、このまま拐って離宮に閉じ込めてしまいたいと、そう望んだのだ。家族の恨みを買おうが構わないと、その時は本気で思っていた。

 見目に違わず、化け物なのだ。母は、罪のない美しい人だった。だが、自分は違う。母に似たのは見掛けだけだ。中身は唯の情欲で女の人生を狂わせ、守りもせず、短命という結果を導いた男のそれだった。

 誰も幸せにしない化け物。それがナサニエルの思う、自分という男だった。


 彼女はいつでも、ナサニエルの望む物をくれる。救いも、再会も、それを喜ぶ言葉も、その柔い身体の暖かさも。しかし彼が出来ることなど、何も無かった。

 皇太子の手足であろうがなかろうが、これ以上、彼女の人生に干渉してはいけない。僅かに残った理性が、そう叫んでいた。

 『ならば殺せ』と言った彼女の横顔を見て、頭の中でほら見ろと誰かが嘲笑るような気がした。気の利いた言葉ひとつ言えず、傷つけて、怖がらせてばかりだ。そんな男のもとに来たとして、どうして幸せになどなれる。これ以上を、望んではいけない。もう会えなくても、手放さなければ。

 そう分かっていたのに、縋るように名前をと強請られて、拒絶できなかった。ならば連れて帰ってしまえば堂々と呼んで貰えるかと、蠢いた醜い期待を押し込めた。それでも抑えきれなかった欲望の一部に抗えず、ナサニエルは母が使っていた愛称を、その白い掌の上で書いた。


 この甘さが、きっとステラを不幸にしていくのだ。立場などもはや関係ないという事を、アレクシスは分かっていない。父親と同じ轍を、踏みたくはないというのに。

 執務机に置かれた扇を見つめる。鮮やかな山吹色が、あの繊細な指に握られる様を想像する。彼女はどんな表情を、そのレースの下に隠すのだろう。小鳥のような笑い声が漏れる、あの口元だろうか。

 十年前、彼女は抑えきれない幸福が零れるのを塞ぐように、しきりに両手で口元を押さえて肩を揺らしていた。その様子が可愛らしくて、もうずっと忘れられないでいる。

 大人になったステラなら、洒落た扇なんかでそうするのかもしれない。その姿を見たいと願う事をやめられなくて、胸を掻く。もしその扇の下が笑顔でないなら、傍にいてどうしたと訊くのは自分でありたいと、望んでしまう。


 『欲しいなら手を伸ばせ』と、いとも簡単に異母弟は言う。まるで、それが道理だとでも言うような口振りだった。否、きっと彼の中ではそれは道理に違いないのだろう。

 おまえとは違うんだよと、もう何度も言ってきたような気がする。それは僻みでも拒絶でもなく、事実なんだと。だと言うのにあの男は、それを分かろうとはしない。なんとなく、それに気付いていた。

 仕舞いには、こうして心の一番脆い部分を挑発してきた。

 アレクシスが仕組んだあの夜から、ナサニエルの中で、十五歳のステラ=ベイリーはもう、姿の見えない幻想ではなくなってしまった。想像することしか許されず、曖昧で歪んだ信仰にも似た懸想だったものが、はっきりとその形を成し胸を抉った。

 仮面を外され拓けた視界で捉えたのは、想像の何倍も美しく、可愛い女性(ひと)だった。

 アレクシスが、いつから自分の感情に気づいていたかは知らない。考えても、意味がない。奴はああいう男なのだ。

 どうせこの扇だって、突き返そうとしたところでペラペラとまた訳の分からないことを言って、最終的には押し付けられるに決まっていた。ナサニエルの倉庫にある酒瓶の数が、その証左である。


 ナサニエルの心は、揺らいでいる。

 宰相である彼女の父親を呼び立てて預けるなり、方法はまだいくらでもある。一体何が、愛故に背中を向けようとするのを邪魔するのだろう。

 ナサニエルは、異母弟の言葉をひとつひとつ反芻した。彼は、ステラの何を自分に伝えた?苦しく、苛立ちを孕んだ欲望が燻るのを、ずっと感じている。

 『──ステラ嬢に、無理矢理迫るなど』

その一言を思い出した瞬間、全身の神経が逆立つような心地がした。強烈な、嫌悪感だった。そうだ、彼女はそれに脅えてこの扇を落としたのだと言った。

 笑うことも出来ない程に何かを憂うその姿に、惹かれた男。『ありのままの彼女を受け入れもしない、馬の骨ども』。異母弟のその言葉に、吐き気がした。

 (何処かに、触れたのだろうか)

 例えば、細い手首。薄い肩、桃色を滲ませた陶器のような頬、風に揺れる金糸。ステラに、知らぬ男──ましてやそんな男の手が触れるのを、想像しただけで正気が奪われる。気付けば、躊躇ったはずの手が扇の柄を固く握っていた。

 ステラ、と唇の形だけで名前を呼んだ。ただでさえ悪魔のような男が、嫉妬を知ってしまった。それは容赦なく、ナサニエルの理性を侵していく。押さえていた欲の箍が、がたがたと音を立てるようだった。

 何もしなければ、ステラはこのまま何処かへ嫁ぐのかもしれない。笑顔を抑え込まれ、俯いたまま。

 せめて笑っていて欲しいと、願っていた。自分では、その隣に居ることは出来ないと分かっていた。しかし、いくら自分の醜い欲望を押さえつけても、手を伸ばすのを堪えても、ステラが幸福にならないのならなんの意味がある。

 「……何故だ」

零れた問に、誰も答えるものはいなかった。

 何故、彼女の明るさを無理に抑え込もうとするような男が、堂々と彼女の夫を名乗り出られるのだろう。自分はこんなにも、その笑顔、その話し声、駆けて行く背中に焦がれているというのに。

 顔も名前も知らない、その縁談とやらの相手が憎い。

 彼女を幸せにすらしない男が、愛しいその身を拐っていくくらいならば──どうせ不幸になるならば、この手で落としてしまっても良いのではないか。そんな悍ましい望みが、疼いた。


 禍々しい独占欲を払うように、僅かな理性を搾って頭を振る。アレクシスは、きっとこれを見越していた。妬みにすら、向き合えと言外に言っているのだ。

 愛情に背を向け続けたこの十年のツケは、余りに大きい。拗れに拗れて、もう自分では解けない。恋慕に捕らわれたまま自由になれないのならば、その愛を叶える為に動くしかないのだと、そういう事だろうか。

 全く、奴も大概不気味ではないか。漸く幾許かの冷静を取り戻した頭で、ナサニエルはそう思った。全く似てはいないが、嫌な男なのは同じだった。

 机に突っ伏していた頭を、持ち上げる。白いハンカチに扇を包み、それを壊れ物かのように持って執務室を出た。

 席を外していた執事が戻ってきて、頭を下げた。白髪の交じった髪が、時の経過を感じさせる。母の死んだ日、彼がナサニエルに何を言ったのかは結局解らずじまいだ。あとで聞いたが、意味など無い呼び掛けですよと言われた。

 ナサニエルは、処理の終わった書類の束を彼に預け、躊躇いがちに声を掛けた。

 「急な来客とはいえ、追い出すような真似をして……済まなかった」

「いいえ、お気になさらず」

それは素っ気ない返事にも聞こえるが、いつもの事だ。ここに居るものは、皆言葉が少ない。それで、良かったのだ。

「二週間後に、夜会がある。……礼服を探しておいてくれ」

 些か眉を顰めて告げられた言葉に、執事は流石に少々目を瞠った。これまで、ナサニエルが社交の場に出たことは無い。だからそれは、当然の反応だった。執事は、数拍の後に畏まりましたと言っただけだったが、普段淡白な分、驚きはよく伝わった。

 ナサニエルはもう黙るつもりだったが、耐えかねたように再び口を開いた。ぼやく様な、小さな声だった。

 「…………ただの野暮用だ。すぐ戻る」

「左様でございますか」

何が面白かったか分からないが、執事が僅かに目を細めた。


 日が傾きかけている。だいぶ長いこと、話し込んでいたようだった。夕日を遮る壁の内側で、男は懐かしい春の夕暮れを思い出していた。


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