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皇太子の陰は金星の夢を見るか  作者: 袋小路 どうして
10/23

痛覚


 立て続けだった皇宮での催しも、今ではすっかり落ち着いている。家に届く招待状も、貴族家からのものだけだ。だから、ステラ=ベイリーは『皇宮を歩き回るな』という警告に、素直に従う事になっていた。

 暇さえあれば、あの男(ネイト)の事ばかり考えていた。ステラの大事な思い出の、あの少年。美しい初恋の、その人である。

 煩う気持ちを繕いきれずに、家族に心配をかけている。この数日、父と兄たちがずっとステラを気にして、気を揉んでくれているのを知っていた。それでも、ステラはどうしても、いつも通りに振る舞いきれない。罪悪感が、ちくちくと胸を刺し続けていた。


 今日は、曇っている。重たそうな雲が、陽の光を遮っていて、昼間だと言うのにはっきりとしない明るさだ。

 ステラは、樟んだグリーンのデイドレスを着て、とある有力な侯爵家の茶会に参加していた。

 昼頃、茶会に出掛けると言うと、ウィルバートが何故か躊躇った。理由を訊いても要領を得ない答えだったが、きっとまた、悩む妹を心配してくれたのだと思う。結局ステラは、それを押し切った。そんな彼女に、ウィルバートは『顔だけ出して帰っておいで』と優しく言ったのだった。

 家にいると、皆が落ち着けない。ステラはそう思って、ここ数日の間は茶会にも夜会にも、文句を言わずに出席した。出来るだけ、ひとりで。パートナーが居なくて笑われるのは、元々平気だったのだ。

 政治家の卵たちも騎士も、いつも着いてこようとしてくれる。それも、ご多忙でしょうと言って何か頼めば、引き下がっては来れない。

 それは彼女なりの気遣いのようで、半分は、罪悪感からの逃避でもあった。


 今日は挨拶すら、する気にならない。ステラは、目立たぬ隅の席で、味のしない紅茶を啜った。黙っていると、いやでも他人の会話が耳に入ってくる。

 『──ご退位が本当なら、いよいよアレクシス殿下がご即位なさるのね』

『ええ。アーサー様はお可哀想だったけれど、殿下ならきっとご遺志を継いで下さるわ』

『そうですとも。これでやっと、アーサー殿下の魂も報われる事でしょう』

 どこかから、馴染みの噂話が聞こえる。ステラは、もう耳にたこができる程聞いた話に、立ち所に暗い気持ちになった。

 哀れな第一皇子の命は、もう貴族の雑談の種にしかならない。ひそひそと話す声は、もの悲しげな色を浮かべながらも、どこか楽しそうでもある。大したことの無い娯楽のように、声に出されては二言三言楽しまれて、話題が変わってしまえば、取ってつけたような悼みさえ嘘のように消え失せる。失われた命など、その程度のものなのか。

 俯いた視線の先で、薔薇の紅い茶の水面が揺れていた。


 アーサー皇子の話を耳に挟む度、あの夜の、ネイトの全てがまざまざと蘇る。

 昏い、疲れた眼でステラを見て、僅かに縋るような色を込めて、彼が残して行った言葉。彼はその眼で、何を見てきたというのだろう。同じ世界に踏み込ませまいとする、確かな意図がそこにあった。

 『たとえ、もう会えなくてもだ』

それは、濃い悲哀が滲んだ言葉だった。まるで、それまでの時間を惜しむように、視線をじっと逸らさぬまま、彼は言った。

 望まれない再会だったと、絶望した後に僅かに残された優しさ。それは寧ろ、ずっと痛み続ける引っ掻き傷のように、ステラの想いを掻き立てるばかりだ。

 あのまま突き放されていれば、いつかは、終わったものと受け容れられたのかもしれない。名前など教えることは無いと言われていれば、手首に残る体温を、こんな風に思い出さなくても良かったのかもしれない。訊かなければ、良かったのかもしれない。

 もう、何もかも遅い。この恋が終わる日は来ないと、日に日に強くなる思慕が訴えていた。もう会えないならどうして、優しい声と温度を、ステラの身に残して行ったのだろう。それは酷く、残酷な事のように思えた。

 あの夜の再会は、仕組まれたものだったのかもしれないと、ステラは薄々思っている。しかしそれも、胸の痛みを飛ばす程の問題ではなかった。


 『第二皇子殿下は、なんでも母君が自殺を遂げられて、心を閉ざしてしまわれたのですって』

『ええ、知っていますわ。でも、本当に自殺なのかしら。なんでもそのご側室様は、ほかの姫君たちと違って身分が……』

『シッ、駄目よ!皆、黙っているのよ──』

 何処かで誰かが、今度は第二皇子の話をしていた。

 どこか上擦ったような声で繰り返される、命の話。誰も、噂話という以上に気に留めないし、紙に書いて覚えておこうとも思わない。虚構であろうが、構わない。ステラは、確かにこれでは紙一枚にも満たない軽さだと思った。

 (もう、帰ろう)

募る気持ち悪さに耐え切れず、ステラは立ち上がった。


 外に出ると、煩わしい小雨が降っていた。扇で翳る表情を隠し、ステラは玄関の階段を降りた。始まったばかりの茶会を去ろうというものは、ステラ以外にはいない。

 そうして、庭を通り抜けて敷地を出ようとした時だった。ステラの耳が、小気味よい足音を聞いた。

 反射的に、振り返る。皇太子の誕生日の夜、彼の脚が起てたそれが、勝手に重なってしまった。

 ステラは、そこに立つ青年の笑顔を見て──酷く、後悔した。

「……もうお帰りですか、ステラ=ベイリー嬢?」

 そこには、見知らぬ青年が立っていた。いや、もしかしたら、何処かで顔を合わせているかもしれないが、そんな些細なことを思い出せるほどの余裕はない。

 青年は、ステラが訊く前に自らの名を名乗った。どうやら、この家の当主の息子らしい。クラーク侯爵家、とか言っていた。ステラは、必要最低限の情報だけを拾った。

「ご挨拶も申し上げず、失礼致しました。少々、体調が優れませんの」

 だんだんと、雨が大粒になって来ている気がする。早く、帰らせて欲しかった。

 しかし、青年がそれを阻むように近付いて、ステラの頭上に開いた傘を差し出した。

「それはいけませんね。中で休まれていかれては?部屋を用意させましょう」

「……いえ、自邸はここから遠くありませんから」

 ステラは、僅かに違和感を覚えた。なんだろう、この男の声に宿る、生温さは。同じ傘の中、妙に距離が近かった。それが不気味で、ステラは一歩後ずさった。しかし、丸みを帯びた傘が頭にぶつかって、それを阻む。

「おや、冷たいのですね」

 クラーク侯爵子息は、寂しげに眉を下げた笑顔で言った。

「僕はね、ステラ嬢。貴女を諦めきれないのですよ」

「……え……?」

この男は、何を言っている?

「残念ながら、宰相閣下直々に断られてしまいましたがね──僕と貴女の、縁談は」


 ステラは、ひゅっと息を呑んだ。今、なんと言った。縁談?

 父親の背中が、目の前に浮かぶ。続けて、暖かい屋敷で、ウィルバートがステラを引き留める声が蘇った。

「……お父さま、お兄さま……」

ここに居ない家族を呼ぶ、消え入りそうな声が、唇の間を零れていった。

 彼にはそれが聞こえなかったのか、それとも無視をしたのか。子息は尚も声に熱を籠らせ、ステラに詰め寄った。

「この数日の貴女は、とても美しかった。その金色の瞳が、仄かに俯いて憂いを帯びる様に、僕は心を奪われてしまったのですよ」

 目の前の青年が言うことを、ステラはもう理解出来なかった。ただ、感じたことの無い嫌悪感だけが、急速に背筋を這い上がって行った。

 彼は、ステラに何を望もうと言うのだ。ステラは、彼が思うような女ではない。

(怖い。お父さま、お兄さま。……会いたい、ネイト!)

「ごめんなさい」

 自分でも驚くほど、冷たく鋭い響きだった。気づくと、その傘の柄を、手で乱暴に払っていた。髪が乱れるのも構わないで、ステラは素早く踵を返した。未だ忘れられぬ体温の残る手首を、令息が咄嗟に掴もうとした。しかし、既の所で空を切る。

 男が、何かを叫んだ気がした。

 ステラの気付かぬ背後で、明るい青が光っていた。


 ステラは、振り返らずに走った。だんだん強くなる雨が、顔に当たる。

 その間ずっと、幼い少年の赤い瞳が記憶の中で煌めいていた。ありのままのステラを受け止めて、仄かに、頬に喜びを灯して。

 恋がこんなにも痛みを伴うなどと、誰も教えてくれなかったではないか。血の止まらない、治らない深い刺し傷のような、生々しい痛みだった。

 ステラの恋は、華やかな令嬢たちの口や、興味もないのに読んだ小説が語っていた程、綺麗なそれではなかった。それでも、愛していると思った。

 堪え続けたステラの涙が、ついに人知れず流れて行った。


 お気に入りの扇を落としたと気付いたのは、乗合の馬車に乗り込んでからだった。



 自邸に帰ると、一番最初に会ったのは、書庫から出てきたロナルドだった。彼は、髪は乱れているわドレスは濡れているわで酷い状態のステラを見て、酷く顔を歪めたが、何も言わずにその肩を優しく叩いた。

「おかえり」

「……お兄さま」

 ただいま帰りました、と言った声が少し上擦ってしまったが、ロナルドは眉を上げて気付かぬ振りをした。そして彼が湯を沸かしてくれ、と侍女を呼んだはずが何故かウィルバートが飛んできて、後から来た侍女と共に顔を真っ青にしていた。


 ステラは、あまりの安堵にその場にへたりこんで、力なく笑った。


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