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皇太子の陰は金星の夢を見るか  作者: 袋小路 どうして
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山吹色の落し物


 「変わらないな、ここは」


 アインアデル帝国の皇太子アレクシス=グレイス=アインアデルは、そう言って長い脚を組みなおした。少々幼い印象を与える垂れ目に、明るい青の眼が嵌った綺麗な顔に、機嫌良さげな笑みを貼り付けている。話し掛けられた質素な黒いシャツのその『男』は、目線もくれずに書類に何やら書き込んでいる。

 ここは、広大な皇宮のどこかにある『男』の執務室である。長閑な昼下がりだと言うのに、窓から見える無機質な高い塀が、冷たく大きな影を落としていた。

 アレクシスは、先触れもなく来て下らない話ばかりしていた。彼はいつもそうだから、『男』は今更怒る気にもならない。

「そんなに久しくもないだろう」


 『男』は、アレクシスが女性物の扇を手に持っているのを、見ない振りしていた。扇そのものは上質な物なのだろうが、持つ者が男──しかもアレクシスでは、あまりに気色が悪い。アレクシスは、それで無意味に掌を打ったり、開閉を繰り返して眺めたりしている。

「昨日の茶会での落し物でね」

 訊いてもいないのに、アレクシスは言った。『男』は眉を顰めて、少しの間その手元だけを見た。緻密な山吹色のレースで出来たそれが、『男』に見せるように広げられている。

「昨日は、何処かの貴族の主催だろう。わざわざ持って帰ってきたのか?」

 理解が及ばない、といった様子で『男』は言った。主催に預ければよかっただろう、と言いたいのだろう。彼は、極力面倒なことはしない主義だった。

 しかし、アレクシスは解ってないな、と大袈裟に溜息を付いた。そうして照明に透かすようにして眺めると、満足気に笑みを深くした。

「素晴らしい品だと思わないか?」

「は?」

何が言いたいのか解らない。ありありと、『男』の眉根の皺がそう語っていた。

「良い品は、持っている女性(ひと)も美しいものだよ」

「……ローゼ嬢はどうした」

そう言われると、アレクシスは苦笑した。

「嫌だな、誤解だよ。芸術品を見るのと同じさ」

「……」

 『男』は、呆れて書類に目を戻した。ペンが紙の上を滑る子気味のいい音が、静かな執務室に響いている。

 アレクシスはそれから暫く、扇を色々な角度で眺めて仕切りに褒めていた。

「よく手入れがされている。可哀想に、きっとお気に入りの品だ。……なくされて、さぞ悲しんでいらっしゃると思わないかい?」

「そうだな。次の夜会の時にでも手渡すか、遣いでも出して返してやれ」

『男』は、素っ気なく言った。一方のアレクシスは、それを無視した。


 「しかし、昨日のクラーク侯爵子息は紳士(スマート)ではなかったな」

言われてみれば、そんな名前の貴族もいたな、と『男』は思った。返事をしない彼を気にもせず、アレクシスは嘆く。

「可哀想に」

慈悲深い皇太子は、またそう言った。態とらしい響きに、いい加減『男』は辟易して、今度はなんだと、ペン先を些か乱暴に納める態度だけで告げる。

「あんな風に酷い態度で──ステラ嬢に無理矢理、迫るなど」

 『男』が、目を瞠ってアレクシスの顔を見た。その顔を、楽しげにアレクシスが見ていた。そして、大仰に肩を竦めて見せた。

「助けようとしたのだが、間に合わなくてね。俺とした事が、情けないことだ。彼を振り払ったはずみに、落としてしまわれたのだよ──それにも気付かない程、怯えていた」

 『男』は、凍り付いた表情で男の手元を睨んでいた。眉を嫌悪に顰め、怒りか、それとも別の感情からか、ペンを握る手に力が籠っている。

 しかし、男はすぐに我に返ると誤魔化すように視線を泳がせる。また、紙に何かを書く音がした。

「ステラ嬢はここ数日、なにか思い悩んでいるようでね。すっかり元気がないのだよ。そんな様子に、惹かれてしまったんだそうだ──全く、相手の気持ちと性格を考えもしない上に、粘着質ときたものだ。酷いと思わないか?」

 アレクシスは、黙りこくった相手に再び訊いた。『男』は、しかし何も言わない。ただ、粗雑になっていく筆跡に、彼の苛立ちが伺える。

 『男』は、ステラ=ベイリーという公爵令嬢が、近頃何かしらの煩い事を抱えているようだと言う話を、もう知っている。何故ならば、底意地の悪いこの皇太子が、ことある事に彼女の様子を報告してきては、その様子を楽しむように、男の顔を観察するからである。

「それに比べて、ステラ嬢は素晴らしい。強く、芯のある女性だ。怯えてはいたが、それでも俺の手など、借りるまでも無かったんだ」

 急に純粋な声を出し、アレクシスは言った。一瞬だけ、『男』が書類を捌く手を緩めた。


 「ステラ嬢の所に、縁談が舞い込み始めた」

 しばらくの沈黙の後、アレクシスが真面目腐った声で言った。ずっと紙の束に目を落としていた『男』の肩が、強ばる。

 『男』はすぐに、書類に向き直った。机に置かれたそれも、もうあと数枚しかない。

「……そうか。だが、俺には関係の無い話だな」

冷たい声で──少なくともそのつもりで、『男』は言った。しかし、アレクシスは宥めるように片手を軽く掲げる。

「安心しろ、まだ決まった訳じゃあない」

 余りにも、噛み合わないやり取りであった。だが確かに意味があったのか、『男』が警戒したように、じとりとアレクシスを睨む。

「宰相殿が、全部潰しているよ。本人の耳に届ける前にね。元気の無い末娘を、いたく心配しての事だそうだ」

「……そうか」

 細い指が、紙を一枚捲った。


 「人目につかずに近づくのは、お手の物だろう?」

 アレクシスがそう言うと、『男』が、訝しげにアレクシスを見た。

「どういう意味だ?」

「君が、これを渡してやってくれ」

アレクシスは、山吹色の扇を掲げて見せた。

「意味がわからないが」

 またも『男』の険悪な声を無視し、アレクシスは再び手元のそれに見入る。

「彼女らしい、可愛らしい柄だね。きっと、御家族が悩みに悩んで選んだに違いないよ。戻ってこなかったら、辛かろう……」

 アレクシスが、また扇のレースを褒めた。ただでさえ痛ましいご様子だと言うのに、と彼は眉を八の字にしている。

「……だから、おまえが、次の催しで返してやればいい。面倒なら、エドワードを使え。それが一番早い。俺の仕事じゃないだろう」

「要するに、切掛けの話だよ」

 如何にもやっと本題だと言った調子で、アレクシスは遮るように言った。もう気取っても巫山戯てもいない、そんな声だった。

「何が、言いたい?」

『男』は、番犬が唸るように言った。瞳が、揺れている。

「今はまだ良い。でも、もう時間は殆ど残されていないぞ。相手は有力な公爵の娘だ。それも、建国以来の名家の。数件断わった所で、彼女がちょっと真面目にすれば、欲しがる貴族は腐るほどいる。そうじゃなくたって、公爵の方から打診すれば、拒否する奴はそうそう居なかろうな……そんなこと、もうわかっているだろう?」

「……そうなった所で、俺には……」

「では、このままみすみす奪われるのを、黙って見ているつもりか?……ありのままの彼女を受け入れもしない、馬の骨どもに」

 ステラ=ベイリーに、これまで縁談がなかった理由は何か。一重に、その規格外の行動力だ。それを受け入れられるような貴族の男がいたならば、彼女の婚約は早々に決まっていた筈だ。

 しかし、彼女が何かに苦しんで大人しくなった途端に、その清らかな身を、初代皇帝が側近の血と共に寄越せと、手を伸ばしてくる者たちが現れたのだ。『男』は狼狽しつつも、顔を歪めた。

「クラークの息子のような男が、ごまんといるぞ。俺は、初めてあんなに怯えるステラ嬢を見た。……あそこに居たのが君だったなら、どんなに良かったか」

 『男』は、何も言わない。ただ、いつの間にか机に置いた手を、血が出そうな程にきつく握っていた。

「宰相にいい顔をして取り入って、結婚なんてされてみろ。いくら逃走魔のステラ=ベイリーとて──逃げられない」

 脅すように、アレクシスは続けた。それから、ふっと表情を和らげ、立ち上がると『男』の執務机に近づいた。

 『男』が、嫌な汗をかいた顔を上げ、アレクシスを見る。迷いと、憤りと、悔しさと、それからどうしようもない愛情が混ざりあった感情が、背筋が凍る程に端正なその顔を歪ませていた。

 皇太子は、ことりと音を立て、執務机に美しい扇を置いた。

「そろそろ、素直になれ──異母兄上(あにうえ)


 「……アレックス」

 皇太子に兄と呼ばれた、その『(ネイト)』──ナサニエル=モーリス=アインアデルは、黒曜の前髪の下、鮮血を固めたような赤眼を苦しげに細めていた。


暫く、この二人の話が続きます

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