ナサニエル=モーリス=アインアデルという皇子(上)
既に投稿されている話に出てくる年数の誤記を修正しました。
アレクシスが立太子したのは十四ではなく十五のときです。失礼しました。
「母上」
震える少年の唇から、やっとそう言葉が洩れた。視線の先には、不自然な状態で横たわる母親の姿があった。
高い壁に囲われた庭に鎮座する、白いテーブルと椅子。そのすぐ傍に、母は倒れていた。曇りのないその表情に、急に眠ってしまったのだろうかと少年は思った。しかし彼の赤い瞳は次の瞬間、確かに見てしまった。薄く紅を引いたその口の端から、一筋濃い赤が伝っていくのを。
後から来た執事が、顔面を青白にして大声で人を呼んだ。常に静かな離宮が、段々と騒がしくなっていく。そこかしこから響いてくる足音、怒声に悲鳴が頭の中で響いている。脳が揺さぶられるかのような感覚が、少年を苛む。
『暗殺』という言葉を、八歳になる彼はもう習っていた。誰に教わったかは、もう忘れた。だがその最も普遍的な方法は『毒殺』である、と。だからとにかく皇族は、食べるものには常に気を配るべきなのだと。
事切れるまで酷く苦しむ薬もあれば──眠るように安らかに、逝ってしまえる薬もあると。誰かが、そう言っていたのだ。
白い石で出来たタイルの上で、ティーカップが割れていた。こぼれた液体から、母の好きな紅茶の香りが濃く少年の鼻腔を侵した。それは強烈なまでに場違いで、少年は感じたことの無い不快感に襲われた。
一瞬、腹を殴られたかの如く嘔吐き、少年は意識を手放していく。
「殿下──」
視界が閉ざされるその直前、目が合った執事が駆け寄って何かを言った気がした。
◆
その女は、後宮で一番身分の低い女だったそうだ。
一体、何処からの血縁がそうさせたのだろう。彼女は黒曜石のごとく黒く長い髪と血溜まりを閉じ込めたかのようなルビーの瞳を持ち、一度見た者は視線を逸らすことが出来なかったという。恐ろしく、不気味で、しかし美しかった。
彼女の父は、元々爵位も持たぬ男であった。彼女は、辺境の小さな村に住むただの心優しい村娘だった。だから平和に暮らして居られたのに、それをどういう因果か、皇帝という立場の男が見つけてしまった。
今では名君と言われる皇帝は、若い頃は多数の妾を後宮に囲う好色の王だった。しかし、何処からか身分も相応しくない女を攫ってくるような真似をしたのは、後にも先にもこの一度だけだった。
それが若かった皇帝の戯れだったのか、それとも愛だったのか、今では分からない。
彼女は瞬きの間に、後宮に召し上げられてしまった。後宮は、貴族令嬢──それも、殆どが伯爵家以上の出身の女ばかりで成り立っていた。最低限の体裁を保つ為、彼女の父は取ってつけたように男爵位を与えられ、その出身は隠された。
そんな彼女が、後宮でどんな扱いを受けていたかなんて馬鹿でもわかる。それだけでも充分に不運であったのに、あろう事か召し上げられて早々に子を身篭った。
それは皇帝の正妃が、男の子に恵まれず悩んでいた折のことだった。王族の妻における『嫡子を産む』という役割は、一介の貴族のそれとは重みがまるで違う。国には既に一人正室の皇子がいたが、彼に何かしらの事情が生まれ即位できなくなった時の為に、下にも男児を産む必要があったのだ。
間が、悪すぎる。せめて女の子だったら、まだ良かったのに。あの時、顔をくしゃくしゃにして産声をあげる赤子をみて、誰もがそう思っただろう。女は、第二皇子を産んだ。
どこから拾われて来たかも解らない、全くと言っていいほど教養もなく、下賎の者という事だけが確かな女。それが、身の程知らずにも皇后を差し置いて、二番目の皇子を産んだのだ。後宮の女たちは、荒れに荒れたことだろう。
出産そのものが、隠れるようにして行われた。母親と同じ赤い瞳を持つその皇子に、卑しい村娘の旧姓を背負わせようとも、誰にも咎められなかった程だ。女は、自ら息子に名前をつけた。
ナサニエル=モーリス=アインアデル。それが、産み落とされた第二皇子の名前だ。
ナサニエルの出生は、すぐに皇帝に伝えられた。
皇帝は母子を離宮に閉じ込め、高い塀で囲ってしまった。それきり、一切の干渉をしては来なかった。そうさせたのは、彼女の人生を捻じ曲げたことに対する後ろめたさか、それともやはりひとつの愛情だったのか。無力な少年には、それを知る由もない。
ただ一つ、この隔離された箱庭だけが、彼の若い過ちの証だった。
その母は常に仄暗い離宮で、出来うる限りを尽くして息子を可愛がっていた。彼女が息子を愛せたのは、その子が自分の黒髪と赤眼を受け継ぎ、皇帝の面影をほとんど感じさせない程母親によく似ていたからかもしれない。しかしどんな理由であれ、少年は満たされた日々を送っていた。
息子の勉強が始まると、そのあとに庭でお茶をするのが母子の日課になっていた。高い塀が作る日陰の下、母のお気に入りの紅茶を啜りながら、その日習ったことをあれこれ話す。村育ちの母には新鮮な話が多くて、彼女は時々目を丸くしていた。
その姿は、微笑ましい親子そのものだった。口の硬さを重視して集められた宮仕えたちは皆寡黙であったが、きっとそんな二人をいつしか美しく思っていたことだろう。
時間は瞬く間に過ぎ去り、ナサニエルは八つにもなっていた。異母兄アーサーの次期皇帝としての地位が、実質的に確定するかという頃だった。
ナサニエルは、皇太子になりたいなどと露ほども考えずに生きてきた。ずっとここで少しの公務を手伝いながら、母と暮らすのだろうと思っていたし、それで良かった。アーサーは優秀だと聞いているし、自分のすぐ後にも正室の皇子が生まれている。第二皇子と言えど、庶子は庶子だ。それも、『相応しくない』血が流れた忌み子。ナサニエルの皇位継承権など、元よりあってないようなものであった。
少年は、その日も庭に向かっていた。先程聞いた、宵と明けにだけ見える金色の星の話を、早く母にも教えたくて小走りだった。執事が、後ろから見守りながら着いてきていた。
どさりと、鈍い音を聞いた。不思議に思いつつ、庭に出ると──母が倒れていた。美しいまま、しかし口から血を流して。
不吉な第二皇子の、身の程知らずと言われた側室の母が、死んだ。
最初から母を狙ったのか、それともまだ幼いナサニエルを母が庇ったのか、もう何も分からない。遺された独りぼっちの男の子には、何ひとつ伝えられはしなかった。ただ一つ確かだったのは、正室か後宮か、見知らぬ誰かの、積年の怨みや嫉妬──箱庭に囲われ、母の愛だけを受け取って育ったナサニエルには理解しようもない望みが、八年越しに叶えられたという事だけだ。
母が不審な死を遂げると、気持ちの整理もつかぬ間にナサニエルの身は中央の宮に移された。"捜査"の為だと、初対面の侍女から聞いた。
中央の宮では、ナサニエルはすっかり嫌われ者だった。そこで付けられた護衛も侍女も、皆彼を見て眉を顰め、渋々仕事をこなしながら陰口を言った。曰く、『卑しい女の息子』『不吉な皇子』、そして『不気味な見た目』。皇后が役目を果たせず嘆く間に、産み落とされた庶子の皇子。正室に仕える人間が良く思わないのは、不思議な事ではないのかもしれない。そう自分に言い聞かせ、ナサニエルは固く口を閉ざした。
誰かの声に傷付くのを耐える度、母の声を思い出す。
塀が陰を作り、ひんやりとした離宮の庭で、母はいつも温かい紅茶を飲んでいた。まるで寒い辺境の人がそうするように、両手でカップを包むように持ち、ふうと数回息を吐いてから傾ける姿が好きだった。例え、正しくはなくとも。
『おいしい?ネイト』
カップを置き、息子が行儀よく紅茶を啜るのを見届けてから、微笑みを深くしてそう尋ねる。少年は決まって、はい母上と答えた。ナサニエルは、それだけで幸せだった。父親に捨てられたも同然であっても、構わなかった。
中央の宮の人間が、その赤眼を強ばった表情で一瞥する度、優しい日々の記憶が音もない涙を流させた。眠れた夜など、一度もなかった。明るい時間に泣いてしまいそうになった時は、独りで慣れない中庭に出る。ナサニエルは、隠れるように人のいない所でだけ涙を流した。『母親が死んだのに、泣きもしない薄情な子』と、罵られようとも。
女たちの悪意を一身に受け、それでもナサニエルを産んだ母も、きっとそうしたのだろうと思った。
そうして、中央の宮に移されて一週間が経とうとしていた頃だった。少年は、一人の少女に出会った。
いきなり、背中から大きな声を掛けられた。吃驚して尻餅を付いてしまった彼の姿を少女は楽しげに、そして物珍しげに見ていた。
『ステラ=ベイリーと申しますの』
やたらと元気良く名乗られた、その名前。少年が宰相のそれを思い出すまでに、そう時間は掛からなかった。
円い金色の瞳が、くるくる動いて少年を全身見渡した。『不気味な見た目』という言葉が、頭に蘇る。ナサニエルは、つい視線を逸らした。しかし彼女は躊躇いもなく、きれいと呟いたのだ。少女はそれだけで、たとえほんの少しでも、いとも簡単に少年の心に触れてしまった。
ステラは顔面青白の宰相から逃げるように、ナサニエルの手を取って走り出してしまった。中庭を駆ける間、なんでもないような話をいとも楽しそうに話していた。
それは、ナサニエルでなければ何の得にもならない話だったのかもしれない。つまらない、と捨ててしまえるような話だったのかもしれない。
しかしそれは、独りぼっちの少年にとっては別世界のような内容だった。たとえ他愛のないものだったとしても、こんなにも明るい世界があるのだとその時少年は知ったのだ。自分がそこに行けるとは、思わないけれど。
それでもナサニエルはひとつだけ、許しを得たような気がした。忌み隠された存在だろうとも、どんなに謗られようとも、そこにあった大したことない日常を幸福と名付けても良いのだと。
初めて出た外の世界。壁のない眩い中庭で、人知れず少年が恋慕という感情を知った。
たった、一時間か二時間の間だった。それでも、その短い時間が、ナサニエルの目には眩しすぎた。彼女が軽やかに動く、その一瞬一瞬を瞳の奥に刻み込もうとして、必死だった。
ステラはまだ小さな手で、ナサニエルを引っ張って中庭を駆けていく。ひっきりなしに口を動かし、小鳥の囀るような声で時々笑う。家族のこと、昨日のティータイムでの出来事、好きな花の色と彼女の話題は尽きることがない。ナサニエルはそれを、羽根でも生えたかのような気分で聞いていた──そこに、ある男が現れるまで。
不意に、木陰に座り込んでいたステラの身体が浮いた。見上げると明るい青の瞳を持った賢そうな男がいて、ステラを抱えていた。後から息も切れ切れにやってきたベイリー公爵が、『皇帝陛下』とその男を呼んだ。
皇帝──つまり、ナサニエルの父親。少年は、男の眼を思わず凝視しかけて、慌てて目を逸らした。この赤い瞳を、彼に見られてはいけない気がしたのだ。
父は、知っていただろうか。人知れず育てられた、息子の名前を。閨を共にした女が、死んだということを。
可愛らしい顔をぽかんとさせて、宰相と皇帝の顔を見比べているステラを、ナサニエルは最後に一度だけ見た。そうしてから、音も立てずにそっとそこから逃げ出した。生まれて初めて見た父親のその目が、自分を捉えてしまうその前に。もしかしたら、無視をされたのかもしれない──それなら、それで良かった。
この髪と瞳を見て、父が何かを言うほうが余程怖かった。ナサニエルに引き継がれたこの赤眼が、聡明な彼を過ちへ導き、持ち主である女さえも不幸にした。再び、彼の目に触れてはいけない。
慣れない芝生の上をしばらく走った頃、恋情が一度だけ彼の首を振り返らせた。視線の先では、彼女が寂しげに少年の去った方向を見ていた。
やがて踵を返す父娘の姿を見送り、少年もまた、逃れ得ぬ現実へと帰っていく。結局、彼女に一言も返事を出来ぬまま。その日以降、少年が中庭に出ることは無かった。
それから早々に"捜査"は打ち切られ、ナサニエルは一人、母の遺した離宮に帰された。まだ八歳の少年に、離宮の全権が委ねられることになった。『捨てられた建物に、捨てられた皇子』と、誰かが言った。
母の死は、毒物による『自殺』として処理された。




