異母兄弟(きょうだい)
「気付けば、異母兄上はもう成人してしまったな」
第二皇子の執務室にあるソファーに腰掛け、悠々と足を組みながら、皇太子アレクシスは言った。
「あなたのお陰で、俺も議会の反発を最小限に抑え込むことが出来た」
アレクシスが立太子を皇帝に認めさせたのは、十五の時だった。アーサーに比べて、三年も若い。その頃にはもう、彼は兄の背を追う非力な少年ではなくなっていたが、議会では反発する者も少なくなかった。慌てるべきでない、と。
アレクシスは、強硬にそれを押し切った。後継者がいないという不安を、何時までも民に強いている訳には行かないと、そう言った。
この二年間は、そのツケを払う為──つまり、皇帝派貴族の信頼を得る為に奔走してきた。顔の知られていない幻のような第二皇子を、手駒に使って。
アレクシスは、同腹の兄であったアーサーを失ってからの四年間のことを、表情を崩さぬまま思い出していた。いつ頃からだろうか、ときに人の裏をかいてでも何かをなすことに何も感じなくなっていたのは。綺麗な世界だけを生きて、人の上には立てない。
憧れの兄を失い、政治的発言力の増大を狙う貴族の駒にしかなれない少年が、血反吐を吐く姿はもうどこにもない。皇太子どころか、皇帝としての即位を認められるまでに成長している。
忘れもしないアーサーの葬儀の翌日、この異母兄ナサニエルが自分の話を聞いてくれなければ、今頃この国はどうなっていた事だろう。アレクシスは今更、人間くさい恩を異母兄に向けて、自嘲の笑みを深くした。
「随分長く、縛り付けてしまったね。もう異母兄上も、自分の人生を生きるべきだ」
「アーサー殿下の仇は、本当にいいのか」
それまで黙っていた異母兄──ナサニエルが、処理の終わった書類を机の端に寄せながら言った。アレクシスは、肯定も否定もしなかった。ただ静かに、視線をふっと泳がせる。
この質問をされるのは、二度目だ。二年前、立太子が決まった時も同じことを彼は聞いた。
「恨む気持ちは、今でもあるけどね。ここに来るまでに、時間が経ちすぎてしまったよ」
アーサーの意志を継ぐため、それに相応しい人間であるために、この四年間を生きてきた。人々の意図と意図を掻い潜り、繋ぎ合わせ、ときに切り捨てて。そうするうちに、アレクシスは大人になってしまった。
アーサーを思い出す時の姉たちの顔から、何時しか苦痛が離れていった。噂する貴族たちの声から不安の色が消え、兄は彼らの中で、ただの話の種となっていく。兄を失った大きな傷が、やっと跡になり始めていた。
それをアレクシスが抉り返し、自分の怨みの限りに葬ったとして、それが正しい事なのか分からなくなっていた。例え、人知れず復讐を遂げたとしても、満足するのは自分だけ。
気がつけばもう、私怨で動けるような立場ではなかった。何より、追いかけ続けるアーサーへの憧れが、それを許さなかった。兄なら、絶対に自分の感情だけでその立場を利用するようなことはしなかった。
であればこそ、今でも何処かで仇が息をしているならば、自分がこの力を以て守らねばなるまい。二度と、この皇宮で皇族を殺させはしない。
それはまだ未熟な理想論だろうかと、アレクシスは思う。だが彼はそれに対して、確かな意志を持っていた。それは彼に残された唯一の夢で、実現しなければならない通過点だ。
「……そうだな」
ナサニエルが異母弟の横顔を見て、四年前のあの日と変わらぬ返事をした。
「今の仕事がキリのいい所まで終わったら、皇子……皇兄として堂々とサポートを頼むよ」
「俺なんぞに何ができるとは思わないが、それも良いだろう」
無愛想な謙遜に、アレクシスは笑った。それは、円満な契約満了であった。
「まあ、その第一歩さ」
アレクシスは、急に明るい声を出して話を変えた。もう湿っぽい話は終わり、と言う合図のようにも聞こえる。青年らしく骨張った指が、執務机の扇を指差した。
「"人知れず近づいて"なんて言ったが、考えてみりゃ、もうそんな事しなくてもいいじゃないか!そうだろう?」
「……今度はなんだ。おまえが持ってきた落し物なら、おまえが返せ」
名案だとばかりに明るい青の目を輝かす異母弟に、ナサニエルが辟易した声を出した。この異母兄弟は、いつもこうだ。
強情だなあと態とらしく肩を竦めてから、アレクシスは続ける。
「もうすぐ、社交期の最盛期だ。その最初に、皇宮でも大きな夜会がある。知ってるだろ?」
「……待て、何が言いたい?」
ナサニエルの赤い眼が、嫌な予感を感じ取って歪む。睨むようにして、アレクシスを見ていた。その異母弟は何処までもたのしそうに、あっさりと言ってのけた。
「出ろ」
「…………」
ナサニエルは、感情が一定の水準を超えると沈黙する。それを、アレクシスはよく知っていた。元より白い顔から更に血の気が引く様子をみて、思わず込上げる笑いを抑えた。
「何にも問題ないさ。皇子だろ?寧ろ、一生で一度も表に出てこない方が問題だよ」
「……父上には何と言うつもりだ。俺は、おまえや他の皇子皇女たちとは違うんだぞ」
「何も言わなくていいだろう、そんなの」
「は?」
ナサニエルの顔がいよいよ青くなった。何を言っているのか分からない、と言った様子だ。対照的にアレクシスは尚も笑顔のまま、つらつらと告げる。
「いくら庶子と言ったって、皇子は皇子。皇帝が自分の後ろめたさだけで、社交する自由までは奪えまい。どうして、自分ちの夜会に出るのに躊躇わなきゃいけないんだ?というか隠れたところで、君に纏わる話は、もう結構な所まで社交界に漏れて──待て待て、怖い顔をしないでくれ!誓って、バラしたのは俺じゃないんだ」
「……」
ナサニエルはまだ疑わしげに異母弟を睨みながらも、黙った。
「そもそもあの子沢山の皇帝陛下が、いちいちどの皇子が来てどの皇女が居ないだの、確認してると思うか?正室は当然出るし、身内の名簿なんて見てないよ。見てるのはせいぜい、招待客の名簿」
皇帝は、若い頃はそれはそれはお盛んであった。そのせいでナサニエルの母は不幸だった訳だが、その実側室の子は彼だけではない。第二皇子の母は、身分と間が悪すぎたと言うだけだ。本当に、無情な話だ。
「庶子が来たって、今は会話の内容を考えるような諍いはないしね。そもそも君、権力争い降りてるだろ」
「諍いはないが、蟠りはある。父上は、俺が表に出ることにいい顔は──」
「しないだろうな。でも、悪いことじゃない。父上だって、その位お分かりだ。まあ気が進まないのはわかるが、いいのか?取られちゃうぞ。クラークも来るだろうな、奴は有力貴族の嫡男だ」
揶揄うように、アレクシスが言った。クラークという名前を聞き、嫌悪感をありありと示した様子の異母兄に睨まれるも、やはりどこ吹く風である。
この寂れた離宮に女と第二皇子を閉じ込めたのは、他ならぬ皇帝である。何かしら、ナサニエルに負の感情があるはずだ。それは、本当の事だ。
しかし、とアレクシスは思う。それも、もう精算してしまっても良いだろう。寧ろ遅すぎるぐらいだと、感じていた。
この異母兄が知っているかは分からないが、父がある後宮の女にした仕打ちに思うところがあるのは、自明だった。それというのも、彼の好色ぶりがなりを潜めたのは、その女──ナサニエルの母が死んでから、そう経たぬ頃だったのだ。今更、その息子が社交の場に出てきたとて、目くじらを立てるような真似は出来まい。
「いまの彼女が来るかどうかなど、解らないだろう」
「来るね。これは俺の勘だが、皇宮での催しなら彼女は来る」
なんの根拠もないのに自信ありげな物言いに、ナサニエルは呆れて閉口した。
「もう素直になったって良いんだ。いや、そうするべきさ。今まで、父上や俺が奪ってきたものが多すぎる。欲しいなら手を伸ばせ。これ以上何も失うな、異母兄上」
「……おまえに手を貸すと言ったのは、俺だ。別に、これと言って後悔などしていないし、何を失ったとも思っていない。おまえが、責任を感じる必要は無い」
「わかってる」
確りと、皇太子は頷いた。ナサニエルは、そういう男だ。異母弟に部下として使われようが、失う物など最初からなかったと言っていた。
彼にとって、この箱庭を出て皇子として振る舞うということは、覚悟のいることだろう。それも、アレクシスは理解している。それでもこの異母兄には光が必要だと、思っていた。
昏い、血の跡のような瞳をしている。諦念と、自覚すらできない虚しさが、そこにいつも映っている。手を伸ばしてはいけない、何を愛しても幸せにはならないと、過去がいつまでも彼の裾を引いている。
既に、部下として散々使い潰して来たのだ。今更自分勝手だの押し付けがましいだの、分かりきったことだった。そもそも頑固な男なのだ、それくらいで丁度良い。
ナサニエルがステラ=ベイリーに拗れた想いを抱いているのは、気づいていた。
十年前。父母と姉と、話し相手兼側近見習いだったエドワードと、茶を飲んでいた時だった。不意に、父がおやといって中庭に出ていった。窓から外を見渡すと、肩甲骨程まで伸びた金糸を揺らす少女と、見たことも無い黒髪の少年が駆けて行くのが見えた。あとから、宰相が慌てて追いかけて行ったのが面白くて、幼い第三皇子アレクシスは笑っていた。
何のために、父が後ろめたい女との子の元にわざわざ行ったのか、未だに分からない。だがあの時の母は、酷く複雑な顔をしていた。当時はその意味がわからなくて、深く考えていなかった。
何年か経ち兄がこの世を去ると、味方が必要だったアレクシスは隔離された第二皇子の噂を思い出した。葬儀までの僅かな時間で、皇族の記録を漁った。そして、あの時の少年がナサニエル=モーリス=アインアデルであると知ったのだ。
その時既に、宰相ロベルト=ベイリーの末娘がお転婆だと言う話は有名だった。
第二皇子のその生い立ちから、ステラ=ベイリーが彼にとって特別な女性になり得るということは、予想していた。十七の誕生日、その背中を呆然と見送る姿を見下ろしながら、アレクシスは確信を得た。それを、エドワードも分かっていたらしい。全く、有能な部下ばかりで誇らしい。
それから少し、様子を見るために再会の場を用意した。ナサニエルは面白いくらいに動揺し、ステラまでそれを機に思い悩んで、大人しくなってしまった。その効果覿面ぶりは、今思い出しても笑ってしまう。
ステラがこの扇を落としたのは、最初の再会に次ぐ偶然だ。こう言っては彼女に悪いが、運が良い。クラークを牽制し、扇は皇太子命令で預かった。
アレクシスが返してもいいが、向こうも賢いから、前回仕組んだことくらいは気付いているだろう。彼女に対しては、もう少しとぼけていたい。
ならば、その想い人に手ずから渡してもらおうではないか。彼女の悩みの原因に一枚噛んでいる以上、そろそろ責任を取らねば可哀想だ。
「それじゃ頼みましたよ、異母兄上」
アレクシスはそう言って、足取りも軽く執務室をあとにした。珍しく慌てた様子でナサニエルが引き留めようとしたが、綺麗に見ないふりをした。
廊下を上機嫌に歩きながら、悪戯好きの正室の末っ子は、これからの展開を待ち切れなくて肩を揺らした。




