ナサニエル=モーリス=アインアデルという皇子(下)
それからの人生を、ナサニエルはその離宮で過ごすことに決めた。
元より他に行く所も、そんな気もなかった。十中八九陰謀が絡んだ不審死の起こった宮など、誰が近づくはずもない。客人などは殆どなく、ナサニエル自身もそれでよかった。
相も変わらず無口な使用人たちと、単調で静かすぎる日々を送った。時が経つ度、母を恋しく思っての涙も乾いていく。それでも心の何処かに、絶望という感情が残っていた。いつの間にか、笑顔など忘れてしまった。
仄暗い日々の中、ただ、初恋の記憶だけが胸の奥で輝いていた。忘れるどころか募るばかりのそれは大切で、煩わしくもあった。ずっとこの記憶を抱えたまま、そのうちに死んでしまえばいいと思っているのに、それは少年に皇宮の外の世界を思い起こさせる。
その度にナサニエルは、より深く閉じ籠っていった。
身の回りの事は最低限、自分で覚えた。そして十二になった頃、離宮にいた使用人の殆どを中央か後宮に異動させた。長くいた者が、数名残る希望を出してくれた。それすら、『優秀なのだからこんな不吉な所にいる必要は無い』と押し切った。
そうして箱庭には、週に数度だけ細かい掃除洗濯をする者と庭師、そしてじきに始まる公務の補佐を兼ねた執事一人だけが残された。母が好きだった紅茶を惰性で飲み続けるという他には、何のこだわりも持たない。そんな男が一人暮らすのに、そんなに人数はいらなかった。
母の離宮がより静かになり、より寂れていく。それが正解だったかなど、最早わからない。深く深く、誰の目からも逃れるようにして生きる事だけを考えていた。
兄弟姉妹たちと違って、結婚もする必要は無い。誰も、望まぬ血なのだから。ならば、この金色の恋慕をきっといつまでも抱えていられる。
『呪われた血』と、誰かが言っていた。きっと、ここではその通りなのだろうと思う。どんなに欲しいと思っても、母親のように不幸にするぐらいならこのままで良い。父親と同じ血が、ナサニエルは怖かった。
閉ざされた離宮の主が、やっと十四になった頃だった。一通りの教育を終えて、雑務に近い公務を請け負うようになっていたナサニエルの元に、秘密裏に一通の報せが入った。曰く──『第一皇子アーサー=グレイス=アインアデルが逝去した』、と。
その報せを持ってきたのは、いつも公務を言付かってくる中央からの使者だ。いつも無愛想な皇子が、会ったことすらない異母兄の死に倒れそうになる程動揺した様子を、彼は呆然と見ていた。
その死の原因が、皇宮勤めの貴族になど分かるはずもない。ただ、母とそう変わらぬ不審死だったと、使者は言っていた。
二週間後に十八の誕生日を迎えるアーサーは、それを祝う席で正式に立太子を発表される予定だったとナサニエルも聞いていた。そんな立場の者を手に掛けるなんて荒業が、なぜ通ってしまったのか。一体、誰が何を目的にしていたのだ。
一番頭に思い浮かびやすかったのは、第三皇子アレクシスだ。きっと、口に出さずとも誰もがそう思っていたのではないか。それが一番わかり易い。彼には、そこそこの力もあろう。
アレクシス=グレイス=アインアデルは、アーサーの同腹の弟──ナサニエルの出生後一年を待たず、皇后が漸く産んだ正室の皇子だ。しかし、とナサニエルは思った。
彼が皇太子の座を狙って、と言うには余りにも遅すぎる。とうに何年も前から、皇太子はアーサーと実質的に決まっていた。その事は、もう貴族社会にすら知れ渡っている事実だったのだ。手を打つならなぜ、立太子の日取りが決まる前にしなかった?
そんな事をいくら考えても無駄だということを、ナサニエルは既に知っている。母親が死んだ時、捜査団はたった一週間と少しで『自殺』と結論づけた。犯人など探した所で、その『結論』がひっくり返る訳でもない。ましてやその犯人が、強い力を持っていれば尚更。
ナサニエルの頭を、なんの意味も持たぬ思考ばかりが支配して行った。
姿を隠すようにして葬儀の端に参列し、陰鬱とした気分で離宮に戻った。
正室の皇女たちが棺に縋り付く姿と、一歩離れて宙を睨む皇子の姿が胸に引っかかっていた。まだ十三の皇子の背中を見て、何かを言う者もいた。長女らしき姫が、その肩を抱いて輪の中に引き入れて行った。
その様子を見ながら、ナサニエルは母を思い出していた。葬儀など行われず、弔いすらないも同然だった母。その程度の命、その程度の殺人。一国の立派な皇子の葬儀で、そんなことを考える自分にも吐き気がした。
アレクシスに掛る疑惑は、少なくともナサニエルの中では早々に晴れることになる。そのアレクシス本人が、先触れもなくナサニエルの箱庭の門前に現れたのは、その葬儀の翌日だった。
柔らかな茶色の癖毛と整った童顔、父親譲りの明るい青の垂れ目が可愛らしい、悪戯好きな正室の末っ子──それが、よく聞くアレクシスの評判だ。しかし、一礼して執務室のソファに腰かけた彼は、まるで別人かのように酷い顔をしていた。
顔色は悪く、明らかに疲労している。唇が乾き、垂れた瞼は、可愛いどころか窶れてみえる。ただそこに嵌った翳るサファイアだけが、ありありと怨みを宿していた。
「殿下……このような所に、一体どのような御用で──」
「敬語を使うのは僕の方です、異母兄上」
急な来客に戸惑いながら問いかけたナサニエルの声を、アレクシスが酷い表情のまま宥めた。ナサニエルの『皇子』という立場など、アレクシスのそれと違って吹けば飛ぶようなものだ。だから、ナサニエルは彼のことを殿下と呼んだが、彼はそれを受け取らなかった。
「急に押しかけて申し訳ない。失礼は、承知の上です」
「なぜ、ここへ。ここは……君が訪れるような所では」
ナサニエルは、躊躇いつつも敬語をやめて問いかけた。
「知っています。この宮で何があったか、あなたの出生も」
「……父上が?」
アレクシスは、首を横に振った。
「父上は、貴方と貴方の母君のことは絶対に話しません。だから、個人的に調べました。悪いとは思いましたが……」
「……」
どこかに、自分と母の記録は残っている筈だ。多分、皇族くらいしか入れない書庫か何処かだろう。そこまでして、自分に何をして欲しいのか。ナサニエルには、異母弟の意図がさっぱり分からなかった。
「頼みがあって、ここに来たのです」
アレクシスは、口を開いた。何処か頼りない少年の声だった。
「やはり、兄君に関わる事か」
異母兄にそう問い掛けられると、アレクシスは一瞬の間の後にはい、と言った。
「こうなった以上、皇太子の席は僕に回ってくるでしょう」
「そうだろうな」
当然だった。ナサニエルは継承権を放棄しているし、アレクシスは正室の最後の皇子だ。順当に行けば、そうなる。
「僕は、出来るだけ早く兄上の後を継がなければいけない。アーサー兄上は、立派な人だった。そんな人を失って……民も姉妹達も皆、不安なんです」
ナサニエルは、黙ってその皇子の話を聞いていた。
「僕はこれから、あらゆる事を頭に詰め込まなきゃいけない。でもそれだけでは、皇太子は務まらないでしょう?」
「……そうかもしれない」
俺にはよく分からないが、と。皇太子になる為の教育までは受けてこなかった捨てられた皇子が、小さな声で言った。
「大量の情報が必要です。次期皇帝として、正当な支持を得るために。僕が弱いまま皇太子に──皇帝になってしまったら」
そこで、無力な少年は言葉を切った。
「……まあ、国は傾くな」
はいと神妙に頷いて、アレクシスは続けた。
「陛下からの信頼がある貴族の支持が、必要なのです。そうして、真っ当な味方を増やしたい。貴方には、その為の情報を集めて欲しいのです。勿論、僕も努力します。でも今の僕ひとりでは、とてもやりきれないから。そして、その後は──」
迷いもなく、アレクシスは言った。恨みの籠った瞳が、ナサニエルを見ていた。
「──アーサー兄上の仇を討つのを、手伝って欲しい。無論、貴方の手は汚させません」
「……」
それは、敬愛する兄を失った少年の願いとしては、当然の物だったのかもしれない。しかし、とナサニエルは思う。母の記憶が、重たく肩にのしかかる。
アーサーの死は、『病死』で通る予定だという。そうなったら、覆ることはもうない。復讐を遂げたとて、それは順当な方法ではないだろう。そうなれば、新たな罪が生まれるだけ。ナサニエルはそれを、充分過ぎるほど実感していた。
後宮の卑しい女どころか、正室の皇子すら消してしまえる力が何処かにある。葬儀の有無などでその価値を比較していたのが、馬鹿馬鹿しくなった。死んでしまえば、同じだと言うのに。
「暗躍者になって欲しい、という事か」
沈黙のあと、ナサニエルは聞き返した。出来るだけ、不躾に聞こえないように気を付けた。既に充分に傷ついた、自分とひとつしか歳の違わない皇子を、これ以上追い詰めたくはなかった。
「不敬な──身勝手な頼みだと言うのは、分かっています。だけど貴方は顔も名前も割れてなくて、ある程度皇宮の事情にも明るい。人伝とはいえ、ただの貴族に比べれば圧倒的です」
ナサニエルは俯いた。腐っても皇子、という事だ。特に公務を行うようになってからは、嫌でも耳に入ってくる話だった。
議会の使者が言う噂話、何処ぞの貴族の不自然な決算報告。汚い話ばかりが、思い出される。
「このお礼は、必ずします。それがどのような形かは、まだ分かりません。ですが、必ず。どの派閥にも属さない、貴方にしか頼めない」
アレクシスは、少しばかり必死な気持ちを表に出して、そう言った。
礼と言われても、ナサニエルにはこれ以上望むものなど何もない。一瞬だけ、頭を金色の髪が掠めて行ったのを、必死に否定した。
その瞬間、実感してしまった。恐れていた、父親の血だ。戯れであれ愛であれ、罪もない美しい女性を、不幸にした男の。猛烈な吐き気がしたのを、必死に隠した。異母弟は、その間もこちらを見ていた。
「僕は、一日でも早く立太子したい。遅かれ早かれ、などと悠長なことは言っていられない。今この瞬間にも、発言権を得ようとしている貴族がいる──馬鹿で弱い、僕を使って。僕は、このままでいる訳にはいかないんです」
その言葉尻に、嫌悪が滲んだ。
「話は、わかった」
ナサニエルは、まだ胃が不快なのを堪え、やっと言った。アレクシスは、青い目を逸らさない。
「だが、復讐──仇討ちに、本当に意味はあるか」
アレクシスの目が、少し見開かれた。
「兄君の死の真相が知りたい、という気持ちは分かる。それを暴くこと自体は、罪じゃない。だが、そいつを殺して君に何が残ると思う」
本当は、答えて欲しかったのかもしれない。
ナサニエルは、何もしなかった。復讐を誓うことも、真相を暴くことも、怨むことさえ。ただ、ここで長い時間、傷が癒え涙が枯れるのを待っていただけだ。だから、知りたかったのかもしれない。怨みのその先に、本当は何があるのか。
「……わかりません」
しかし、異母弟はそう言った。
「そうだな」
ナサニエルは、しかしその答えを知っていたかのように頷いた。確かめようもない事だった。まだ、先の話だ。
「ならば、考えてみればいい。どの道、今すぐの話ではない。仇を見つけ、そいつを討つか討たないか、という時まで──俺も、そうしよう」
アレクシスが、その日初めて表情を緩めた。
その顔を見ながら、ナサニエルは思い出していた。母が、使用人すら手伝おうとしてしまうようなお人好しだったという事を。
その後、アレクシスは二年という短い時間で、立太子に漕ぎ着けた。その頃には、彼はいつも悪戯好きな皇子の笑顔を取り戻していた。少なくとも、そう見せていた。
アーサーの仇の話を持ち掛けたナサニエルに、彼は何故か、『もういいんだ』と言った。そうして、『だが、まだ議会での反発は大きい。もう暫く手伝ってくれないか』と、微笑みを貼り付けて訊いたのだった。
その頃には、ナサニエルの足はもう闇に捕らわれていた。人の醜い感情ばかりを見て、吸い込み続け、自分もすっかり染まってしまった気さえする。
決して出られぬ陰の中、愛しい光が遠くなる。ナサニエルは、自分の恋慕が、決して手の届かぬ者への不健全な信仰のように、歪んでいくのを何処かで感じていた。
◆
あの日と全く変わっていない、ナサニエルの執務室の机。その上に、山吹色の扇が置いてあった。握られるべき主人にそうされず、碌に陽も射さない部屋の中で、どこか寂しそうにも見える。
ナサニエルは、それに触れも出来ぬまま頭を抱えた。
あの異母弟は、何故ナサニエルがステラ=ベイリーに抱く感情を知っていたのか。いつの間に、察していたのだろう。
アレクシスは当然のように扇を押し付けると、もうソファーの方に戻って茶を啜っていた。ナサニエルは、小さく息をついた。
全く、嫌な異母弟を持った。いつもそうだ、この男は。どうせ、かなり前からナサニエルの感情を知っていて、今か今かと機会を伺っていたに違いない。年々、悪戯の趣味が悪くなる。
「相変わらずいい茶葉だなぁ、ここで出てくるのは」
呑気にそんなことを言っているアレクシスを、ナサニエルは忌々しげに睨んだ。




