ステラ=ベイリーという令嬢
年数の記述に誤りがあったので、あとから微修正しています
『さっきのは、わたくしのお父さまですの。ここでお仕事をしていて、とーっても偉いんですって!ウィルお兄さまがそう言ってましたわ。あ、ウィルお兄さまっていうのは、本当はウィルバートと言うのですけど、一番上のお兄さまですの!ステラ、お兄さまが三人もいますのよ!すごいでしょう?けんかもしますけど、みんな仲良しですわ。お夕飯のあとに、お茶をのみながらお喋りをしますのよ。それから──』
少女は、絶え間なく話し続けていた。話したいことが多すぎて、急がないと話し切れないといった様子で、金色の眼をキラキラさせながらあれやこれやと話題を選んでいるようだった。
少年は、その様子をただ熱心に見つめ、時折頷いていた。磨いたルビーを嵌め込んだような瞳と、年不相応に隈の浮いた下瞼が、少女の視線を追う度に小刻みに動く。
傾いた陽に照らされる庭を走っては、時折整えられた垣根の影に座り込み、お喋りをする。少し風が吹くと、どこからともなく花弁が舞う。ふたりはお互いの顔の周りを柔らかい春の花が撫ぜていくその様子を、まるで時間が止まったかのように眺めていた。
それは、既に遠い日の記憶であった。いつかまた会えると信じて、大事に刻み込まれた美しい思い出。どれ程時間が経ち、彼のいないこの城に来る度酷く退屈に思えても、捨てきれない望みでもあった。
会いたいと言った言葉が、喧騒に掻き消えていく。浮かない顔をしたかつての少女を置いて、煌びやかな世界は廻っていく。
彼女は思う。胸に残るこの暖かい光と切ない苦味こそ、「初恋」という感情であっただろうと。
◆
「お兄さま方……これは一体、なんですの?」
金色の装飾が、シャンデリアの光を眩いほどに反射している。着飾った紳士淑女の笑い声が洩れる中、華やかな宴の会場に全くそぐわない無粋な声が聞こえた。
不機嫌を隠そうともしないその令嬢の左右には、真面目そうな男二人がぴったりとくっついている。細身と言えど、むさ苦しい。何処ぞのご令嬢がこちらを見て、まぁベイリー公爵家の方々はいつも仲が宜しいわねと聞こえよがしに言った。それが本心であれ嘲りであれ、ステラ=ベイリーは恥ずかしいことこの上なかった。
「なんだとはなんだ?十五にもなって結婚相手も見つからないおまえのためを思って、兄様たちはこうして夜会なんぞに出てるんだぞ」
ステラの右側に立つ次男のロナルドが、いかにも仕方が無いというように、声を抑えて言った。ステラはすかさず、その賢そうな横顔を鋭く睨んだ。この二人は、よく喧嘩をする。
「頼んでおりませんわ、ロニーお兄さま!そんなにお勉強がしたいならば、わたくしを置いてさっさと帰れば良いではありませんの!それに婚約者のことなら、お兄さまもまだでしょう?わたくしよりも、ご自分の心配をなさったら?」
小声で棘のようにまくし立てていると、左側からまぁまぁと宥める声が聞こえた。苦笑しながら妹の減らず口を遮ったのは長兄のウィルバートである。
「よしなさい、二人とも。ロナルド、折角ご招待を頂いたんだ、そんな風に言っては失礼だろう?……ステラ、これは父上からの言いつけでね。最低限、挨拶を済ませばいい。もう少しだから、我慢しような」
彼の落ち着いた性格は流石公爵家の嫡男と言うべきところだろうが、如何せん妹に甘いというのが玉に瑕であった。ウィルバートは政治家の卵としては文句なしに優秀で公平な男であったが、彼女にだけは強く出られない。
格差のある言い方に、ロナルドは苦い顔をした。
ここは、西の大陸で一番の国土を誇るアインアデル帝国の皇宮である。
アインアデルでは歴代の皇帝の指揮下で盛んに遠征が行われ、結果として現在でも大陸の大半を治める大帝国として君臨している。しかし、数代前の賢帝により周辺の小国との友好関係が結ばれ、それ以降は平和な治世が続いていた。
今夜は、その帝国の皇太子アレクシス=グレイス=アインアデルの生誕を祝う夜会が開かれていた。
第三皇子のアレクシスが十五で立太子して、もう二年が経つ。
近頃皇都では、『どうやら皇帝が皇太子の成人を待って退位すると仄めかしているらしい』と噂されるようになった。茶会でも夜会でも、ひそひそと高位貴族が話す声が聞こえる。
新たな皇帝の側妃の座を狙う令嬢や、彼に気に入られて確固たる地位をと望む貴族たちの眼が光り始めていた。
ステラの父親であるロベルト=ベイリー公爵は、『皇帝の右腕』とも呼ばれる帝国宰相だ。この平和を維持するため、この国では政治に関わる者の質が何よりも重要視される。
ベイリー公爵家は、国を立ち上げた初代皇帝の側近の、直系の血筋である。 代々皇家との信頼関係を築き、優秀な政治家を排出してきた名門貴族。それがベイリー公爵家の肩書きであった。
父の立場上、皇宮で開催されるような大規模な催しにステラたちが招待されないということは、まず無い。
だから「ベイリー公爵家の賑やかなご兄妹」というのは、もうすっかり夜会お馴染みの存在であった。尤も、この兄妹が賑やかなのはひとえにステラのせいで、兄達としてはもう少し大人しくしていて欲しいのだが。
「呆れた。お父さまったら、両脇を兄に固められた娘など誰が好んで近づきますの……。婚約者候補を探すためと言うなら、全く逆効果ですわね」
拗ねたようにぶつくさ言っているステラを、ロナルドは監視するようにじっと見つめている。父への強い憧れからか、ロベルトはいつも淑女らしからぬ彼女に厳しい。
「おまえが気に入ればいいんだよ。父上を誰だと思ってる?この国の宰相だぞ。相手の血筋さえまともなら、あとはどうとでもして下さる」
妹は仏頂面のまま返事をしない。ただ、目出度い空気に包まれた豪奢な宴の会場を退屈そうに睨んでいた。
ステラは、今代のベイリー公爵家の末の子にして、夫妻に産まれた唯一の娘である。上の三人は全員男であったから、娘が生まれたと社交界に知れ渡った時は少しばかり話題になった。
身分が高ければ高い程、早いうちから婚約者をあてがうことも多いこの国では、この家を知る誰もがその娘の成長を楽しみにしていた。そして、その期待通りの娘にステラは成長した……と、思われた。
ステラは、母親によく似て、明るく一切のうねりのない金色の髪と大きな同色の瞳をもち、白い肌につんと高い小さな鼻のついた可愛らしい顔立ちをしていた。
黙って立っていたら誰もが何とも可愛いご令嬢だと思うだろうが、その実、彼女は規格外のお転婆であった。
貴族の嗜みと呼ばれるものは、お茶会から父が用意した見合いに至るまで全て気に入らない。大人しくしているのが何より性にあわないのである。貴族にありがちな腹の探り合いも、好きでない。
座らせたと思ったら、ほんの一瞬目を離した隙に脱走する。
おまけに、恐ろしいほど口が回るのである。そんな状態だから、変わり者のステラは十五になった今でも相性のいい夫候補を見つけられていない。
貴族の夜会や茶会は、婚約者探しの場という側面を持つ。血筋と地位への執着を強く持つ彼らにとって、結婚は義務である。
この国では成人年齢は十八で、女性は十六で結婚が許される。特に貴族社会では、女性は十六からの短い数年が適齢期というのが一般的な認識であった。十五歳のステラにとっては、それまであとわずか一年もない。男なら女ほど適齢期に振り回されはしないのに、と彼女はよく文句を言っていた。
なんだかんだと言いつつ、公爵は最愛の妻によく似た末娘が可愛くて仕方がない。病で入院している母を除けば、政治学マニアが三人と騎士が一人。普通ならば堅物ばかりの一家が、いつでも朗らかなのは彼女のおかげだというのは確かであった。
公爵は、出来うる限り本人が望む通りの結婚をと願う一方で、大事な娘に行き遅れという醜聞が付くのも耐え難く、常に頭を悩ませていた。彼女には、もうあまり時間がない。十六ですぐに嫁ぐかどうかはさておいても、どうにかこうにか、相手だけは見つけておきたい。
だから、大規模な夜会や茶会に呼ばれる度に、積極的にステラを送り込んでいた。
しかし、全くどうやって年々厳しくなる監視の目を掻い潜るのか、彼女はそれを尽く抜け出してしまう。その破天荒さからか、常に家族の誰かしらがエスコート兼見張り役として目を光らせているからか、未だに彼女に春が訪れたなんて話は一向にない。
今日もこうして、渋るステラの身支度を無理やり侍女に任せ、皇宮の夜会に引っ張ってきたわけである。しかし、複雑な父の思いを知ってか知らずか、ステラはずっと口を尖らせていた。
「僕達がこうして見張って大人しくさせておけば、きっと誰かが気に入ってくれるさ」
「そんなの、評価されるのはわたくしの見た目だけではありませんの!全然嬉しくありませんわ!」
まさに、ああ言えばこう言う。ロベルトはうんざりして、兄になんとか言ってくれと助けを求めた。
ステラは、決して淑女の振る舞いが出来ないという訳ではない。嫌々でも、宰相の娘としてそれなりの教育──ステラ曰く、『家庭教師の授業は一対一なので抜けにくい』──を受けている。だから、貴族とまともな会話をしようと思えばいくらでも出来るのだ。ロナルドはよく『やれば出来るのに』とぼやくが、それにはウィルバートも心底同意していた。
何がそんなに嫌なんだ、全部ですわといよいよ収拾がつかなくなってきたふたりの応酬にウィルバートは困り果てていた。こうなると、なかなか終わらない。どうしたものかと考えあぐねていると、悠々とした足取りで近づいてくる背の高い青年の姿を、視界の端に捉えた。
「やあ、ベイリー公爵家のご兄妹。相変わらず賑やかなようだね。ルイセント殿は、何処かの警備かな?」
「御機嫌よう、皆様。お元気そうで何よりですわ」
いかにも貴族令嬢然とした華やかさの女性を伴って現れたのは、朗らかな微笑みを浮かべた美丈夫だった。
その親しげな声と対極に、ウィルバートとロナルドは弾かれたように姿勢を正した。それを余裕綽々と片手で制す姿は、まさに今夜の主役と言うに相応しい。彼こそ帝国の皇太子、アレクシスであった。その隣で優美な挨拶をするのが、彼の婚約者のローゼだ。
誰が見ても、嫉妬すら湧きようのない美男美女である。ステラたちの周りで、興奮とも感嘆ともつかぬ声がいくつかあがった。
ロナルドは先程の言い合いを聞かれていたらと思うと、顔から火が出そうだった。一方、ステラはけろりとして御機嫌よう!と元気なお辞儀をしている。彼は、元気すぎる末妹がこの勢いのまま口を滑らせて不敬をしないかとハラハラしていた。何しろ、ステラは肝が据わっていた。
「今夜はこのような素晴らしい席にお招きいただき、感謝致します殿下。レディ・ローゼにまでご挨拶を頂けるとは、光栄です」
「本日は天候もよく、まさに殿下の御生誕をお祝いするのにこれ以上なくよろしい日で……。本当におめでとうございます。ルイセントは、中庭付近におります」
「この度十七歳となられたこと、心から御祝い申し上げますわ、殿下。ご聡明な殿下がまた一つご立派になられて、帝国も益々繁栄して参りましょう。……ところで、今夜はとても星が綺麗ですの!殿下、後ほどローゼ様とおふたりでバルコニーに出られては?お誕生日にお美しい婚約者様と星を眺めるなんて、とても素敵だと思われませんこと?」
口々に挨拶を述べる兄妹を見て、アレクシスは笑みを深くした。
彼は、どうやらこの一家をいたく気に入っているらしく、皇宮で催しがある度に必ず挨拶をしていた。本心を隠し、腹の探り合いがものを言う貴族社会では異質とも言える微笑ましさが、そうさせるのかもしれない。それでいて、決して愚かではないことも。
「まあレディったら。でも、確かにそれはロマンチックですわ。宜しければ、ダンスの前にお付き合い頂けませんこと?殿下」
「勿論だとも、ローゼ」
そう返事をするアレクシスの笑顔は、まさに万人を釘付けにするそれであった。今代の皇太子といえば、優秀なばかりでなく婚約者と仲が良いことでも有名である。ステラは、視線を捕らわれて力が抜けているロナルドを盗み見て、とても引いた。
「三人とも、来てくれて良かった。是非、楽しんでくれたまえ。後程また会おう。……では行こうか、ローゼ」
ええ、という軽やかな返事と同時に揃いのドレスの裾が翻る。ウィルバートとロナルドは去っていく姿すら美しい麗人たちを、感動さえしながら見送った。
「……おまえも、ちゃんとしてれば皇家にだって……」
「ロナルド、不敬だぞ。さて、殿下へのご挨拶も済んだことだし一旦食事でもしようか、ステラ……ステラ?」
まだ艶やかなふたつの背中を目で追いながら思わず零しかけたロナルドを諌めて、ウィルバートは視線を右下に戻した。しかし、そこには磨かれた大理石の床があるだけであった。それに気づいたロナルドの顔色が、いっそ面白いほど変わっていく。
つい先程まで二人の間にいた末妹が、忽然とその姿を消していた。